驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
香港、香港トレセン学園メディアルーム。
フラッシュが瞬く。
14名の出走者が並ぶ壇上中央に座る私へ、司会者が最初の質問者を指名した。
「英国遠征ではキングズスタンドS、ゴールデンジュビリーS、ジュライカップを制覇。さらにカルティエ賞最優秀短距離ウマ娘も受賞されました。改めて今年の遠征を振り返っていかがでしょうか」
定番の質問だった。
「非常に実りの多い遠征でした。ですが、それも明日のレースとは別の話です」
わずかに会場が静まる。
「私は香港スプリントを勝つためにここへ来ました」
次の質問。地元香港の記者のようだ。
「(貴女が一番人気だが負ける可能性は?)」
「もちろんあります。いみじくも言われるように、レースに絶対はありません」
そう、レースに絶対はありはしない。だが、ここだけは負けてはいけない。
記者の表情からして求める答えとは違ったようだが、そんなことは関係ない。
続く質問は英国の記者のようだ。
「(これだけのシーズンを送れば引退するウマ娘も多いと思います。あなたを動かしているものは何ですか?)」
引退、か。考えたこともなかった。
「今は眼の前のレースに集中しています」
続く質問も欧州系のようだ。
「(ロイヤルアスコットとジュライカップを制した今、香港はあなたのキャリアの中でどのような位置付けですか?)」
「位置付け、ですか」
しばし考えを巡らせる。
日本ウマ娘の悲願を背負って、などという柄ではない。
グローバルスプリントチャレンジ完全制覇へ、というのも無くはないがしっくりこない。
……超えるため。あの日の、背中を。
そこまで思い至ったところで思考を打ち切る。
「最後の、未踏峰です」
それで、その頂にたどり着いたら?
その先は考えないことにした。
控室は静かだった。
外では既に観客が集まり始めているはずだ。歓声もアナウンスも、厚い壁越しには遠い。
今頃コースでは2つ前の第3Rロンドンハンデキャップが発走を迎えているだろう。
この香港国際競走の日には、G1の4競争に加えて世界6都市の名前を冠したハンデキャップ競争が行われる。
姿見の前で、私は勝負服ケースを開いた。
見慣れた赤。
譽高き赤い軍服、必勝を誓う白襷。
最初にこの勝負服を見た日のことを思い出す。
理想としていた強さの象徴。そうありたいという願いを込めた装い。
バクシンオーさんのエポレット。
フライトさんの靴のリボン。
憧れを縫い込んだ鎧。
今となっては随分と様変わりした。
上着に袖を通す。
鏡の中の私は、もうあの頃のルーキーではない。
胸元へ略綬の付いたリボンバー順々にを差し込む。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
勲章というものには、レースには格というものがある。
旧八大競争である桜花賞が一番格が高い。それに並ぶ春秋スプリントとマイルの記念章が一番上。
続いて新しい順に高松宮記念、そして連覇のⅡのピンがついたマイルCSとスプリンターズS。
その下に最初に獲ったシニア混合戦、安田記念。続くは限定戦で一段落ちるVMとNHKマイルC。
一番下に来るのが英国のレース3つ。実際の勲章でも外国君主からの授与は自国より下に来るのがプロトコルだ。
リボンバーの金具が収まるたび、小さな音が鳴る。
それは勝利の数。走ってきた距離。
踏みにじってしまった夢の数でもあった。
勝ったG1は12、勝ったレースは17。人数で言えばのべ250は越えるだろう。
だが、その重みには慣れなければならない。トゥインクルシリーズはそういう世界だと、知った上で走り続けてきたのだから。
続いて勲章。
URA年度代表ウマ娘章にカルティエ賞短距離章。
外してしまおうか、と考えたこともある。
だが結局、一度も外したことはなかった。
これは私のものではない。
期待の証だから。
襷を肩へ掛ける。真っ白な布をしごき、皺を伸ばす。
その手が途中で止まった。
襷の結び目。そこに吊られたメダル。
私は静かにそれへ触れた。
英国へ。アスコットへ。
確かに私は連れて行った。
約束は果たした。
それでも。
胸の奥に空いた穴は埋まらなかった。
メダルから手を離す。
最後に
金具が噛み合う音。鞘の重み。
それが収まった瞬間、不思議なほど心が静まった。
鏡を見る。
胸には勝利。
襷には約束。
腰には誓い。
背負ったものが一つ残らずそこにあった。
理想を超えて。さらにその先へ。
そう言ったのは私だ。
思いを受け継ぐと決めたのも私だ。
今さら立ち止まれるはずがない。
立ち止まって、何になる。
考えるのは後だ。
レースが終わってからでいい。
今は、ただ勝つ。それだけだ。
鏡の中の私がこちらを見返している。
鏡の中の私は、もう迷ってはいなかった。
鯉口を切る。
刃は抜かない。
ただ確かな手応えだけを確かめる。
大丈夫。私は、勝つ。
そのままカーテンを開けて、更衣スペースから控室へと戻る。
控え室には、トレーナーさんに椿さん、ゼファーさんにフライトさん、そしてバクシンオーさんが来てくださっていた。
一瞬だけ部屋に沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは椿さんだった。
「問題ありませんね」
そう言って彼女は私の脚元へ視線を落とし、かがみ込んでトモを検める。
「脚部も良好です。ここまで来たら、もう言うことはありません」
「ありがとうございます」
自然と頭が下がる。椿さんは小さく頷くだけだった。
続いてトレーナーさんが口を開く。
「戦術も予定通りです。何か気になることはありますか?」
「ありません」
対策というのも今更だったし、そもそも変えるものなどない。
ここまで積み上げてきたものを、そのまま出すだけだ。
「そうですか」
トレーナーさんは穏やかに笑った。
それだけだった。
それで十分だった。
「良い顔になりましたね」
フライトさんが柔らかく微笑む。
「少し前まで心配していたのだけれど」
「ご心配をおかけしました」
「ううん。元気ならいいの」
その言葉に胸の奥が少しだけ温かくなる。
ゼファーさんも穏やかな表情で頷いた。
「晴嵐ですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
短いやり取り。それが不思議と心地良かった。
部屋を見回す。
みんな、信じてくれている。私の勝利を。
その視線を受け止めながら、最後に私は一人へと向き直った。
サクラバクシンオー。
幼い日に憧れた背中。
あの日からずっと追い続けてきた存在。
言葉は自然と口をついて出た。
「私は」
一度息を吸う。
「私は、バクシンオーさんを超えるウマ娘になってみせます」
静かに、そう宣言する。迷いなど、もうない。
部屋が静まり返る。
バクシンオーさんはほんのわずかに目を見開いた。
だが次の瞬間には、いつもの笑顔を浮かべていた。
「……ええ」
その声は優しかった。
「このサクラバクシンオー、いつでもお待ちしておりますよ」
そのやり取りはまさしく私の原点。
あの日の、冬の中山レース場でのやりとりの再現に他ならない。
もう十分。あとは走るだけだ。
「行ってまいります」
そう言い残して私はドアへ向かう。
背後から聞こえる気配。
だが振り返らない。
胸には勝利。
襷には約束。
腰には誓い。
背負うべきものは、すべてここにある。
ならば行こう。
あと一つだ。
あと一つ勝てばいい。
今日、あの日の憧れを超えるのだ。
私は静かに扉を開いた。
「……こう言ってはなんですが」
サクラバクシンオーは小さく笑った。
皆がこちらを見る。
少しだけ困ったような顔をしてから、それでも続けた。
「私は嬉しいんですよ」
椅子に腰掛けたまま、閉じた扉へ視線を向ける。
その向こうには、ターフへと向かった教え子。
「だって、あの娘はここまで来てくれたのですから」
彼女が走れなかったクラシック、桜花賞。
彼女が阻まれ続けたマイル。
彼女が思いもよらなかった英国、そして香港。
思えば随分遠くまで来たものだ。
「私とフライトさんが願った場所へ」
世界一速くて、世界一切れるウマ娘。
そんな夢物語のような願い。
まさか本当に現れてくれるとは、本当にたどり着いてくれるとは。
思わず口元が緩む。
「もう少しなのです」
あと一歩。
あと一勝。
そうすれば。あの娘なら。
「私を、倒してくれるかもしれない」
その言葉を口にした瞬間だった。
不思議と彼女の胸の奥が熱くなる。
誇らしくて。
嬉しくて。
そしてほんの少しだけ、寂しかった。
だから彼女は笑った。
いつもの優等生めいた笑みではない。
現役時代を知る者なら見覚えのあるだろう、ラストスパートの獲物を見つけた肉食獣のような。
獰猛な笑みを。
「天つ風を追い越して……」
その呟きは誰にも届かなかった。
あるいは届いたとしても、意味を理解した者はいなかった。
ただヤマニンゼファーだけが。
ターフへ向かった背中を思い浮かべ、そう小さく呟いた。
「その先には、風は吹いているのでしょうか」
憧れを超えたその先には、一体何があるのだろうか。