驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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162 2つの距離の女主人とその先へ

 アダフェラ、チームルーム。

 

 

 香港国際競走の熱狂から一晩、帰国後のデブリーフィングのためいつものチームルームに私は居た。

 本来はトレーナーさんと、もしかしたらゼファーさんや椿さんも居るはずなのだが、私が部屋についたタイミングではまだ誰もいなかった。

 まあ私が指定の時間より速く来てしまったのだから仕方がない。とりあえずポットを火にかけて待つことにする。

 

 そんな手持ち無沙汰なままに室内を見渡す。

 洋室仕様のこの部屋には、意外と所属ウマ娘たちの私物というのが少ない。そもそも専属のお手ウマがほぼ私と数人で、あとは単発だったり短期所属がほとんどだから当然だが。

 

 代わりに多いのが多趣味なトレーナーさんの私物だ。

 とはいっても露骨な公私混同をする人ではないので、カレンダーに月齢や潮汐がついていたり、釣果の魚拓や飼っている犬や鷹、車の写真が飾ってあったりするぐらいだった。

 

 ここから見える範囲で私が所属してから変わったことといえば、ギャラリーの写真ぐらいだろうか。

 元々トレーナーさんはベテランゆえにG1級8勝、重賞90勝を挙げていたのだが、今やG1・22勝、重賞は110勝近くまで勝ち星を増やしている。

 お陰で、トレーナさんの下でG1・2勝を挙げたゼファーさんが目立っていたギャラリースペースの半分ぐらいが。私との写真や優勝記念品で埋まってしまっていた。

 

 それらから目を離して、椅子の背もたれにもたれかかる。

 

 

 ギッ、と音を立てる背もたれの悲鳴を聞き流しつつ、香港に思いを馳せた。

 ゴール板を切り、見上げた電光掲示板に点灯した14番。

 ウィナーズサークルで出迎え、抱擁してくれたバクシンオーさん。

 そしてトレーナーさん、椿さん。

 華やかな表彰式、恒例となったインタビュー、そしてウイニングライブ。

 

 ライブのトリでは各距離の勝者であるウマ娘4名がステージに立った。

 すなわち、フランス所属で香港ヴァーズを連覇したドクトルディノ、同じく香港マイルを連覇した地元香港のグッドババ、香港スプリントを制した私ノルデンセミラミス、そして香港カップを制したノルデンレヨネットである。

 

 香港カップを制したノルデンレヨネット。

 その名前を思い浮かべる。

 

 あの時のウィナーズサークル。勝って戻ってきたあの子に、今更なんと声をかけていいかわからなくて。

 それでも近づいてきてくれたあの子に、ようやく絞り出した言葉。

 

「……おめでとうございます。よく頑張りました」

 

 それにレヨは少しだけ目を伏せて、一言だけ返してくれた。

 

「……ありがと」

 

 それだけだった。

 たったそれだけしか、それだけしか言えなかったのだ。

 

 レヨは勝った。私はそれを嬉しく思った。

 本当に。

 だが、それで何かが変わったわけではない。

 

 その記憶から逃げるように、頭を振ってウイニングライブの情景を思い浮かべる。

 香港のレース文化は夏に訪れた英国的な荘厳なものと中華街の華僑商人のような派手なものが全体的に混合している。

 一言で言ってしまえば派手だった。

 正直なところ、気疲れしなかったといえば嘘になる。私の好みからは少々外れている。

 

 

 その熱狂が冷めてやってきたのは、嬉しさだった。それは間違いない。

 香港スプリントを勝った。日本勢が長く届かなかった場所へ辿り着いた。

 英国遠征も、カルティエ賞も、グローバルスプリントチャレンジも。

 全てがそこへ至るための道だった。

 

『サクラバクシンオーを越える』

 

 そのためにここまで走り続けてきた。

 そして、香港スプリントを勝った。

 ならば今ごろ私は、もっと満たされているはずだった。

 

 ……そう信じて疑わなかった。

 

 あのウィナーズサークルで、ずぶ濡れの私を抱擁したバクシンオーさんが囁くように零した言葉が脳裏に蘇る。

 

「……ありがとうございます。よくぞ、よくぞここまで来てくださいました」

 

 バクシンオーさんの瞳には光る物があったように見えた。

 嬉しかった。そこまで喜んでくださるなんて。

 だから、この気持ちに偽りはない。

 

 本当に。

 

 だが、その先が続かなかった。

 満足感はある。達成感もある。長い遠征を終えた安堵も、ようやく辿り着いたという実感も。

 

 確かにあった。なのに。

 ふと気付けば、その先が見えない。

 

 高松宮記念を勝った時は、次があった。

 安田記念を勝った時も。

 英国遠征の後も。

 マイルチャンピオンシップを連覇した後も。

 いつだって次があった。

 

 だが今は違う。

 

 香港スプリントを勝った。名実ともに世界一だ。

 そして、その先がない。

 

 いや、正確にはあるのだろう。

 

 高松宮記念、ヴィクトリアマイル、安田記念、スプリンターズステークス、マイルCS。連覇や三連覇はたしかに偉業だろう。

 香港スプリント連覇だって決して容易なことではない。

 どれも十分に価値ある挑戦だ。

 

 だが。

 

 その先にある景色が、もう見えてしまう。勝った後の景色が。

 それが胸の奥に残る、いや、足りない何かを満たしてくれるようには思えなかった。

 

 

 私は、香港を勝てば満たされると思っていた。

 

 理想へ届けば。

 世界一になれば。

 あの日見上げた背中へ追いつけば。

 

 そうすれば何かが変わるのだと。

 

 少なくとも、レヨに向き合えるようになるのだと。

 そんな都合の良いことを、どこかで思っていたのかもしれない。

 

 だが実際には、私の中には静かな空白だけが残っていた。

 あるいは”渇き”とでも表すべき何かが。

 

 時計を見る。約束の時間までもうあまりないが、まだトレーナーさんたちの気配は感じられない。

 そうして落ち着かないままに、手持ち無沙汰を紛らわせるためにタブレットを起動して配信されたトゥインクルの記事を開いた。

 

 

一覧
月間 トゥインクル 12月号別冊

絶頂の先へ──ノルデンセミラミス、香港スプリント制覇

 

(文:乙名史 悦子)

 

 香港スプリントを勝つことは、日本短距離界にとって長らく一つの悲願であった。

 日本ウマ娘はこれまで香港国際競走の各競走で結果を残してきた。だが、1200mの香港スプリントだけは違った。

 

 高速決着。

 激しい位置取り。

 スタート後すぐにコーナーへ入る沙田1200m特有の難しさ。

 

 その壁を、ノルデンセミラミスは大外14番枠から打ち破った。

 

■大外14番からの完勝

 

 レース前から、懸念材料は明確だった。

 

 大外14番枠。

 

 沙田1200mにおいて、外枠は決して歓迎される条件ではない。位置を取りに行けば脚を使う。下げれば届かない危険がある。

 だがセミラミスは慌てなかった。

 スタート後、無理に前へは行かず、中団外目へ収める。先頭からおよそ4バ身。ローレルゲレイロを含む先行勢が厚い隊列を作る中、その一列後ろ、マルシャンドールよりもわずかに前。大外枠の不利を、最小限に抑えた位置取りだった。

 動いたのは4コーナー半ばである。

 直線まで400m以上を残した地点で、セミラミスは外から進出を開始した。内に閉じ込められることを避け、前の厚い隊列を外から飲み込む選択である。

 リスクはあった。

 実際、彼女は内ラチから数えて5レーンほど外を回している。通常ならば、最後に脚が鈍ってもおかしくない。

 しかし、直線に向いた時点で既に先頭集団の外へ取り付いていた赤い軍服は、そこからさらに伸びた。

 残り200mで先頭。

 以後、差は縮まるどころか広がった。

 グリーンバーディー、アパッチキャットらが追う。しかし、脚色の差は明らかだった。

 

 最終的な着差は3バ身。

 

 香港スプリントという舞台において、これは数字以上に重い完勝である。

 

■年間無敗、G1・13勝

 

 この勝利により、ノルデンセミラミスの本年の戦績は無敗のまま締めくくられた。

 

 高松宮記念。

 ヴィクトリアマイル。

 キングズスタンドS。

 ゴールデンジュビリーS。

 ジュライカップ。

 スプリンターズステークス。

 マイルチャンピオンシップ。

 そして香港スプリント。

 

 国内外、スプリントとマイル、直線競走とコーナー競走、野場と洋芝。

 

 条件は変わり続けた。

 それでも彼女は敗れなかった。

 

 年間無敗でG1戦線を駆け抜けることの難しさは、改めて言うまでもない。近年でそれを成し遂げた存在として、まず思い浮かぶのはテイエムオペラオーだろう。

 無論、路線も距離も時代背景も異なる。単純比較は慎むべきである。

 それでも、国内外の最高峰を横断しながら敗北を知らずに一年を終えた事実は、競技史の中でも特筆に値する。

 

 通算G1・13勝。

 

 その数字だけを見れば、既にサクラバクシンオーを超えたと評する声が出るのも当然だろう。

 ただし、競技者の価値は数字だけで測れるものではない。

 サクラバクシンオーは、スプリントという路線がまだ現在ほど明確ではなかった時代に、その輪郭を刻んだ存在である。

 

 ノルデンセミラミスは、その後に整備された路線を走り、さらに海を越えた。

 どちらが上かという問いは、あまりに単純である。

 だが一つだけ言える。

 サクラバクシンオーが切り拓いた道の先に、ノルデンセミラミスは確かに到達した。

 

■勝ち切るウマ娘から、勝ち方を変えるウマ娘へ

 

 興味深いのは、今回の着差である。

 

 その差、3バ身。

 

 ノルデンセミラミスが2バ身以上の差をつけて勝利したのは、メイクデビューと紅梅S以来となる。

 近走の彼女は、勝っても大差をつけるタイプではなかった。

 

 高松宮記念は1バ身。

 ヴィクトリアマイルは1と1/4バ身。

 ジュライカップはクビ差。

 スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップも1バ身差である。

 

 だが、それらを辛勝と見る関係者は少ない。

 彼女は必要以上に脚を使わない。勝つために十分な差を作り、そこで終える。そうした走りを選んできたように見えた。

 しかし香港スプリントでは違った。

 大外を回し、早めに動き、残り200mで先頭へ立ってからも脚を緩めなかった。

 これは、単なる余裕の有無だけでは説明しきれない。

 世界王者の座を懸けた一戦だったからか。

 大外枠という不利を補うためか。

 あるいは、彼女の走り方そのものが変わりつつあるのか。

 

 現時点で結論を出すのは早い。

 

 ただ、香港でのノルデンセミラミスは、これまで見せてきた“必要十分な勝利”ではなく、後続を明確に突き放すレースを選んだ。

 その事実は記憶しておくべきだろう。

 

■ノルデン姉妹、同日G1制覇

 

 この日の香港国際競走は、ノルデンセミラミスだけの一日ではなかった。

 第8競走、香港カップ。

 大外から強襲したノルデンレヨネットが、待望の初G1勝利を挙げたのである。

 メイクデビュー以来、勝利から遠ざかっていた彼女にとって、これが丸一年ぶりの勝利だった。

 しかも舞台は香港カップ。シニア級の強豪が集う国際G1である。

 姉が香港スプリントを制し、妹が香港カップを制す。姉妹同日G1制覇。

 それも香港国際競走という世界的舞台で。

 日本のみならず。調べた限りでは世界でも類を見ない偉業である。レース史において稀有な一日として記録されることになるだろう。

 

■その先に、何を見るのか

 

 香港スプリント制覇により、ノルデンセミラミスは短距離路線において到達しうる多くを成し遂げた。

 

 スプリンターズステークス連覇。

 マイルチャンピオンシップ連覇。

 英国短距離G1三連勝。

 香港スプリント制覇。

 そしてグローバルスプリントチャレンジ制覇。

 

 これ以上、何を求めるのか。

 そう問う声が出るのは自然である。

 一方で、陣営は現時点で来季の方針を明らかにしていない。

 

 同一G1三連覇か。

 さらなる海外遠征か。

 あるいは、この勝利をもって一つの区切りとするのか。

 未だ進退は明確にされていない。

 

 絶頂を極めた者に、もはや勝つべき戦いは残されていないのか。

 奇しくもスプリント路線を切り拓いた偉大なる先達も直面した問いである。

 その答えを知るのは、ノルデンセミラミス自身だけである。

 

阪神JF回顧 ブエナビスタ快勝

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 “絶頂を極めた者に、もはや勝つべき戦いは残されていないのか”

 

 その文字を指でなぞる。

 あの日見た中山で、レコードを叩きだしたラストラン。

 

 そう、サクラバクシンオーにはもはや勝つべきレースなどなかった。

 高松宮記念はまだ2000m、海外遠征は一般的ではなく、香港スプリントなど存在すらしていない。

 そしてマイルには彼女が居た。無敗のマイル女王ノースフライトが。

 

 また、ノースフライトにもまた勝つべきレースは残されていなかった。

 春秋マイル制覇。ヴィクトリアマイルはまだなく、エリザベス女王杯は当時クラシック級限定戦だった。

 そして短距離には驀進王が居た。では中距離は、といえば、この年には怪物ナリタブライアンが居た。

 ご本人曰く、脚もかなり限界だったという。

 

 なら、私ももう蹄鉄を外すべきなのだろうか。

 こと私については椿さんも言ってくれているように、まだまだ脚に問題はない。

 でもこれ以上やることがないなら仕方がない。そうしたら、私はどうすべきだろうか。私も、指導ウマ娘の資格を取って指導者として働くべきだろうか。

 ちょうど、トレーナーさんのもとで私を指導してくださったゼファーさんのように。

 

 ……ゼファーさんのように? 

 

 ヤマニンゼファー。現役時代は安田記念連覇に加え中距離の天皇賞秋を制覇、スプリンターズSも2着と3階級制覇に最も近づいたウマ娘だ。

 

 

 どくん、と心臓が高鳴る。疲れに淀んでいた身体に血が巡るような感覚を覚えた。

 

 あるではないか。

 勝つべきレースが、まだ。

 

 3階級制覇。スプリント、マイル、中距離のG1を全て制したウマ娘は未だ居ない。

 あと一歩までその栄誉に迫ったヤマニンゼファーをスプリンターズステークスで阻んだウマ娘こそがサクラバクシンオーであった。

 

 2年前のあの日、ちょうどこの部屋でなされた会話が昨日のことのように思い出される。

 

「──そうですね……3階級制覇など、目指してみますか?」

「まあ、跡風たらんと? 東京の千六と二千でしたら、いつでもお付き合いしますよ」

 

 そう、たしかにあの時トレーナーさんとゼファーさんはそうおっしゃった。

 3階級制覇をやってみろと、私の跡を追ってくれるなら本望だ、と。

 

 ならばそうして見せようではないか。

 例えそれが奇跡に等しい所業であったとしても。

 私には、まだ、次があるのだから。

 

 いつの間にか立ち上がってしまっていたのか、椅子が立てた音に我に返る。

 

 3階級制覇。

 そう、これだ。

 これこそが私の望み。

 

 トレーナーさんが、ゼファーさんが惜しくも届かなかった3階級制覇という夢を。心残りを。

 私が成し遂げてみせよう。

 短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。

 

 ギャラリースペースを振り返る。

 ゼファーさんと、オフサイドトラップさん。トレーナーさんと共に秋の盾を掲げた2枚の写真。

 その3枚目をここに飾ろう。私と、トレーナーさんのそれを。

 

 その時、ドアの外にトレーナーさんたちの気配を感じた。

 時計を見るともう約束の時間数分前だった。

 

 私はトレーナーさんを出迎えるべく、いそいそとお茶を淹れる準備を始める。

 今日のデブリーフィングの議題だろう、これからどうするのかをどう話すか組み立て始めながら。




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