驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
アダフェラ、チームルーム。
吉富トレーナーが止められなかった理由はよくわかった。だがその制約にウマ娘は関係ないはずだった。
なら、と椿はバクシンオーのほうを向く。
「……なら、バクシンオーさんは何故止めなかったんですか。貴女の願いであればあの子は聞く耳を持ったでしょう」
「椿さんもよくご存知でしょう。あの子は私の望みを叶えてくれました。その直後に、その先へ進むなとは、私にはとても言えませんでした」
「……私も、止められなかったよ。あの子は、私が願ったとおりに。ううん、それ以上だった」
バクシンオーも苦々しげにそう答える。
その隣でフライトも賛同しているあたり、2人の意見は同じようだ。
彼女らとて無邪気にセミラミスさんの言う事なら、と思っていた訳では無い。むしろ逆だ。
──私の渇きを癒やしてくれるウマ娘を。
──彼女の才を受け継ぐに足る大器を。
彼女らの願いは確かに叶えられた。それも十二分に。
バクシンオーさんを超えるウマ娘に、と宣言した幼いウマ娘は、スプリンターズステークスを連覇し、スプリントとマイルを再統合し、世界すら征してみせた。
それはまさしく望外の、2人が望んでいた以上の景色だった。
彼女らの願いを叶えてくれた相手に、バクシンオーへ"次"を見せてくれた相手に、その先へ行くな、と告げることなど、誰にできただろうか。
「……それに、あの子は私と同じところまで来てくれた。来てしまったんです。……その渇きを知るものとして、どうして伸ばした手を払えましょうか」
もはや驀進王に短距離で勝つべきレースはなく、マイルに伸ばした手はマイル女王に阻まれた。
逆に言えば、だから彼女は次世代へと目を向けることができた。
いまだ壁を知らないノルデンセミラミスの歩みを止めるべき言葉を、かつての孤独な王は持たなかったのだ。
確かに、そのとおりだった。少なくとも彼女らを責めることはできない。そもそも椿自身もその計画には加担している。
……それでも、あの時のセミラミスが正常だったとは、どうしても椿には思えなかった。
椿は内唇を噛んで、では、とゼファーの方を向く。
「……それでも、私は止めるべきだったと思っています。ゼファーさんはいかがですか」
「私は……わかりません」
ゼファーの表情は梅雨の初めに吹く黒南風のようにどんよりと曇っていた。
「ど、どういうことですか。というより顔色がよろしくないようですが……」
「あの子が3階級制覇などと言い出したのは、私のせいかもしれないからです」
ゼファーが語ることには、昼前にセミラミスと会った時は元気がなさそうな様子だったという。
それがしばらく目を離してみれば3階級制覇だと目を輝かせている。
明らかに様子がおかしい。少なくとも、3階級制覇という目標が熟考の末に出てきたものだとは思えない。
そもそも、マイルCSからこちらセミラミスのそばに最も居たのはゼファー自身だったのだ。
「たしかにそうですし、ゼファーさんの成し遂げられなかった、とは言っていました。でも、だからといってゼファーさんのせいだとは。別に、私の無念を晴らしてくれと言ったわけではないのでしょう?」
「……いえ」
ゼファーは視線を落とした。
「……その、そう言ったのです。私が」
部屋の空気が止まる。誰も意味を飲み込めない。
「…………は?」
ちょっと待てそれは大分話が変わってくるぞと身を乗り出しかける椿。
だが続く言葉を聞いて、彼女は額へ手を当てたまま長く息を吐き、脱力したように椅子へと崩れ落ちた。
「その、一昨年のスカウト時の面談の時に──」
彼女が語るにはこうだ。
──3階級制覇など、目指してみますか?
──まあ、跡風たらんと? 東京の千六と二千でしたら、いつでもお付き合いしますよ。
緊張を解すための冗談のつもりだった。本気ではなかった。当時のセミラミスはまだマイルもやっとのスプリンターだったのだから。
だが、彼女は本当に成し遂げた。短距離を蹄下にし、マイルを征し、今や中距離に駒を進めんとしている。
「私は、確かに言いました。もしかしたら、奇跡を起こせばきっとできる、と。……あの子は、それを、覚えていました」
私があんなことを言ったばかりに、と絞り出すように告白するゼファー。
椿からすれば、流石に気にしすぎでは、といったものだったがゼファーにとってはそうではなかったのだ。
「今日決めることだったのか、という椿さんの言うことはわかります。でも──」
椿に一定の賛意を表しつつも、ゼファーは続ける。
「3階級制覇という夢を、諦めてほしいとは言えません」
しばらくまた沈黙がその場を満たす。
再び沈黙を破ったのはまたしても椿だった。
「…………わかりました。吉富トレーナー、確認ですが、競技続行上支障があると判断すれば直ちに制止しますね?」
「無論です」
「であれば、私も身体に競技上の問題があれば包み隠さず直ちに報告いたします。これでよろしいですか」
吉富トレーナーは黙ったまま深く頷いた。
それに対して、椿は半ば独白のように続ける。
「……私は、二度と兆候を見逃したりしません。ローレルのようにウマ娘が道半ばで夢を絶たれることなど、二度と見たくない」
ローレル、すなわちサクラローレルは彼女がかつて担当したウマ娘。二度大きな怪我をしている。
一度目は春天の前、競走能力喪失に等しい大怪我。二度目は彼女の夢であったフランス遠征時、フォア賞の最中に再び怪我をしてレース引退を余儀なくされた。
「椿さん。あまり思い詰めてはいけません。梧郎さんだって、文乃だって、分かっていれば止めたでしょう。まして、走るのは我々でなくウマ娘なのですから」
明石梧郎、すなわち椿の父と、フランス遠征時に担当していた奈瀬文乃を引き合いに出して吉富トレーナーは椿をなだめる。
奇しくも、レースを走るのはウマ娘であって我々はどこまでいってもウマ娘にはなれない、という言葉は彼女の父と同じであった。
なんだかんだと言葉を重ねたが、結局のところ結論は最初から変わっていない。
止めるべきだったかもしれない。だが、止めることはできなかった。
ならば、これからどうするか。
誰も納得したわけではない。それでも、いつまでも立ち止まってはいられなかった。
「……では、方針を確認しましょう」
沈黙を破ったのは吉富トレーナーだった。
穏やかな声に、全員の視線が集まる。
「まず確認ですが、この話はまだ我々だけのものです。来年は3階級制覇へ挑戦する、と外へ言うつもりはありません」
当然だった。こんな情報をひとたび漏らしてしまえば世間は大騒ぎだ。
有馬記念も終わっていないのにそんなことをしてしまえば色々無茶苦茶になってしまう。発表するのにも時機というものがある。
「そして、勘違いしていただきたくないのですが、私はあの場で3階級制覇を是としたわけではありません。あの子が進むと決めた。その意思を否定しなかっただけです」
椿が訝しむように声を上げる。
「……どういう意味ですか」
「明らかに距離延長の余地がなければ止めます。精神的に危険だと判断すれば止めます。競技生命を損なうなら止めます」
進むかどうかは本人が決める。だが進めるかどうかを判断するのは、指導者たる我々の責任だ。
つまり吉富トレーナーはそう言っているのだ。
「精神面については、引き続き私が見ます。何より先に、妹さんとの件です。あの子にはまだ、自分の過ちと向き合う時間が必要でしょう」
椿も静かに頷く。
「脚は私が責任を持って診ます。少しでも競技続行に支障がある兆候を認めた場合は、すぐに報告します」
「お願いします」
短い返答。
そこまでは全員一致だった。だが、問題はその先である。
「さて、まず確認ですが、来年挑戦するのは三階級制覇です」
宝塚記念、あるいは天皇賞(秋)。
本人もそう言っていた通り、目標だけ見れば明快だった。
繰り返しになるが、できるかどうかは別として。
「問題は、そもそも距離が持つのか、ですね」
椿の言葉に誰も否定できない。
スプリントでは、マイルでは世界最強。だからといって中距離が走れる保証などどこにもない。
むしろ常識で考えれば、無理というのが普通だった。
ましてここにいるヤマニンゼファー、サクラバクシンオー、ノースフライトという面々はお互いに得意距離からの侵攻を潰しあった関係だった。
「まずは春、中山記念でしょうか」
中山記念。中山レース場で3月に開催される1800mのG2。
レースカレンダーを見て丁度良いレースを物色していたゼファーが静かに口を開く。
「まず200mの延長。好風たる中山でどこまでやれるかを見てから、宝塚へ進むか、秋へ備えるか判断することになるでしょう」
「ええ」
吉富トレーナーも頷く。
距離延長は一足飛びにはできない。段階を踏むしかない。
奇しくも中山記念は、マイラーであったゼファー自身が天災こと潮来トレーナーのもとで秋天への出走可否を占うために使ったレースだ。ある意味では思い出深い。
「距離以上に問題なのは……相手ですね」
ゼファーのその一言に、苦笑が漏れる。
ゼファー自身の秋天は大本命メジロマックイーンもトウカイテイオーも怪我で不在であった。対抗は明らかに適性距離がもっと長いライスシャワーにシルバーコレクターナイスネイチャ。
もちろんハナ差を争ったセキテイリュウオーが弱かったとは言わないが、想定メンバーの豪華さが段違いだ。
今年の天皇賞を彩った面々が、各々の脳裏に自然と浮かぶ。
G1・4勝、府中の女帝の名の通り、府中で無類の強さを誇るウオッカ。
G1・3勝、ミス・パーフェクト、完全連対継続中のダイワスカーレット。
G1・1勝ながら中距離重賞を3勝、ドリームジャーニー。
G1は未勝利ながら昨年の中山記念覇者、シニア5年目のベテラン、カンパニー。
そして、先の香港カップで待望のG1勝利を挙げた、ノルデンレヨネット。
「よりによって、ですね」
椿が肩を落とす。他はまだいい。いやどう考えてもウオッカやダスカは良くはないが。
妹に謝れていないまま、妹のホームへ乗り込むのだ。精神的にも、競技的にも避けては通れない相手だった。
吉富トレーナーは全員を見回した。
「難しい一年になります」
誰も異論はなかった。
3階級制覇、その挑戦を止めることはできなかった。
ならば、支え抜くしかない。
彼女が自らの足で答えへ辿り着く、その日まで。