驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
166 2つの距離の女主人と年の暮れ
年の暮れ、美浦寮、自室。
分厚くなった手帳サイズの日記帳をパラパラとめくりながら物思いにふける。
今年、私とともに三か国を渡り歩いたものだ。
来季、私は3階級制覇を目指す。
あの場にいた皆さんは、最後には私の背を押してくださった。
トレーナーさんは、私が望む限り共に往くと約束してくださった。
バクシンオーさんは、私がその先へ進むことを否定しなかった。
フライトさんも、ゼファーさんも、椿さんも、言葉の形こそ違えど、最後には来年へ向かう私の道を閉ざさなかった。
ならば、応えなければならない。
スプリントを制し、マイルを制し、世界を征したその先へ。
かつてゼファーさんがあと一歩で届かなかった場所へ。
トレーナーさんが、バクシンオーさんが、フライトさんが、そして私を支えてくださった皆さんが見たいと願ってくれたはずの景色へ。
それを私が成し遂げることが、きっと一番の恩返しになる。
そう思うと、胸の奥に残っていた空白へ、ようやく名前がついたような気がした。
ページの後ろの方から、はらりと折りたたまれた紙が現れる。
広げてみるまでもない。これは先日の勝負服について打ち合わせた時のラフだった。
勝負服は、ウマ娘の魂を映す衣装だ。
だからこそ、一度仕立てたものを新調する機会など、そう多くはない。
にもかかわらず、私が新たな勝負服のデザインを打ち合わせている理由は一つ。
今年、私は有馬記念を待たずして年度代表ウマ娘への内々定をいただいたからだった。
正式な発表はまだ先。それでも受賞者へ贈られる新たな勝負服は、発表を待ってから作り始めていては到底間に合わないらしい。
「それにしても、受賞決定前から作り始めるなんて気が早いことですね」
「我々としては、一週間でも納期が欲しいというのが正直なところでして」
勝負服製作会社のデザイナーさんは、どこか遠い目をしてそう答えた。
その表情は、電話口で徹夜が確定するような依頼を受けた父とそっくりだったから、なるほど、理論上は間に合うという意味なのだろう。
思えば、最初の勝負服は完成まで半年以上を要した。それが今回は、正式決定から授与式まで一か月もない。
よく考えれば、かなりの無茶である。
そう思えば、クラシック級の登録期限や追加登録料にも、それなりの理由があるのだろう。勝負服の製作予定まで含めて考えれば、決して不思議な話ではなかった。
「ご希望と資料はあらかじめ拝見させていただきました」
私が送り付けた資料をパラパラと繰りながら彼女は本題に入る。
「今回の勝負服で、一番表現したいものは何でしょうか」
今回の勝負服のメインテーマはロシア帝国の皇帝エカチェリーナ2世。サブテーマとしてゼファーさんの風の要素を入れ込みたいと伝えていた。
これらに通底するのは3階級制覇、つまりは──
「新たな挑戦、拡大、ですね」
「……なるほど。既存の勝負服が守りの象徴であるとすれば、この勝負服は攻めの象徴と言えるでしょうか」
確かに、
来年、私は王道の中距離へと侵攻する。そのための勝負服なのだから。
「それでしたら、これ以上のモチーフはありませんね」
ただ、頂いた軍装モチーフですとあまり軽やかにはなりませんので、風をはらむイメージと即位後のドレスの意匠を合わせて、このようなイメージでいかがでしょうか。
そう言って示されたラフ案は、私のイメージを超える、満足のいくものであった。
「はい、素敵な勝負服だと思います。ぜひこの方向で」
「承知いたしました。この案をもとにデザインを起こしますので、ご確認のうえご意見いただければ」
退出したデザイナーさんを見送って、私は再びラフに目を落とす。
深い緑の軍服はそのままに、エポレットで留められた肩から流れるケープが柔らかな弧を描く。
首元には青いスカーフ。白いサッシュと剣帯は以前の勝負服から受け継がれており、裾は広がりながら後ろへ流れていた。
軍服なのに、どこか軽やか。風を受ければ、きっとケープは大きく翻るだろう。スカーフもまた、その軌跡をなぞるように。
あらためて、送られてきていた勝負服の完成イメージの画像を眺める。
来年頭、年度代表表彰の場でこの衣装に袖を通すのが今から楽しみだった。
勝負服の打ち合わせを終え、年末はあっという間に過ぎていった。そして、一年を締めくくる最後のG1、有馬記念の日を迎える。
今年も暮れの中山にファン投票で選ばれた14名の優駿が集った。
「去年は……してやられましたが、今年こそは」
共に関係者席で見守るのはカフェさん。昨年勝ったのは私が特訓に付き合ったメジャーさんだったから若干気まずくもある。
なおその吉富トレーナーは臨時で持った子のために下に降りている。
今年の出走者もいずれも押しも押されもせぬ一線級のウマ娘、これから王道の中距離に駒を進める私の前に立ちふさがるであろう者たちだ。
遠征支援委員会でお世話になったドリームジャーニー先輩。
先のジャパンカップでウオッカとディープスカイの2人を討ち取った同期のスクリーンヒーロー。
そして、ここまでデビューから完全連対。ミス・パーフェクトことダイワスカーレット。
思い出されるのは、枠順抽選会の光景。
ピンク色の13と書かれたボールを引いて、膝から崩れ落ちていたスカーレットの姿と、それを意外と紳士的に助け起こす北浦トレーナー。
それを大笑いして煽っていた若い女性トレーナーもまあまあ外枠のオレンジの11番を引き、ジャーニーさんのヒールで足を踏まれていたのが傑作だった。やはり他人の不幸は笑うものではない。
笑い話はさておき、コーナーの近い有馬記念で外枠というのは非常に不利だ。特にスカーレットのような逃げウマ娘にとっては。
『園部さん、ダイワスカーレットはどうでますかね』
『外枠ですから、ちょっと内を見ながらでていくんでは。ペースが早まると楽ではないですから』
不利な、はずだったのだ。
スタートが切られた瞬間、ハナを切って飛び出していく青の勝負服。
外枠からぐんぐんと加速すると、燃えるような赤毛をなびかせて先頭に躍り出た。
ダイワスカーレットだ。
「……良い、リズムです」
対して後ろからレースを進めるマツリダゴッホを静かに応援するカフェさん。
私より上背が低く、線も細いカフェさんと並び、ホームストレッチを見下ろす。
向正面を過ぎ、隊列は2度目の3コーナーに差し掛かった。
いまだ先頭はダイワスカーレット。なんとまだ止まりそうにない。
先頭を往くスカーレットの直後、中山では見たことのないほど番手集団が横に広がっている。
多くのウマ娘がここで仕掛けねば間に合わないと踏んだのだろう。マツリダゴッホも位置を上げている。
「……そう、そこ。そこです……」
カフェさんのつぶやきに、大いに賛成だ。今ここで仕掛けねば。
だが、無情にも差は縮まらない。
次々と仕掛けたウマ娘ばかりが落ちてゆく。
それどころか直線を向いてダイワスカーレットが差を広げてゆく。
位置を押し上げたスクリーンヒーローも、後ろから飛んできたジャーニーさんも届かない。
声にならない息を漏らしたカフェさんのその指先が、膝の上でわずかに震えた。それを横目に、先頭でゴール板を越えたスカーレットを追う。
外枠からハナを切った時点で、スカーレットは自分だけのレースを選んだ。
後ろに合わせて位置を譲ることも、内へ入れて脚を温存することもしなかった。結果として、皆がスカーレットのペースで走ることになった。
4コーナーで動くという判断は誤っていない。あそこで動かなければ届かない。
けれど、誰も届かなかった。スカーレットだけが。
「最後まで、自分のレースを。スカーレットは」
気づけばそう呟いていた。
隣で、カフェさんが小さく息を吐く気配がする。
「……はい。……あの子は、そういう人です」
それだけ言って、カフェさんは再びターフを見下ろす。
勝利を称える歓声と、37年ぶりのティアラからの有馬記念制覇を伝える実況の声。
歴史的快挙なのだろう。だが彼女がそのために走っていたとは思えない。
ただ勝利のため、一番を目指した結果としての偉業。
少しの沈黙の後、カフェさんは続けた。
「……でも、自分のレースは……一人で、決めなくても……いいのですよ」
私はそちらを見る。
当然だった。3階級制覇だってトレーナーさんたちにも相談して決めた。
そして皆さんも応援してくださっているのだから。
「もちろんです。トレーナーさんたちと相談して決めます」
カフェさんにもそのことはまだ言えないので、そこは濁して答える。
そう答えると、カフェさんはほんの少しだけ目を細めた。
「……なら、よかったです」
その声は安心したようにも、まだ何かを案じているようにも聞こえた。
『さいしょからさいごまでせんとうなら、わたしがいちばん!!!!』
勝利の余韻もあってか完全に語彙力が溶けているスカーレットのインタビュー。
北浦トレーナーと昨年覇者のメジャーさんに挟まれ、優勝レイを肩に優勝杯を掲げる。
来年は、彼女と戦わねばならない。
秋の府中に思いをはせる。
逃げるダイワスカーレット。差し込んでくるウオッカ。その狭間で、どこまで戦えるか。
いや、勝つのだ。そしてトレーナーさんへ、ゼファーさんへ。3階級制覇を捧げるのだ、と。
来年は、いよいよ中距離へと駒を進める。
ウオッカ、ドリームジャーニー、ダイワスカーレット、そしてノルデンレヨネット。
全員が現役を続行すると表明している以上、全員と相対することは避けられない。
けれど、それでいい。 短距離とマイルで得たものを抱えたまま、未知の距離へ踏み込む。
そこで勝てなければ、3階級制覇など口にする資格はないのだから。
そう昨日の情景を思い返して決意を新たにしていると、ドアが開く気配に慌てて冊子を閉じる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
挨拶ぐらいは、できる。
外でなら、普通の姉妹のようには、振舞える。
でも、こうやって同室に戻ると……私は一体、どの面下げて。
──ちゃんと、あたしを見ろよ……! ……ノルデンセミラミス!
だから見なければならない。
なのに、顔を上げることができない。
「明日、何時に出るんだっけ」
荷物を置く音の後、レヨが尋ねる。
「9時です。家には12時過ぎには着くでしょう」
「ふうん」
短い返事。衣擦れの音。クローゼットを開ける音。
帰省用の荷物をまとめ始めたのだろう。
「お土産、買う時間ある?」
「新横浜駅で少しなら」
「そっか」
また、沈黙。
以前なら、何を買うかくらいはもう少し話しただろう。
母さんにはこれがいい。父さんにはあれがいい、妹にはどれだ、祖父母には。そんな、どうでもいいことを。
今は、どちらからも続きが出てこない。
「……姉さん」
呼ばれて、指先が止まる。
返事だけは、すぐにできた。けれど、顔を上げられない。
「明日、寝坊しないでよね」
「しません」
「……なら、いいけど」
少しだけ間があった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ベッドの軋む音がして、部屋の灯りが半分落ちる。
暗くなった窓に、自分の姿だけが映っていた。
その向こうにいるはずのレヨの方を、私は最後まで見ることができなかった。