驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
中山レース場、パドック。
私が小雨降りしきるパドックに脚を踏み入れた瞬間、観客席からの歓声がひときわ大きくなる。
だが、スプリントやマイルのときと違い、どこか品定めするざわめきが残っているような気がする。
「うお、すげえ仕上がり……G2だぞ?」
「ありゃあスプリント用の身体のままだな、マジで3階級制覇する気か」
「最後までスタミナ持つのか……?」
それもそうだろう。
体操服のブルマから覗くトモはいつも通り。すなわち、本番向けに仕上げすぎてもいないし、中距離へ寄せた緩さはない仕上げ。
私の目標はあくまで3階級制覇であり、月末には1200の高松宮記念が控えている以上当然だった。
控え室でのトレーナーさんの言葉を反芻する。
「貴女が望むのなら、3階級制覇そのものを止めるつもりはありません」
ただし、とトレーナーさんは続けた。
「どの形で挑むかは、今日の内容を見てからです。ここは貴女の得意な中山で、距離は1800m。実戦形式の並走練習では対応の目処も立っています。ここでまるで駄目なら、やめておきなさい」
もっともな話だった。
「走法の変更で問題なく1800mに対応できる。そう判断できる内容なら2200mの宝塚記念も考えられるでしょう。ただし、中間なら秋の天皇賞に絞った方が勝率は高いでしょう」
「秋天一本ですか」
「ええ。本音を言えば、タフな阪神の2200mは厳しいと思っています」
私は頷いた。
唯一私が敗北した阪神のコース。そこから600mも伸びるのだから、厳しいことなど先刻承知だ。
「今日示します。走法を変えれば、中距離へ踏み込めるのだと」
トレーナーさんは表情を緩めなかった。
「踏み込めることと、勝ち切れることは違います」
「はい」
「2000mを勝てることと、2200mを勝てることも違います」
「承知しています」
分かっている。少なくとも、分かっているつもりだった。
「ならば、まずは中山記念です。勝つことだけが目的ではありません。どう走るかを見せてください」
「はい。勝った上で、示してみせます」
まず、勝利を。そして私の走りが距離延長にも適応できることを示す。
そう決意を新たにしていると、後ろから近づく気配。
「やあやあ、調子はどうだい」
振り返るとそこにいたのはカンパニーさん。
にへら、とした笑顔で話しかけてくるが、この人こそが最も油断ならない相手である。
「ぼちぼち、といったところでしょうか」
「それは恐ろしいなぁ。今日はおじさんも胸を借りさせてもらうよぉ」
なにせこちらは星なしだからね、と彼女は笑う。
実際、彼女のゼッケンには星が一つもない。G1勝ちを示す星は、まだない。
だが、星がないことと、弱いことは同義ではない。
私と対戦したマイルCSでは両方、彼女は上位に来ている。昨年の秋の天皇賞では、あの面子を相手にタイム差なしの4着。
そして中山記念は前年の勝者でもある。
今年でシニア5年目。
本人は自虐のように言うが、ターフで老兵を見たら生き残りと見るべきだった。
「おやおや、では私は後ろから失礼しましょうか」
そう言って背後から音もなく現れたのは、小柄な体躯のウマ娘。
ドリームジャーニーさんだ。
そのゼッケンには星が一つ。
このメンバーで、G1を勝っている数少ないウマ娘の一人だった。
互いに軽く会釈する。
遠征支援委員会で茶を囲む時とは違う。今日の彼女は対戦相手であった。
「いやぁ、怖いねぇ。若い子は。こりゃ我々ロートルも負けてられないよぉ」
「はは、何をおっしゃいますやら」
カンパニーさんのその言葉に、パドックの出走者皆がこちらを注目していることに今更ながら気が付く。
それも当然だ。ここに出走してくる私とドリームジャーニーさん以外の8人は皆シニア3年目以上のベテランばかり。
ぽっと出の私が、距離延長を掲げて攻め込んできたのだ。注目されるのは当然だった。
『8枠9番、ノルデンセミラミス。僅差の1番人気です。世界を制したその脚は1800mでも通用するのか』
中山レース場、ゲート前。
いつもの1200mのような外周りコース向正面とは違い、1800mのスタートは観客席前のホームストレッチからとなる。
濡れた足下は稍重。今やそこまでではないが、やはりどちらかといえばこれも不利な要素だった。
そのまま枠入を済ませていき、最後に大外のキャプテンベガが入って体勢整った。
ゲートが開く。
スタートは上々。だが1コーナーまで200mもない。急ぎ位置をあげる。
内からキングストレイルが先頭へ、カンパニーも慌てず番手を取りに行く。
進出したアドマイヤフジに次いで、私は4番手につけた。
無理に押したつもりはない。だが、放っておけば大外を回される。
コーナーが4回ある中山1800mで、まして稍重の芝で、それは避けたかった。
脚の返りは良バ場ほど鋭くない。それでも英国の洋芝ほど違和感はない。
前へ。
けれど、前へ行きすぎない。
コーナーに入ったところで、逃げるキングストレイル、番手カンパニーに次いで、内のアドマイヤフジを見つつの4番手に位置を占めた。
取れた。いや、取ってしまった、というべきか。
いつもの距離なら楽な位置だが今日は1800m。
この位置を取るために使ったわずかな脚が、最後にどう響くのかはまだ分からない。
レース序盤、1コーナーから2コーナーと隊列は大きく変わらなかった。
先頭キングストレイル、直後にカンパニー、アドマイヤフジ。
私は4番手の外。
呼吸は乱れていないし脚にも余裕がある。
稍重の芝も、思ったほどには重くない。
悪くない。
カンパニーの背中を見ながらリズムを測る。
急がないこと。勝つことだけを見ないこと。
トレーナーさんの言葉を胸に、ゆったりとしたリズムを刻みながら向正面を過ぎる。
隊列は変わらない。
そのまま向正面の直線から3コーナーに突入、前を行くカンパニーの背中が少しだけ大きく見えるようになってきた。
内のアドマイヤフジとも並びかけるようになっていく。
無理に動いたわけではない。
ただ、コーナーへ入る前に位置を整えただけだ。
中山のコーナー。
ここで外を回されすぎれば、直線までに余計な脚を使う。
だから、少しだけ前へ。
3コーナーを過ぎる頃には、カンパニーの斜め後ろを占めていた。
近い。だが、まだ仕掛け時ではない。
そう思っていた。
4コーナーへ入る。
視界の内で、キングストレイルの背中が近づく。
その外にカンパニー。私はさらにその外から番手のカンパニーに並びかける。
まだ仕掛けではない。位置を整えているだけ、そう思っていた。
だが、4コーナーの出口が見えた瞬間、身体が知っている形に入った。
あの日の中山レース場、4コーナー外から前を射程に入れ、直線入口で並びかける。
何度も見た。何度も走った。何度も勝った。
私の、勝ち方だった。
カンパニーに並びかける。
キングストレイルの背中が視界の端へと流れていく。
仕掛けたつもりはなかった。
ただ、速度を殺さないように、コーナーの出口へ向けて姿勢を作っただけだ。いつものように。
一瞬、カンパニーの視線がこちらを刺す。
それでも彼女は乱れない。慌てず、崩れず、こちらに合わせて脚を使ってくる。
やはり、この人は簡単には退かない。
それでも、4コーナー出口。
直線へ向くころには、私が先頭に立っていた。
歓声が膨らむ。
いつもの形。
いつもの中山。
中山の直線は短いぞ。
ならば、このまま押し切る。
そう判断した瞬間、背後から別の気配が膨らんだ。
振り返るまでもない。
大外をまわして飛んでくる豪脚、特徴的なピッチ走法。そんなウマ娘は一人しかいないのだ。
ドリームジャーニー。
まだ遠い。けれど、来る。
ギアを最高速に叩き込み加速へ。
ここで待つ理由などない。
4コーナー出口で先頭に立った以上、私に残された選択肢は一つだけだった。
押し切る以外にない。
300mの短い直線へ向く。中山の坂が正面に見える。散々走ってきた、勝ってきた直線だ。
だが、今日は違う。ここまでに走ってきた距離が違う。
それでも、前へ。
だが、内側の気配は消えない。
一度は引き離したはずのカンパニーがしぶとく食い下がっている。
こちらが伸び切るのを待っているかのように、1バ身はあった差が徐々に削られていく。
外からはドリームジャーニー。
小さな体躯が、高速で回る脚が、直線へ向いた瞬間に鋭く伸びてくる。
距離はまだある。けれど、脚色は明らかにいい。
残り100。
何故だ。何故振り切れない。
後方に集中しそうになる意識を、強引に前へ戻す。
違う、見るべきはゴール板のみ。
勝つんだ。勝つのだ!
私は、こんなところで! 止まるわけには!!
残り50。
内と外から2人が並びかけて来ている。
4コーナー出口での脚色の鋭さはもはや残ってはいない。
それでも、まだ先頭は私だ。
譲れない、渡さない。
勝つのは、私だ。
一歩、もう一歩、前へ。
前へ。
ゴール板が視界を過ぎた。
その瞬間、呼吸が乱れる。押し込めていた息が一気に溢れた。
脚から力が抜けかける。私はどうにか姿勢だけを保ちつつ、私を追い抜いていった2人の背中を追った。
歓声が、割れている。
粘りきれたのか、差されたのか。それすら判然としない。
振り返って掲示板を確認したいが、今振り返れば脚がもつれてしまいそうだった。
息を吸って、吐く。
もう一度吸う。
何度息を吸っても肺が満たされない。酸素が、足りない。
得意な中山、マイルからたった200m延びただけの1800m。
だというのにこの体たらくはなんだ。
息は絶え絶え、勝ったかどうかも判然としない。
ひときわ大きくなった歓声。
どちらだろう、スプリンターが中距離への橋頭堡を築いた称賛か、侵攻してきた短距離女王を討ち取った者への歓呼か。
私はようやく息を整えて背後を振り返った。