驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
3月1日 中山レース場 第11レース
中山記念(G2) 芝 1800m 小雨 稍重
『中山レース場は小雨が降り続いています。バ場状態は稍重。第83回中山記念、まもなく発走の時刻を迎えます』
場内の大型スクリーンには、返しウマへ向かう出走者たちの姿が映し出されていた。
『今年の中山記念、やはり注目は8枠9番、ノルデンセミラミスでしょう。スプリンターズステークス連覇、香港スプリント制覇、マイルチャンピオンシップ連覇。短距離、マイルの頂点を次々と制してきた2つの距離の女主人が、今日は芝1800メートルに挑みます』
実況が、そのあたりどうですか、と振ったのは例によって解説担当の園部元トレーナー。
『そうですね。実績だけを見ればここに入れば抜けています。ただ、今日は距離が違います。1200、1600で見せてきた圧倒的なスピードを1800メートルの中山でどう使うか。そこが最大の焦点になります』
『しかも月末には高松宮記念も控えている。身体を完全に中距離仕様へ作り替えてきた、というわけではなさそうだな』
フォトパドックの様子を眺めながらそう付け加えたのは同じく解説のビワハヤヒデ。
冬毛でいつにも増してふわふわになった髪にヘッドセットが完全に埋もれている。
『ええ。ですから今日問われるのは単純なスタミナだけではありません。スプリント、マイルで培ったスピードを抑えて運べるのか。中山のコーナーを利用してどこで脚を使うのか。そして最後の坂でもうひと伸びできるのか。勝つにしても、その勝ち方が重要になります』
カメラが映し出したのはシニア5年目の大ベテラン、カンパニー。
『相手関係を見ますと、まずは前年のこのレースの覇者カンパニー。G1の星こそまだありませんが、マイルから中距離まで堅実に走ってきたベテランです』
『この条件を知っている、という意味では非常に怖い存在だな。中山1800メートルは、単に速いだけでは押し切れない。どこで動き、どこで待つかを間違えないことが大切になる。その点、カンパニーはまさに間違えないタイプだ』
続いて画面に映ったのは内側にグレーのメッシュが入った鹿毛のウマ娘。
『そしてもう一人、朝日杯フューチュリティステークスを制しているドリームジャーニー。こちらも小柄ながら、末脚の鋭さには定評があります』
『はい。展開が向いた時の切れ味は非常に怖いですね。ノルデンセミラミスが早めに動く形になれば、その後ろから一気に差し込んでくる可能性があります。逆にノルデンセミラミスが我慢しすぎれば、今度はカンパニーや前の組を捕まえきれるかという問題も出てくる。今日は彼女にとって、かなり難しい競走になると思います』
『個人的な印象として、トリッキーなコースのほうが彼女の適性に合っているように思う。今回の中山内回りでも注目だな』
解説の元トレーナーたちの目から見ても、今回のレースは実力拮抗と言ったところだろう。
『なるほど。短距離女王がそのスピードを見せつけるのか。それとも中距離の経験豊富な古豪たちが待ったをかけるのか。三階級制覇へ向けた第一歩、中山記念です』
画面が今日の一番人気へと切り替わる。
大星一つと小星三つを背負ったゼッケン。
ノルデンセミラミスは、雨に濡れたターフの上を静かに歩いていた。
『改めて8枠9番、ノルデンセミラミス。現在、単勝では僅差の1番人気です』
『人気は当然でしょう。ただ、断然人気ではないところに、ファンの見方が表れていますね。能力は疑いようがない。しかし距離はどうか。今日の1800メートルをどう走るか。皆そこを見ていると思います』
『地味なところだが、彼女だけ59ポイントのトップハンデだからな。カンパニーが58ポイント、他が57ポイントのところこの斤量差は大きい』
中山記念は別定戦のためG1(ジュニア級を除く)を勝っている彼女だけ2ポイント斤量が多い。
『さあ、各ウマ娘まもなくゲート裏へ向かいます。短距離とマイルを制した女王が、中距離戦線へ踏み込む一戦。女王が凱歌をあげるか、シニアのベテラン勢が待ったをかけるか。中山記念、このあと発走です』
中山レース場、関係者席。
「勝つことそのものはそこまで疑っていないのですがね」
「ええ、勝負にはなると思います。問題は勝ち方、ですね」
小雨に煙るターフを見下ろしながら、セミラミス陣営の吉富トレーナーと椿トレーナーは会話を交わす。
勝負にはなる。
練習でなら、対応の兆しは見えていた。
実戦形式の並走でも、まるで形にならないという感触ではなかった。
何より、ノルデンセミラミスというウマ娘の能力を思えば、この相手、この条件でも勝ち筋はある。
だからこそ、今日見るべきものは勝敗だけではなかった。
「どう勝つか、ですか」
「雨の中山1800というと、スプリングステークスを思い出しますね」
学園指定の耳付き雨合羽に身を包んだゼファーとバクシンオーが並んでそう言う。
スプリングステークス。サクラバクシンオー、クラシック級3月末の1800mG2。
当初は目指していたクラシック戦線への出走可否を占うべく出走したそのレースでは、バ場が重かったこともあり生涯唯一の2桁着順を経験している。
この敗戦をきっかけに短距離戦線への転向を確定させたサクラバクシンオー。今まさに同じく中距離挑戦への試金石として走る教え子への思いは如何ばかりか。
「あの子は、ティアラとはいえ私の往けなかったクラシックを制覇してくれました。あとは、見守るだけです」
「晴嵐が征こうとしているのが、豪風のその先でも、私の跡風でもなく、あの子自身の望みであるなら。……そう願わずにはおれません」
眼の前のゲートには最後の大外枠のウマ娘が収まろうとしているところであった。
各ウマ娘体勢が整い──ゲートが開く。
『スタートしました。各ウマ娘まずまず揃ったスタート。内からキングストレイルが先手を主張します。カンパニーも慌てず前へ。外からノルデンセミラミス、8枠9番ですがこちらも好スタートです』
『最初のコーナーまで距離はありません。ノルデンセミラミス、外枠からですが前の位置を取りに行きます。内からアドマイヤフジも進出していく』
『先頭はキングストレイル。番手にカンパニー。3番手の内にアドマイヤフジ、その外にノルデンセミラミス。まずは4番手あたり。外を回されすぎることなく、好位を確保しました』
「位置は取れましたね」
椿トレーナーが呟く。
「ええ。ここまでは予定の範囲です」
吉富トレーナーは、ターフビジョンから目を離さない。
『1コーナーから2コーナー。隊列は大きく変わりません。ノルデンセミラミスは4番手の外。折り合いはついているように見えます』
「呼吸も乱れていません」
「まだ、大丈夫でしょう」
それだけ言って、2人は再び黙った。
勝負にはなる。そこは、やはり疑う必要がなかった。
問題は、あるとすればここからだ。
『さあ向正面から3コーナーへ入っていきます。先頭はキングストレイル。番手カンパニー。その外、ノルデンセミラミスが少しずつ前との差を詰めてきました』
「……ああ」
椿トレーナーが、小さく息を吐いた。
『手応えは十分に見えます。ノルデンセミラミス、内にアドマイヤフジを見ながら、外からじわっと進出。これは無理に押しているようには見えませんが、前との差は縮まっている』
「押し始めましたね」
「はい」
吉富トレーナーは、ターフから目を離さない。
「本人は、位置を整えているつもりでしょう」
バクシンオーの耳が、雨合羽の中でわずかに揺れた。
「……まだ仕掛けでは、ないのでは?」
「うん。仕掛けじゃないね」
ノースフライトがバクシンオーの隣で静かに答える。
「でも、もう待ちきれなくなってる。中距離のペースに我慢できなくなってる」
『3コーナーを回って4コーナーへ向かいます。先頭キングストレイル、番手カンパニー。外からノルデンセミラミス、もうカンパニーの斜め後ろまで上がってきた。人気のノルデンセミラミス、ここで前を射程に入れます』
電光掲示板に出た1000m通過のラップタイムは61.9秒。
コースが異なるとはいえ普段のマイルなら57秒台、中山のスプリントなら56秒台で走るウマ娘にとってはあまりに遅い。
明らかに、1ハロン12秒台のペースに我慢がきかなくなっているようにしかみえなかった。
「これじゃあ最後まで余裕が残らない……」
フライトの呟きに吉富トレーナーは頷く。この様子では、合格点とはいかないだろう。
『4コーナーへ入る! 先頭キングストレイル、カンパニーが番手。しかし外からノルデンセミラミスが並びかけていく! 中山のコーナーでこの加速! これは強い! 短距離とマイルを制した女王、1800メートルでもこの脚を使ってくる!』
「いつもの形に入りましたね」
ノースフライトが静かに言った。雨合羽の下で、バクシンオーの耳が揺れる。
4コーナーで番手から仕掛けて先頭へと進出する体操服姿のノルデンセミラミス。
その走りはまさにノルデンセミラミスの、そしてサクラバクシンオー自身の勝ちパターンに他ならない。
頭に“1200mの、スプリンターズステークスの”とつくものではあるが。
『キングストレイルは苦しくなったか! カンパニー先頭に替わるか、いや外からノルデンセミラミス! 4コーナー出口、ノルデンセミラミス先頭!』
「中山の4角。外から前を射程に入れて、直線入口で先頭。彼女が一番よく知っている勝ち方です」
吉富トレーナーはターフから目を離さない。
「ですが、今日は1800mです。それでは、持たない」
椿トレーナーの声は低かった。
スタンドが沸く。実況が叫ぶ。
ターフを駆けるノルデンセミラミスは、間違いなく強い。
だからこそ、関係者席の沈黙は重かった。
『直線に入りました! ノルデンセミラミス先頭! カンパニーが内で食い下がる! 外からはドリームジャーニー! ドリームジャーニーが大外から飛んでくる!』
『残り200! ノルデンセミラミス先頭! カンパニーとの差は1バ身あるかどうか! しかしカンパニーもしぶとい! そして外からドリームジャーニー! 小柄な体をいっぱいに使って伸びてくる!』
「反応しましたね」
「ええ、全力です。勝ちに行きましたね」
椿トレーナーの声に、吉富トレーナーは短く頷いた。
それ以上、誰も言わなかった。
『残り100! ノルデンセミラミス先頭! 内からカンパニー! 外からドリームジャーニー! 差が詰まる! 差が詰まる! 女王苦しいか! いや、まだ先頭はノルデンセミラミス!』
『残り50! ノルデンセミラミス! カンパニー! ドリームジャーニー! 三人が迫る! しかしノルデンセミラミス、先頭は譲らない! 内外から迫る二人をしのぐ! しのぐ!』
『ノルデンセミラミス、しのぎ切った! ノルデンセミラミスです! 短距離とマイルを制した2つの距離の女主人、初めての1800メートルでも勝ちました! カンパニー、ドリームジャーニーが迫りましたが、最後まで先頭は譲りませんでした! 3階級制覇へ視程良好!』
「勝ちはしましたね。勝ちはしました、が」
「残っていた、あるいは絞り出した脚であって、残していた脚ではないでしょうね」
両トレーナーが言ったそれが、本日の結果だった。
その能力と根性は認められるべきだろう。だが、合格点には程遠いと言わざるを得ない。
帰ってくるセミラミスを迎えるべく、一行は下のウィナーズサークルへと移動する。
ターフビジョンと横の電光掲示板には、クビ差で粘りきった様子が映し出されていた。
| 中山 | 11R | 確定 |
| ||
| Ⅰ | 9X |
| |||
| > | クビ |
| |||
| Ⅱ | 2X |
| |||
| > | クビ |
| |||
| Ⅲ | 5X |
| |||
| > | 1/2 |
| |||
| Ⅳ | 6X |
| |||
| > | クビ |
| |||
| Ⅴ | 3X |
レース後のデブリーフィングは、控室で手短に行われた。
勝利そのものは、誰も否定しなかった。
稍重の中山1800メートル。外枠から好位を取り、カンパニーとドリームジャーニーを相手にクビ差でしのぎ切った。勝負にならないという懸念はなく、実際に勝ち切れるだけの能力も示した。
だが、吉富トレーナーの評価はそこまでだった。
3コーナーで前との差を詰め始めた時点で、セミラミスはすでに押し始めていた。4コーナーでは完全にいつもの中山の勝ち方へ入っていた。
直線ではドリームジャーニーの追い込みに反応し、待つことも測ることもやめて全力へ切り替えた。
今日勝つためには正しい反応だったのかもしれない。
しかし、それは宝塚記念へ向かってよい根拠にはならない。
吉富トレーナーはそう告げた。
椿トレーナーも走り切れたことは認めつつ、最後に全力を叩き込んだ分の消耗を確認する必要があると補足した。
結論として、宝塚記念は保留となった。
次に見るのはヴィクトリアマイル。本来の距離でどれだけ余裕を残せるか。中山記念の反動がどれほど残るか。
あるいは夏合宿の前半を消耗抜きに使ってでも、スタミナ増強へ踏み込む価値があるか。
それを見てから、宝塚記念へ向かうのか、秋の2000メートルへ絞るのかを決める。
セミラミスは静かに頷いた。
告げられた内容は理解している。
それでも、ヴィクトリアマイルは自分の距離だ。
今の日本に、マイルで自分と対等以上のウマ娘はいない。
勝つ。
勝った上で、示せばいい。
その受け取り方が、吉富トレーナーたちの求める確認とはわずかにずれていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。