驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、アダフェラ、チームルーム。
ヴィクトリアマイルを週末に控えた日。
出走表と展開予想を広げたテーブルを挟み、私はトレーナーさんと向かい合っていた。
とはいえ目新しい話はほとんどない。
枠順が確定してから今日まで、既に何度となく検討した内容だったからだ。
今日はあくまで最終確認。本番になって迷うことがないよう、考えられることを一つずつ潰しておくための時間だった。
「まず、基本方針は変更ありません」
トレーナーさんが出走表へ視線を落としたまま告げる。
「前半は流れを見て位置を決める。無理に前を取りにはいかない。直線へ向くまでに前方を射程へ収め、進路があれば抜け出す。いつもの競走です」
「はい」
異論はない。
今回の私は5枠9番。
先行したい娘は多い以上、わざわざ競り合って体力を使う必要はないし、逆に極端に下げる理由もない。
自分の脚を最も長く、最も効率よく使える場所に収まればいい。
昨年もそうした。そして勝った。
「問題があるとすれば、やはりウオッカさんでしょう」
やはり、そこか。あるいはそれしかないと言うべきか。
テーブルの出走表、3枠6番。
「府中では強いですね」
「強い、で済ませないように」
静かだが、少しだけ強い口調。
顔を上げると、トレーナーさんは普段と変わらない穏やかな表情をしている。
「昨年の安田記念。それに天皇賞。あの2戦で見せた走りは、今回も想定しておくべきです」
「承知しています」
昨年の安田記念。秋の天皇賞。
どちらも府中。
確かに素晴らしい競走だった。
もっとも、だ。
「毎日王冠では負けていますけどね」
口にすると、トレーナーさんは小さく息を吐いた。
「そういうところですよ」
「事実でしょう?」
「事実です。ドバイでもレヨネットさんが2戦とも先着していますね」
そう。ドバイで開催された2戦でいずれもレヨは2着、ウオッカは掲示板外だった。
「ですが、それを明日の安心材料にはしないでください」
言われるまでもない。ドバイと府中は違う。同じ左回りではあるが。
そう思ったが、口には出さず続きを待つ。
「ウオッカさんは戦績に波があります。貴女の見立てもそこは間違っていません」
そう。
府中でなら常に最高の走りができるわけでもないし、場所が変わればなおさらだ。
私やレヨのように遠征先でも大きく状態を崩さないタイプとは違う。
「ただ、谷があるということは、山もあるということです」
なるほど。
「そして、その山が出やすい場所が府中だと?」
「私はそう見ています」
筋は通っている。
東京優駿2400m1着、ジャパンC2400m4着、VM1600m2着、安田記念1600m1着、秋天2000m1着、ジャパンC2400m3着。
確かに宝塚記念や凱旋門賞、京都記念やドバイの掲示板外に比べればマシではある。
それに、安田記念のウオッカの脚は素晴らしかった。いくらクラシック級とはいえ2着のレヨを3バ身も引き離すとは。
だが、だ。今のウオッカはドバイ帰り、今にして思えば精彩を欠いていた昨年のVMと同じ状況だ。来月の安田記念ならともかく、今に山を持ってこれるだろうか。
よしんば持ってこれたとして、だ。
「では、仮にですよ。明日のウオッカさんが私以上の実力を発揮すると仮定しましょう」
トレーナーさんの眉がわずかに動く。
「何か取れる手段はありますか?」
沈黙。
これは別に
相手が危険だというなら、危険であることを前提として策を考える。
当然のことだろう。
「逃げますか?」
「勧めません。府中の長い直線で、最初から目標になります」
そもそも私は逃げを好かない。
理由は色々あるが、意味がないからだ。
最初から目標にされるのも、主導権を捨てるのも、消耗するのも。普通に走れば勝てるのに。
「では後ろへ?」
「それも勧めません。ウオッカさんの得意な形へ自分から入ることになります」
あの末脚は間違いなく脅威ではある。
わざわざ高速巡航という私の最大の持ち味を捨ててまで相手の土俵に乗ってやる必要はない。
「仕掛けを遅らせる」
「瞬発力勝負になりますね」
上に同じ。
「早める」
「今度はウオッカさんに追う目標を与える」
どうせ長くは保たないだろうが、せめて直線出口までは先行勢を風よけとして使っておきたい。
流石に最初から風を受け続けてウオッカに楽勝できるというほど侮ってはいない。
一つずつ、既に何度か検討した案を並べていく。
どれも成立しないわけではない。
だが、こちらの勝率を上げる策かと問われれば疑問が残る。
「ウオッカさんを見ながら走る、というのもありますが」
「彼女を見ている間に、前を取り逃がす可能性があります」
「そうですね」
結局そこへ戻る。
相手を意識すればするほど、私自身の走りから離れていく。
私は出走表に並ぶ他の名前へ視線を滑らせた。
先日の会見でも顔をあわせたが、いくらG1を勝っていようとあの面々では到底……。
「安田記念ならいざ知らず、今回の出走者の実力ではウオッカを掣肘することすらも難しいでしょう」
トレーナーさんが一瞬黙る。
「……本人たちの前では言わないように」
「当然です。失礼ですから」
なぜそんなことを念押しされるのだろう。
流石に本人らの前で言うわけがない。直接言ったらかなりストレートな侮辱である。
「ともかく、誰かがウオッカの進路を塞ぐ、仕掛けを遅らせる、脚を使わせる。そういった偶然を前提に組み立てるべきではありません」
「同意します」
「なら最後は私とウオッカになる」
「ええ」
「そこでもしウオッカの方が強ければ?」
トレーナーさんは少しだけ考えてから、はっきり答えた。
「その時は、どうにもなりません」
「ええ、そのとおりです」
ならば話は簡単だ。
小細工が利かず、最後は純粋な実力勝負になる。
それなら、私が勝つ。
トレーナーさんは資料を閉じ、今度は真っ直ぐこちらを見る。
「ですが、私が心配しているのはそこではありません」
「と、言いますと?」
「ウオッカさんが貴女より強いかもしれない、と考えすぎることです」
意味を測りかねて首を傾げる。強くはないという話をしていたつもりだったのだが。
「相手を意識するあまり仕掛けを変える。位置取りを変える。必要以上に後ろを確認する。彼女の120点を恐れて、貴女自身の100点を95点にする」
なるほど。
「それこそを避けるべきだと」
「はい」
トレーナーさんはそこで、ほんの少し表情を和らげた。
「いつも通りなら勝てる、とは申し上げません。ですが、勝つためには、いつも通り走るのが一番です」
その言葉に、私は改めて明日の競走を思い描く。
スタートから位置取り、先行集団後方を確保。
3コーナーから4コーナー、先行集団を風よけに使い脚を温存。
長い直線、直線に入ったところで前へ。
直線終盤でウオッカが来るか来ないか、といったところか。
昨年と同じように。
違うとすれば、お互いがこの一年で積み上げたものだけ。
トレーナーさんが次々と想定される状況を挙げていく。
「先行争いが激しくなったら?」
「付き合いません。直後まで下げます」
その消耗に意味はない。
「逆に誰も行かなければ?」
「前へ出ます。ただし先頭には立ちません」
誰も逃げなかったら面倒だが、最悪でも1枠1番のショウナンラノビアさんあたりは逃げそうだ。
「直線で内が塞がったら?」
「外へ出します。無理に待つ必要はありません」
去年は隙間が空いたからねじ込んだが、無理をする必要はない。
「ウオッカさんが予想より前にいたら?」
「位置だけ確認します。こちらの仕掛けは変えません」
むしろ巡航戦に乗ってくれるならそちらのほうが有利だ。
「ですが、過剰に警戒もしない。彼女ではなく、まず自分のレースを」
「もとより、そのつもりです」
そう答え終わると、トレーナーさんは満足そうに頷いた。
「では、今日のところは以上です。早めに休みなさい」
「はい。お疲れさまでした」
資料をまとめて席を立つ。
結局、作戦は何も変わらなかった。変える必要がなかった、と言った方が正しいか。
ウオッカは強い。府中では特に。
けれど、それはこちらが自分の競走を捨てる理由にはならない。
いつも通り走り、いつも通り勝利を。
前へ出て、追ってくる者より先に、ゴールへ辿り着く。
ただ、それだけだ。