驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
東京レース場、重賞用控室。
着替えを終え、姿見の前に立つ。
鏡の中には、赤い軍装に白い襷を掛けたウマ娘がこちらを見返している。
襟元に乱れはない。肩章も、胸元に並ぶ略綬も定めた位置に収まっている。
白い襷を指先でなぞり、わずかな捩れを直す。
髪にも耳にも問題はない。
無事の願掛けにと、いつの間にか背中まで伸びた栗毛は完璧に整えられている。
一歩下がり、全身を確認する。
脚は軽い。張りもない。
昨日までの調整も、今朝の状態も、何一つ予定から外れてはいなかった。
一分の隙もない。
ならば、あとは走るだけだ。
机の上に置いていた手袋を取り、両手にはめる。
今日やるべきことは既にトレーナーさんと確認した。
ウオッカがどこにいようと、何も変える必要はない。変えるべきではない。
いつも通り走る。いつも通り、自分の競走をする。
それでいい。
鏡へ最後に一度だけ目を向けた。
……問題ない。
控室のカーテンを開く。
控室にはいつもの面々が勢揃いしていた。
トレーナーさん、椿さん。
バクシンオーさん、フライトさん、ゼファーさん。
「今日もバクシンですっ!!」
「常のごとく、晴嵐の吹き下ろさんことを」
先輩方の激励に応える走りを。
今日の府中は風が強いという。その風に乗って勝利を。
「それでは行ってまいります」
それぞれの応援を背にパドックへと集合するために控室を出た。
パドックでのアピールをつつがなくこなした後。
地下バ道を進む途中、前方にポッカリと空間が空いている。
黒いレザージャケットに鹿毛のテールヘア。その後ろ姿はウオッカ。
間を空けて並びかけると、一瞬だけこちらに耳が向き、視線が交錯する。
言葉はない。今さら、確かめることもなかった。
「……随分と広々使ってらっしゃいますことですのね、お2人とも」
後ろから声が飛ぶ。
1つ上のティアラ2冠ウマ娘、カワカミプリンセスだった。
「レースまで2人きりで走るつもりではありませんでしょうね?」
「もちろんです」
「当たり前だろ」
2人してそう答える。
出走する以上、誰もが自らの勝利を目指している。
彼女も、他の15人も。それを疑うつもりはない。
「でしたら結構でございますわ」
そう。
3番人気の彼女を筆頭に、中団勢が少しでもウオッカに食らいついてくれるのであれば、これほど結構なことはない。
期待できないことはわかっているが。
『18連勝、G1・14連勝。短距離、マイル、海を越えてもその歩みは止まりません!』
『2つの距離の女主人、今日狙うはヴィクトリアマイル連覇! 5枠9番、ノルデンセミラミス!』
いつも通りの本バ場入場。
ゲート裏に集合し、最後のルーティン。
各ゲートにウマ娘が収まってファンファーレが鳴り響き、いよいよ発走の時を迎えた。
ゲートが開く。
意識するより早く身体が反応する。
踏み出しは悪くない。
左右を確認するより先に、前へ出る者の気配を捉える。
最内からショウナンラノビア。やはり行く。
その外から、あるいは私より外からも何人かが前を窺っている。
想定通り前が厚いパターンか。
1歩、2歩と加速する。
先頭を奪うためではない。狙うは番手。
前へ出る者たちの直後、その場所を取るために。
内へ切れ込むにはまだ早い。
私は5枠9番。内側には何人かいる。
無理に押し込めば、それだけで余計な脚を使う。
赤白の勝負服、1番ショウナンラノビアが前へ出た。黄色基調の勝負服、4番ブーケフレグランスも張り合っている。
私の内には芦毛の2番ブラボーデイジー、外には11番ヤマニンメルベイユ。
2人に挟まれたまま、ブーケフレグランスのスカーレットを思わせる赤みがかった栗毛の背後に入る。
よし。
最初の目的は達した。
私の位置は2人居る逃げウマ娘の後方。左右も挟まれているし、後方につけているウマ娘もいる。
一見囲まれているように見えるけれど、前は実質開いているようなものだ。なんなら体格差を利用して外に持ち出してもいい。
大切なのは順位ではない。前との距離と、走りやすい場所だからだ。
向正面。
隊列が落ち着いた。
逃げるショウナンラノビア、ブーケフレグランスはやや下げて来たので番手の位置には4人。
その内から2人目に私、外には2人。
悪くない。
前のウマ娘が風を受けてくれる。
私はその後ろで脚を使わずに済む。
向正面を過ぎて3コーナーへ入る。
速くはない。58秒半といったところか。
少なくとも私にとってはそうだ。
前が無理をしている様子もなく、こちらも急かされるほどではない。
もう少し、57秒半ぐらいまでは流れてくれてもいいくらいだが、問題はない。
遅ければ、自分から動けばいいのだから。
さて、後ろは。
カーブの曲率を利用して一瞬だけ後ろに視線を動かす。
いた。
ウオッカ。
私の直後の列、内寄りにつけている。
想定の範囲内ではあるが、前寄りか。
それだけ確認して前へ視線を戻す。
これ以上見る必要はない。
あちらがどこを走ろうと私のレースとは関係ない。
逃げを選べば別だったが、そうしてくれるなら楽に差せる。
前日のトレーナーさんの言葉を思い出す。
彼女の120点を恐れて、私の100点を95点にしない。
その通りだ。
ならば私は、100点を出せばいい。
3コーナーをまわる。
前との差は変わらない。
先頭はショウナンラノビア。
私のすぐ外にはブーケフレグランス、ヤマニンメルベイユがいる。
内側にいた芦毛のブラボーデイジーは徐々に位置を下げている。
皆、まだ動かない。
当然だ。
東京の直線は長い。
ここから仕掛ければ、それだけ長く脚を使うことになる。
だから、まだ。
私は前の背中を見ながら、一定の呼吸を保つ。
脚にも余裕がある。
この流れなら、ここまで使ったものなどたかが知れている。
コーナーの外からヤマニンメルベイユが少し前へ出た。
行くのか。
一瞬だけそちらへ意識を向ける。
だが、付き合う必要はない。
こちらの進路を塞ぐほどでもないし、あちらが先に脚を使うなら好きにさせればいい。
少し後ろへ下がる気配もある。
内からも誰かが位置を主張している。
それでも私の前は空いている。
問題ない。
残り600。
そろそろだ。
前を走るショウナンラノビアの脚を見る。
まだ止まってはいない。
ブーケフレグランスも同じ。
けれど、ここまで。
少しずつ歩幅を広げる。
急激に加速する必要はない。
直線へ向くまでに前との差を詰め、出口で並びかければいい。
いつもの競走。
ショウナンラノビアの背が近づいてくる。
1バ身。
半バ身。
向こうもこちらに気づいたのだろう。
脚をいっぱいに使って抵抗する。
けれど、加速度が違う。速度が違う。
まだ私は仕掛けきってすらいないというのに。
4コーナー。
身体を傾けながら、前との距離をさらに詰める。
外から来る気配。
後ろからも何人かが動き始めた。
当然だ。
私が動いた。
ならばここを勝負どころと見る。そうでなければ間に合わない。
けれど、ここから私と同じだけ脚を使える者が何人いるか。
前を見る。
隊列が直線へ向く。
逃げていたショウナンラノビアとブーケフレグランスの間に視界が開いた。
その外側に1人分。十分だ。
そこへ身体を滑り込ませる。
一歩。二歩。
脚へ力を伝える。
捉えた。
横へ並び、そして、そのまま前へ出る。
思っていたよりも、ずっと楽だ。
まだ全力ではない。それなのに前の2人が後ろへ流れていく。
まもなく400のハロン棒が視界に入る。残り450mほど。
先頭に出る。
スタンドが正面に見え、歓声が大きくなる。
いつもの光景だ。
ここから。
前へ出て、速度を上げて。
追ってくる者に必要なだけの差をつける。
何度も繰り返してきた。
今回も変わらない。
そう思ったところで、右後方に影。
誰かと見るまでもない。
脚音で分かる。気配で感じる。
滑らかに、それでいて力強い踏み込み。
そもそも私を捉えうる者など、この場に1人しか居ない。
ウオッカ。
やはり来たか。
4コーナーでは私の後ろにいたはずだ。
そこから、前の集団が開いた外側へ出したらしい。
やはり誰も掣肘できなかったか。まあ当然だ。
振り返らない。その必要はない。
来るとすれば彼女であることなど、最初から分かりきっていた。
残り400。
さあここからだ。
息を一つ吐き、脚を切り替える。
高い速度へ乗せ、そのまま落とさず運び続ける。私の最も得意な走りへ。
体が前に出る。
まだ内側で粘っていたショウナンラノビアの姿が視界から消えた。
これでいい。
私は私の100点を出す。
そのうえで、先にゴールすればいいのだ。