驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
残り400。眼前には高低差2mの坂が立ち上る。
ギアを一つ切り替える。
高い速度へ乗せ、そのまま落とさず運び続ける。
私の最も得意な走り。
地面を蹴るたび、身体が前へ出る。
呼吸は乱れていない。脚もまだ残っている。
これなら。
そう思った、その直後。
右後方の気配が消えない。
ウオッカだ。
離れない。
一歩。もう一歩。
こちらも加速している。
他のウマ娘の気配は既に後方に消えつつある。間違いなくスピードには乗っているのだ。
だというのに、足音が遠ざからない。
ならば、もう一段。さらに脚へ力を込める。
東京、府中の長い直線。
残り300。
坂を登る。今更この程度の坂など物の数には入らない。
だがそれは後ろの彼女も同じようだ。
その間も距離は縮まらない。どころか、僅かではあるが詰められてすらいる。
後方の気配との距離、彼我の速度差、残り行程。
それらを一瞬、考え合わせる。
……微妙、だな。
何にせよ、敗北が決定してから予備兵力があっても意味がない。
抱え落ちするぐらいなら今切るべきだろう。
その瞬間、世界から喧騒が消えた。
東京レース場を満たしていた歓声も、吹き付ける向かい風の風切り音も、潮が引くように静寂へと取って代わられる。
足元から芝の感触が消え、代わりに蹄鉄が硬い床を打つ音だけが広間へ響いた。
そこに広がっていたのは、白亜の大理石を敷き詰めた玉座の間。
尖塔、列柱、重厚な梁、厳かなアーチ。
華美を抑えた荘厳な造りの壇下には赤い絨毯が敷かれ、奥の大扉へまっすぐ続いている。
そして手前には、3座の玉座の背。
その壇上。
3つの玉座の後ろに、私は立っていた。
天井まで届く高窓から、赤、白、金の三条の光がそれぞれの玉座へ差し込んでいる。
私は蹄音を響かせながら中央の玉座へ歩み寄り、その背へ白手袋の手を添えた。
その静謐を破るように、高らかなエキゾーストが響き渡る。
……来たか。
正面の大扉が乱暴にぶち破られ、大破した扉から黄色に水色のラインが入った大型バイクが
門から突然ウマ娘が飛び出してくる、まさに文字の成り立ち通りというべきか。
横滑りに停まったバイクに跨るはウオッカ。
彼女は被っていたヘルメットのバイザーを跳ね上げて笑う。
「へえ、なかなかセンスいいじゃねぇか。セミラミス」
「ウオッカこそ、“カッケェ”ですよ」
一段高くなった玉座の脇から、絨毯を踏み荒らし乗り込んできた闖入者を見下ろし会話をかわす。
それにしても、だ。
腰に下げた
「ですが、誰の許可があってここにいらしたので? マイルは私の距離ですよ」
「ハッ! そっちこそ何勝手に城ぶっ建ててんだよ! こちとら府中に愛されたウマ娘だぞ!?」
そう言って彼女は口元を吊り上げながらエンジンを空吹かす。
なるほど、もはや言葉は要らないか。私も
空吹かしの轟音が広間を震わせる。
私も
ヘッドライトの軌跡と剣先が一点で噛み合った瞬間、世界が再び反転した。
再び府中の直線が戻ってくる。
あの“領域”のぶつかり合いを経てなお、いまだ脚は残っている。
だが突き放せたということではない。あくまで互角だったとみるべきか。
残り200。
右隣にウオッカ。
肩を並べたまま、互いに一歩も譲らない。
脚は動いている。呼吸もまだ保つ。
こちらが止まったわけではない。
それでも、残り100を切ったところで、黒みがかった鹿毛がわずかに前へ出た。
半歩踏み込む。差を戻す。
もう一度、向こうが出る。
頭ひとつ。肩ひとつ。
僅かな差なのに、どうしても埋まらない。
まだだ。
脚へ残るものをすべて叩き込む。
身体は応える。速度も落ちない。
なのに、その背は遠ざかりもしなければ、近づきもしなかった。
違う。
ほんの少しずつ、離されている。
残り50。
ウオッカが明確に前へ出た。
それでも追う。
最後の一歩まで。
けれど差は縮まらない。
半バ身。
その差を残したまま、私たちは決勝線を駆け抜けた。
1コーナーのポケットで減速しながら口から漏れた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「……負けた、のか」
脚を緩める。
荒い呼吸を整えながら、そのままいつものように進路を取る。
何度も繰り返してきた動きだった。
勝って、減速して、歓声を受けながら戻っていく。
数歩進んだところで、足が止まる。
違う。
今日の私が向かう先は、そちらではない。ほんの一瞬だけ立ち尽くし、踵を返した。
その動作ひとつで、ようやく決勝線を越えた時には実感のなかった事実が、少しだけ輪郭を持った気がした。
負けた。
久しぶりに。
顔を上げる。
電光掲示板には、すでに結果が映し出されていた。
| 東京 | X11R | 確定 | |||
| Ⅰ | 6X | ||||
| > | 1/2 | ||||
| Ⅱ | 9X | ||||
| > | 大差 | ||||
| Ⅲ | 2X | ||||
| > | クビ | ||||
| Ⅳ | 1X | ||||
| > | ハナ | ||||
| Ⅴ | 5X | ||||
| 芝 | レコード | ||||
| 良 | タイム | 1:31.9 | |||
| ダート | 4F | 45.3 | |||
| 良 | 3F | 33.4 | |||
そして着順の下にはレコードを示す表示。
悪い走りではなかった。
仕掛けを間違えたとも思わない。
直線へ向いた時点で脚は十分に残っていたし、最後まで止まってもいない。
むしろ、これまで走ってきたマイル戦の中でも、かなり良い部類だっただろう。
その私より、ウオッカの方が速かった。
ただ、それだけだ。
スタンドから降り注ぐ歓声が、ようやく耳へ戻ってくる。
ウオッカの名を叫ぶ声。けれど、それだけではない。
私の名前も聞こえた。拍手もある。思っていた以上に大きい。
振り返れば、まだ興奮の収まらない観客たちが立ち上がり、こちらへ向かって手を叩いている。
どうやら彼らにとっては、相当に面白いレースだったらしい。
そうか。
なら、それは悪くない。勝てなかったこととは、別の話だ。
もう一度だけ電光掲示板を見る。
半バ身。たったそれだけ。
だが、確かに届かなかった。
「……戻りましょうか」
誰に言うでもなく呟いて、私は今度こそ正しい方角へ歩き出した。
初めての、2着として受けるインタビュー。
「惜しくも2着でした。今のお気持ちは」
「悔しくない、と言えば嘘になります。ですが、今日はウオッカの方が速かった。それだけです」
「ご自身の走りについては?」
「悪くありませんでした。だからこそ、言い訳のしようもありませんね」
「次走は宝塚記念と発表されていましたが、何か考えていることはありますか」
「それは、これからトレーナーさんと相談します」
初めての、2着位置でのウイニングライブ。
幸いにしてというか、私の身体は『本能スピード』の振り付けを忘れてはいなかった。
だが、細心の注意を払わねばセンターのパートに入りそうになる。現に、1度パートを間違えかけた。
ライブ終了後、控室に戻る途中でウオッカとばったり会った。
さっきまでセンターに立っていた勝者は、まだ幾分か上機嫌そうだった。
「……今日は、私の負けですね」
「おう。今日はな」
思わず眉をひそめると、ウオッカは楽しそうに笑う。
「なんです、その言い方は」
「ようやく俺を見たな、お前」
「……どういう意味です」
まるで、私がウオッカのことを眼中に無かったと、そう言いたいのか。
……否定しきれなかった。
昨年は海外、今年は3階級制覇。
その前哨戦としてしかヴィクトリアマイルを、ウオッカとのレースをみていなかったのではないか、と言われれば反論は難しい。
「……次走は、トレーナーさんと相談しますよ」
「へいへい」
「ですが──次も、そう簡単にはいきませんから」
「上等だ」
それだけ言い合って、互いに別の控室へ向かった。
その時の私はまだ、その“次”がどこになるのかを決めてはいなかった。
控室の扉を開ける。
待っていたトレーナーさんと椿さん、それからバクシンオーさんたちがこちらを振り向いた。
労いの言葉が飛んでくるより先に、私は口を開いた。
「次走ですが、安田記念に変更したいです」
一瞬、室内が静まった。ゼファーさんが半ば安堵したように息を吐くのを尻目に、トレーナーさんの反応をうかがう。
トレーナーさんは一度目を閉じて考えを巡らせたあと、おうむがえしに言葉を発した。
「……安田ですか」
「はい」
自分でも驚くほど、答えは早かった。
バクシンオーさんが大きく頷き、フライトさんが目を見開いている。流石に話が唐突すぎたか?
「宝塚記念は?」
「安田から宝塚への連闘は可能でしょうか」
質問に質問を返した私へ、トレーナーさんはすぐには答えなかった。
一方で背後の椿さんはわかりやすく渋面を作っている。流石に無茶だったか。
それから、トレーナーさんはゆっくりと首を横へ振る。
「……認められません。距離延長を伴う状態で、その間隔は短すぎます」
「であれば、宝塚を切ります」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
それぞれが各々の反応を示す中、バクシンオーさんだけが黙って私を見ていた。
言葉が口を離れてから、自分でその意味を理解した。
……宝塚を、切る?
3階級制覇は。
あれほど望んでいたものを、私は今、何の逡巡もなく後回しにしたのか。
トレーナーさんはしばらくして、静かに問う。
「……そこまでして、ウオッカに勝ちたいのですか」
「……はい」
自分の口から出た答えに、また少し驚いた。
「1600mで負けたまま2200mへ進むというのも筋が違うでしょう。マイルでウオッカに勝てないのであれば、中距離などおぼつきません」
……そのとおりだ。我ながら、筋は通っている。
中山記念1800mですら僅差、今回のヴィクトリアマイルではついにひっくり返された。
トレーナーさんたち自身、あれを宝塚へ向かってよい根拠とは認めなかった。
「それに、中山記念の内容を見る限り、現状では普通に走って1800m前後が限界です。そこから400mの延長がある宝塚記念か、同じ条件の安田記念かの択一であれば安田記念を選ぶべきでしょう」
トレーナーさんはしばらく私を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……では、安田記念一本に絞りましょう」
「はい」
返事だけは、いつも通りだった。
「……今の理屈、後付けですよね」
「ええ、あの娘は頭の回転が良すぎる。自分すら騙せてしまうほどに」
セミラミスがゼファーとともに先に退出した控室で、戸締りをしつつトレーナー2人が会話をかわす。
「勝てば秋天、3階級制覇継続として、もし再び負けたら?」
「それは当然、計画を白紙に戻すのでは。本人の理屈ではそうでしょう」
「──本当に?」
フライトがぽつりと呟いた一言に、荷造りをしていた4人の手が一瞬止まる。
「……その件は、結果が出てから考えましょう」
絞り出すようにそう言ったバクシンオー自身が、たかだか1度や2度の敗北で、目標を諦めるようなウマ娘ではないと信じていた。