驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
ヴィクトリアマイルの表彰やウイニングライブも終わり、レース場と学園を往復する臨時のシャトルバスへ乗り込む。
トレーナーさんたちはまだレース場に用事が残っているとのことで、私はゼファーさんに付き添われ、一足先に寮へ戻ることになった。
レース場と学園は近い。
道路状況にもよるが、ほんの十数分もあれば着く距離だ。
窓際の席へ腰を下ろし、流れていく府中の街並みをぼんやり眺める。
いや、見てはいなかった。
残り400m。
あの時点では、まだ私が前だった。
ウオッカは一列後ろ。直線へ向いた時には十分な差があった。
そこから300、200と詰められて──。
「……セミラミスさん」
呼ばれて、顔を上げる。
「はい」
「今宵はもう、風を追わずに休まれた方がよいかと」
ゼファーさんが心配そうにこちらを見ていた。
敗戦直後なのだから、今日は身体も頭も休めろ、という意味だろう。
「お気遣いありがとうございます。そうさせていただきます」
そう答えると、彼女はまだ何か言いたげだったが、やがて小さく頷いた。
再び窓へ目を向ける。
敗れたことは変えられない。
ならば変えられるのは、次だけだ。
バスが学園へ到着するまでの短い時間、頭の中では何度も今日の直線が繰り返されていた。
トレセン学園、美浦寮、自室。
タブレットの画面だけが光る室内で、何度も動画を見返す。
残り400。ウオッカはこの時点で1列後ろ。残り300で差を詰められ、200で並ばれた。
なら次は、あの位置まで自由に上げさせなければいい。
ヴィクトリアマイルでは駄目だった。
私より前にいた者は、直線へ向けばすぐに脱落した。ウオッカの周囲にも、彼女の進出を阻めるだけの者はいなかった。
次の舞台は東京1600m。安田記念。
今日と同じコースなら、やりようはいくらでもある。
ヴィクトリアマイルと違ってマイルの強豪が集まる安田記念では、それゆえに駆け引きの介在する余地があるのだ。
ましてマイルで私を打ち破ったウオッカが何の掣肘も受けないことはありえない。
私とウオッカでマッチレースに持ち込まれてしまったのが敗因なのだから、ウオッカと十数人で戦ってもらえばいい。
ディープスカイでも、カンパニーでも、スーパーホーネットでも、香港のアルマダでもいい。
それこそ取れる手段など山ほどある。
消すべき相対差はたった半バ身。
もちろん私もタダでは済むまいが、それで構わない。
バ群に閉じ込めてもいい、大外を回らせてもいい。
とにかく0.1秒だけでもウオッカから余計に奪うことができれば、私が勝つのだ。
そのためには──
刹那、視界が光で満たされる。
「うわっ、帰ってたなら電気ぐらいつけなよ」
眩しさに目を細めながら振り返る。 入口に立っていたレヨが、壁のスイッチに手を置いたままこちらを見ていた。
「……おかえりなさい」
「ただいま。っていうか、何してんの?」
視線が私の手元へ落ちる。
一時停止した画面には、残り200m。私の横へ並びかけるウオッカが映っていた。
「ああ……いえ」
何か言われるかと思ったが、レヨはそれ以上触れず、鞄を机の横へ置いた。
「お風呂は?」
「……まだです」
「ふうん」
短いやり取り。そしてまた沈黙。
喧嘩をして以来、こういう時間が増えた。
以前なら帰ってきた時点で、その日あったことをどちらからともなく話していた。今は互いに何を話せばいいのかわからない。
私は再び画面へ視線を戻す。 残り400mまで巻き戻して、再生。
「……姉さん」
だがすぐに呼ばれて、指を止める。
「はい」
「今日さ」
そこでレヨは口ごもった。
ベッドへ腰掛け、何を見るでもなく床へ視線を落としている。
「……悔しかったでしょ」
思いがけない言葉だった。
「それは……はい」
半バ身。 どうしても届かなかった差が蘇る。
「だったら、今日はもういいんじゃないの」
「何がですか?」
「それ」
レヨが顎でタブレットを示した。
「何回見たって今日の結果は変わんないでしょ」
「ですが、次があります」
「そうじゃなくてさ」
レヨの語気がわずかに強くなり、しかしすぐにしぼむ。
「……負けたら、すぐ次の勝ち方考えなきゃいけないわけ?」
「ええ。次までもう時間がありませんので」
考えなければならない。 いや、考えずにはいられなかったのか。
いずれにせよ安田記念までは中2週。あまり時間がない。
「そうじゃなくてさ」
レヨは少し苛立ったように眉を寄せた。
「今日ぐらい、悔しかったでいいじゃんって言ってんの」
耳がぴんと立ち、それから気まずそうに伏せられた。
「……負けたからって、全部駄目だったことにはならないでしょ」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
負けた。だから次は勝たなければならない。それは当然のことだと思っていた。
けれど、今日の私がすべて間違っていたのかと問われれば、そうではない。
最後まで走った。出せるものは出した。それでも届かなかった。
……いや、何一つとして間違ってなどいなかった。レース中の行動には何一つとして瑕疵はなかった。
ただ一つ。
今日この日の府中1600において、ウオッカの実力が私以下であるという想定のみが誤っていた。
「……悔しかったです」
口にすると、思っていたよりも素直にその言葉は出た。
「うん。悔しかったよね」
その言葉に、指先から少し力が抜けた。
思えば、帰ってきてからずっと肩に力が入っていたらしい。
画面の中の自分とウオッカを睨み続けていた目を閉じ、眉間に寄っていたシワを伸ばすように揉む。
「……そう、ですね」
レヨの言う通りだ。 敗因を分析することと、今日まで積み重ねてきたものを否定することは違う。
「ありがとうございます、レヨ」
「……別に。姉さんが暗い部屋でずっとレース見てんの、気味悪かっただけ」
早くお風呂はいらないと閉まっちゃうよ、とそっぽを向いてしまった。
だが尻尾だけが、所在なさげにベッドの端を叩いている。久しぶりに、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
「……それで」
レヨが続ける。
「次、宝塚だよね」
一瞬、何のことかわからなかった。
「ほら。前に言ったじゃん。あたしも出るって」
ああ。
そういえば、そんな話をした。 レヨが中距離路線へ進むと決めた時だったか。宝塚で一緒に走れるのを楽しみにしている、と。
「……あたし、結構楽しみにしてるから」
こちらを見ないまま言う。声音だけは何でもないことのように装っていた。
覚えている。
以前、確かにそう言っていた。
一瞬だけ、タブレットを持つ手に力が入った。
「……申し訳ありません」
レヨの耳が動いた。
「宝塚記念には出ません」
ゆっくり、こちらへ顔が向く。
「……え?」
「次走は安田記念です」
そう言って、再びタブレットへ目を落とす。 停止していた映像を少し巻き戻す。残り400m。
「今日の差は半バ身でした。同じ東京1600mですから、修正できる余地があります。次なら──」
「ちょっと待って」
再生ボタンへ伸ばした指が止まる。
「宝塚、出ないの?」
「はい」
「……もう決めたの?」
「安田記念から距離延長を伴う状態では転戦は認められない、と。ですので宝塚は切りました」
レヨは何も言わない。
「マイルでウオッカに負けたまま中距離へ進むわけには行きません。まずウオッカを──」
「前に言ったこと、覚えてる?」
思考を遮られ、顔を上げる。
「宝塚で、姉さんと走るの楽しみにしてるって」
「……はい。覚えています」
そう答えると、なぜかレヨの顔から表情が消えた。
「そっか」
短い言葉だった。
「ですが──」
「うん。わかった」
レヨは立ち上がった。
「勝てるといいね。安田記念」
「あ……はい。ありがとうございます」
そのままレヨは廊下へ向かう扉へと手を掛ける。
「アネキのとこ行ってくる」
メジャーさんのところに行く、と言い残してレヨは部屋を出ていった。
閉じた扉を見る。
何か、言葉を間違えただろうか。
けれど宝塚へ出ないこと自体は、もう決めたことだ。レヨが楽しみにしてくれていたことは申し訳なく思うが、それを理由に安田を取りやめることも違うだろう。
……安田で勝てばいい。
そうすれば、少なくともこの選択は間違いではなかったことになる。
もう一度タブレットへ視線を戻した。
残り400m。 ウオッカはまだ後ろにいる。
今度は、ここからだ。
画面の向こうで私を追う黒鹿毛の姿へ意識を戻す。
あと3週間、既にシニア2年目の今劇的な能力向上はもはや見込めない。
付け焼き刃でもなんでもいい、0.1秒を削るために、なにか武器が必要だ。
美浦寮、廊下。
閉じた扉を背に、彼女は絞り出すように呟く。
「……これで負けたら承知しねぇからな」