驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟、チーム”アダフェラ”チームルーム。
「どうやらセミラミスさんなりに休むよう努めたようですね」
「……はい」
宝塚記念から数日、私はトレーナーさんの元を訪れていた。
微苦笑といった表情のトレーナーさんの言葉には若干の含みがあるが、休み中の件が報告されていたならば致し方ないかもしれない。
「きちんと妹さんとも遊べていたようですし、そこまでとやかく言うつもりはありませんよ」
そう、あの宝塚記念のあと、膝枕耳かき抱っこと半ば幼児返りしたレヨを何とかなだめ、約束通り無事に走り切ったということで甘味を食べに出かけたのだった。
その日向かった先は府中某所の甘味処。カフェさんとユキノさんのご縁があったという老舗だった。
「おっ出かっけおっ出かっけ~」
敗北で拗ねていたのが嘘のように半ばスキップして歩くレヨ。
学園からしばらく離れると、とたんに腕を絡めて甘えてくるので歩きにくいことこの上ない。
さすがに胸と腕で完全にホールドされると危ない……とレヨの方を見ると、にまにまとこちらを見上げてくる。
「でも20年分って言ったよね?」
「言ったけど……そもそもお互い20年も生きてないでしょう」
「それはあれだよ。追徴課税に延滞金、重加算税にちょーばつ的賠償金ってやつ」
さよか。
でもまあ一生でもって言っちゃったしなぁ。まあしゃあなし。
「そういえばさ、なんか部屋にジャーニーさんから荷物届いてたけどどしたの?」
「……さあ、何でしょうね。……開けてないよね?」
開けてはないよー、との返答に、気づかれないように胸をなでおろす。
あのドチビがこのタイミングで送りつけてくるとしたら、あのメイド服以外にあるまい。
なお、確かにレヨは封を開けてはいなかった。
ただし、品名のところにメイド服在中と大書してあり、後で着てみるようせがまれたのは別の話である。
マジで許さないからなあのインテリヤクザ。
店に入るなり、レヨは品書きを端から端まで眺めた。
「クリームあんみつ。白玉追加。あと黒蜜多め。ウマ娘盛りでね」
「随分いきますね」
「宝塚終わったからいいの」
まあ確かに後は夏合宿だけだが。
運ばれてきたタライほどの器を、レヨは実に幸せそうな顔で平らげた。あんこ、寒天、白玉、果物。最後に残った黒蜜まで匙ですくって舐め取る。
「……もう一つ頼んでもいい?」
「まだ食べるの?」
「今日くらいいいでしょ」
そう言われると弱い。結局、2杯目に抹茶あんみつ、その後にぜんざいまで追加した。
「お姉ちゃんも食べる?」
「私は結構です。見ているだけでお腹いっぱい」
「じゃあこれもらうね」
私の前に置かれていた最中まで当然のように回収される。
「レヨ」
「なに?」
「流石に食べ過ぎでは?」
「20年分」
「……まあいいけど」
呆れながらも止める気にはならなかった。負けて悔しかった分くらい、今日だけは甘やかしてもいいだろう。
……それに、後で困るのは自分なのだから。
「……まあ姉妹仲が戻ったようで何よりです。猿田トレーナーからはレヨネットさんの太り気味の件について苦情が来ていましたが」
「担当の体調管理はご自身の管轄では?」
「たしかにそうではありますが」
まあそりゃあんだけ食えば太り気味にもなるだろう。
いくら和菓子がヘルシーといえど、限度がある。というかあんこや白玉は糖質の塊なんだが。
トレーナーさんは小さく息を吐くと、机上の資料を揃え直した。
先ほどまでの微苦笑を消し、表情が仕事のものへ戻る。
「では、本題に入りましょうか」
「はい」
私も座り直す。いよいよ本題だ。
「夏合宿以降、秋のローテーションについてです」
来た。
休養を命じられてから、ずっと棚上げされていた話だ。
「その前に、一つだけ確認しておきたいことがあります」
トレーナーさんはそう前置きして、まっすぐこちらを見る。
「安田記念では、府中の1600メートルでウオッカさんに敗れました」
胸の奥が、わずかに疼く。
だが、あの直後のように息が詰まることはなかった。
「ええ」
「秋の天皇賞は、同じ府中で2000メートルです」
分かっている。
むしろ、分かっているからこそ。
「距離はさらに400メートル延びます。中山記念では1800メートルを勝ち切りましたが、余力を残せたとは言い難かった。ウオッカさんにとっても、マイルより2000メートルの方が走りやすい可能性があります」
一つ一つ念を押すように並べられる。
どれももう分かっている。
「それでも」
トレーナーさんが一度言葉を切った。
「秋の天皇賞へ挑みたいですか?」
「はい」
自分でも驚くほど、答えは早かった。
トレーナーさんは何も言わない。
ただ続きを待っている。
少し前の私なら、ここで3階級制覇だとか、ウオッカさんへの雪辱だとか、理由をいくつも並べていただろう。
それらが無くなったわけではない。
今でも勝ちたい。3階級制覇だって成し遂げたい。
けれど。
「走りたいです」
口にしてみると、ひどく単純だった。
「2000を。私が、スプリンターの私がどこまで往けるのかを試したい」
トレーナーさんはしばらく私の顔を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そうですか。では、秋の天皇賞を目標にしましょう」
あっさりと告げられ、今度はこちらが瞬きをする。
それだけだった。
以前のように、本当に貴女の望みなのかとは聞かれなかった。
「……よろしいのですか?」
「そのために確認したのですが」
トレーナーさんはそう言って、机上の資料をこちらへ滑らせた。
「では、秋の予定を決めてしまいましょう」
紙面には、夏合宿以降の重賞日程が並んでいる。
「まず夏合宿。これは予定通りです。その後、セントウルステークス」
ここに異論はない。昨年同様、秋の短距離戦線へ向けた始動戦だ。
「続いて、スプリンターズステークス」
指先が一段下へ移る。
「そして、天皇賞(秋)」
東京、芝2000メートル。
改めて文字として示されると、胸の奥がわずかに高鳴った。
「スプリンターズステークスから中3週ですね」
「ええ。余裕のある間隔とは言えませんが、貴女なら調整可能と判断しています」
そこで一度、トレーナーさんがこちらを見る。
「ただし、2000メートルへ向けて身体を大きく作り替えるつもりはありません」
「……私がスプリンターだからですか」
「それもあります」
トレーナーさんは頷いた。
「貴女の長所を削ってまで中距離へ合わせる意味はないでしょう。中山記念でも、その必要がないだけの能力は示しました」
ならば、今の私のまま2000メートルへ挑む。その言葉は、思った以上にすんなりと胸へ落ちた。
「天皇賞の後は?」
「状態に問題がなければ、マイルチャンピオンシップです」
そこまで聞いて、私は少しだけ目を細めた。
「香港は?」
「行きません」
間髪入れず返ってきた。
「随分きっぱり言いますね」
「今年は2000メートルへ挑むのでしょう」
トレーナーさんは呆れたように息を吐く。
「セントウルステークス、スプリンターズステークス、天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ。これだけ走れば十分です。そこからさらに海外遠征まで詰め込むつもりはありません」
「走れないとは思いませんが」
「走れるかどうかではなく、走らせるかどうかを判断するのが私の仕事です」
ぐうの音も出ない。これでも一応連覇がかかっているのだが。
「それに、もうシニア2年目です」
不意に続いた言葉に、私は顔を上げた。
「今すぐ決める必要はありません。ただ、そろそろその先の身の振り方について考えておいてもいい時期でしょう」
その先。
引退。蹄鉄を外すのか。
あるいは、もう1年走るのか。
これまで意識していなかったわけではない。だが、まだどこか遠い話のように思っていた。
思えばメジャーさんの引退から1年半。あの人は3年目まで走っていたが、さりとて皆がそうするわけでもない。
「学園やURA側も、引退となれば準備があります。セレモニーや今後の進路も含めて、ある日突然というわけにはいきませんから」
「……そうですね」
私は日程表へ視線を戻した。
9月13日、セントウルステークス。阪神1200m。
10月4日、スプリンターズステークス。中山1200m
11月1日、天皇賞(秋)。東京2000m。
11月22日、マイルチャンピオンシップ。京都1600m。
秋の予定は、そこまで。
その先はまだ白紙だった。
もっとも、今はまだその白紙について考える時ではないだろう。
「では、これでお願いします」
「ええ」
トレーナーさんは頷き、日程表を脇へ置いた。
「それでは次です」
今度は別の資料が机上へ広げられる。
中山記念。
安田記念。
そして、昨年の天皇賞(秋)。
「秋の天皇賞を走るとして、どうやって勝つかを考えましょう」
トレーナーさんの指先が、まず中山記念の資料へ落ちた。
「ここでは勝ちました。ですが、内容をそのまま2000メートルへ延長するのは難しい」
「ええ」
自分でも分かっている。
あの時、最後に使ったのは残していた脚ではない。残っていた脚を、さらに絞り出して使った。
ある意味で根性で粘りきった走りだった。
「中距離の流れに合わせて待つ。これが一番素直な方法ですが、貴女にはあまりに向いていません」
「……はい」
61秒台の1000メートルが遅く感じて、じわじわと前へ出てしまったのは私だ。
レース映像を見て愕然とした。私はああまでスプリンターだったのか、と。
指先が次の紙へ移る。
安田記念。
「逆に、最後まで脚を溜めて直線勝負に持ち込むのも得策とは思えません」
「ウオッカがいますから」
府中の1600メートルですら届かなかった。
まして距離が延びた2000メートルで、真正面から末脚を比べる理由はない。
最後に、昨年の天皇賞(秋)。
スカーレットが先頭を走り、ウオッカがそれを捉えたレース。
「なら、早めに前へ出て押し切る」
トレーナーさんがそう言って、すぐに首を横へ振った。
「これも、昨年の結果を見る限り十分とは言えません」
「でしょうね」
スカーレットほどのウマ娘が、あれだけ速い流れを作って、それでも捕まった。
普通に速く走るだけでは足りない。
そもそも、距離短縮後の秋天を逃げ切ったウマ娘は、ニッポーテイオーをおいて他に居ない。
かといって、遅く走って最後に勝負するのも違う。
それではウオッカの射程に入り続けることになるし、そのポジションはあの豆粒……もといドリームジャーニーの庭だ。
1000mすら我慢できなかったのに、付け焼き刃の追い込みでジャーニーさんに勝てるというのは思い上がりだろう。
……正直に言えば、案はあるのだ。
ここ2週間、歴代の秋天のみならず府中で開催された全てのG1を観た上で。
一つだけ、私がスプリンターのまま秋天で勝ち得る方法が。
「トレーナーさん。私は痛感しました。ウオッカには、府中でレースをしては勝てないと」
トレーナーさんは、聞きましょう、というように片眉をあげる。
……これは、かなり投機的な作戦になる。それでなくても、いくつか大きな問題を抱えている。
だが、私はトレーナーさんを信頼している。そう約束してくれたのだから。
一度、舌で唇を湿らせる。
「ですから、レースをしなければ良いのです」
「……なるほど」
トレーナーさんは驚いた様子を見せなかった。むしろ、どこか納得したように小さく息を吐く。
「正直に言えば、私もそれしかないと思っていました。ただ、どう成立させるかについては……」
トレーナーさんは一度言葉を切る。
「こう言ってはなんですが、セミラミスさんの案のほうがその……言葉を選ばずに言えば、悪辣ですね」
「ありがとうございます」
私の返答に少々微妙な顔をしつつ、トレーナーさんは机に手をつく。
「もっとも、課題はいくつもあります。前半はまあいつも通りとはいえ、途中でどう息を入れるか、どう自分のペースを守るか。最後、苦しくなってからどう走りを崩さないか」
トレーナーさんは資料を閉じた。
「ですが、そのあたりは夏合宿で詰めましょう。幸い、今年の合宿割なら指導をお願いできそうな方には心当たりがあります」
その言い方に、私は少しだけ眉を上げる。
どうやらこちらだけでなく、トレーナーさんにも既にいくつか当てがあるらしい。