驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
ふと我に返る。
夕日の差し込む廊下。間違いなく学園の校舎だが、どことなく古びており年季を感じる。
耳を澄ませても喧騒は遥か遠く、あたりに人の気配は感じられない。
どうして私はこんなところにいるのだろうか。頭に靄がかかったように全てが曖昧だ。
とにかく誰にも会いたくなくて、ただ人を避けて歩いてきたような気がする。
そうして何も考えがまとまらないまま立ち尽くしていると、急に真後ろに気配がした。
「……どうか、されましたか?」
思わず飛び退りそうになりながら振り返る。
今まで誰もいなかったはずの廊下の中ほどに青鹿毛のウマ娘。マンハッタンカフェさんだ。
マンハッタンカフェさん。菊花賞、有馬記念、天皇賞・春を制覇した生粋のステイヤー。
寮が同じなので挨拶を交わす程度の関係だが、どうしてこんなところに……?
「……どうして、このようなところに? 貴女のような方が……用のある場所とは、思えませんが……」
羽織ったカーディガンをふわりとゆらし、彼女は静かに指呼の間まで歩み寄ってきた。
彼女の前髪の間から覗く満月のような丸い瞳が私を射すくめる。
「逢魔が時、こちらと……あちらの、境が曖昧となる時間に……1人で、いては……いけませんよ」
「そ、その……1人になりたくて、それで……」
そうかろうじて答えると、マンハッタンカフェさんの視線がなにもない空間に焦点を結ぶ。
「……そう、うん……ありがとう。……心に、隙が……あります。……どうぞ、こちらへ」
そうしてマンハッタンカフェさんは私の手を取ると、踵を返して廊下の奥へ進む。
私は手を引かれるままに、誰かに背中を押されているような不思議な感覚を覚えながら彼女の後を追った。
彼女に手を引かれるままたどり着いたのは、理科準備室と記された古びた札の掲げられた部屋の前。
しかし、彼女が扉を開いた先に広がっていたのは理科準備室のイメージとは全く異なる空間だった。
「……どうぞ」
促されるままに室内に入る。
部屋の中央には低いテーブルと革張りのソファのセット。周囲の机には何に使うかわからない不思議な形状の実験器具を思わせる道具が所狭しと置かれている。
壁には大きな星空を描いた絵画が飾られ、天井からは理科の天秤の釣り合いの問題のようなインテリアと天幕が吊るされて、天幕が部屋の奥側全面を覆っている。
それらを照らすのはアンティークのランプ。その柔らかな光とひとりでに鳴り出したオルゴールの音が部屋全体の雰囲気を幻想的なものにしていた。
「……座って、ください。……コーヒーは、お好きですか?」
「は、はい」
そのままソファに座らされ、マンハッタンカフェさんは部屋の隅に隠された蛇口から水を汲む。
いまのところ唯一その三叉の蛇口と白い陶器の流しだけが理科準備室の要素を残していた。
そのまま彼女は周囲の机に乗った器具を操りだした。
そういう視点で見れば、あれらの道具がサイフォンやミル、ポットといったコーヒーを淹れる道具であるというのがわかる。
彼女の手際に見惚れることしばし、芳醇な香りと共に彼女が両手にマグカップを持って私の隣に腰掛けた。
「……どうぞ」
「ありがとう、ございます」
今までに嗅いだことのない香り。フローラルな、花のような。
「……グアテマラの、深煎りです……。低温で、じっくり抽出しました……」
勧められるままに一口含む。
熱い塊が喉を通り過ぎると、炒ったナッツのような苦みとともに甘さも感じる不思議な味が口内に広がる。
ひとつ息を吐くと、豊かな風味が鼻に抜ける。
ささくれだった心がすっと撫でつけられるような気がした。
「……多少は、落ち着きましたか」
「はい、おかげさまで」
静かな空間にオルゴールの音だけがあった。
その沈黙に耐えられず口を開く。
「……何があったかとは、聞かないんですか?」
「……話すことで、楽になるなら」
そう返され、しばらく迷った末に言葉を紡いだ。
もしかすると、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「最初に、どうしてここに、と聞かれましたよね」
マンハッタンカフェさんは黒猫のワンポイントが入ったカップを手に頷く。
「逃げて、来たんです」
「逃げて?」
そう、あれは逃避以外の何物でもない。
「スプマンテ……親友から、私の分も桜花賞を走ってくれ、って。ノースフライトさんも、間に合わなかったって。このままじゃ、怖くなって」
言葉がまとまらない。
我ながら、要領を得ないことを喋っている自覚はあった。
マンハッタンカフェさんは、ちびちびとコーヒーを傾けながら黙って聞いていてくださった。
「先輩も、スプマンテもッ、なんで私なんかにッ……」
「なんか、なんて……自分を、貶めないで……ください」
思わず熱いものがこみ上げてきて、言葉が続かない。
そんな無様を晒しても、カフェさんは隣にいてくださるばかりかハンカチで目頭を押さえてくださる。
「──私なんかが、雑誌に乗って。みんなも、妹も、バクシンオーさんも。みんな私なんかに注目して、応援してくれて」
「──まだ重賞すら勝ってないのに、凄い人だって思われて……違うのに」
「──負けちゃったら、がっかりされる。失望される」
だんだんと、自分でも何を言っているかわからなくなってきた。
「大丈夫ですよ」
カフェさんの低い囁きが私の痺れた頭を揺らす。
俯く私の肩に、なにか暖かいものが被さる。カーディガンだ。
彼女の体温と、纏ったコーヒーのような良い香りが私を包み込む。
まるで護られているような。そんな安らぎを覚えた。
なにやら私のあたまをさわるものがある。
なんだろう、よくわからない
めのまえがくらくなっていくような……。
「……眠って、しまっても……構いませんよ」
おちついたこえが、ひびく。
「……もしもし、マンハッタンカフェです。ヒシアマさん……ノルデンセミラミスさんを──」
────────────
────────
────
心地よい揺れに目を覚ました。
黒々とした頭頂に顎を載せ、白いアホ毛が頬をくすぐる。誰かの背中に背負われているのだ。
あたりはすっかり暗くなっている。
どうやらここは寮にほど近い路上のようだ。
目が覚めたことに気づかれたか、顔の横の両耳がぐるりとこちらを向く。
「……気がつかれましたか」
「ありがとうございます、もう大丈夫です」
かがんでもらい、カフェさんの背中から降りる。
「……だいぶん、顔色が……良くなりましたね」
「なにからなにまですみません」
相手もウマ娘であるから重くはなかっただろうが、先輩に自分より大柄な意識のない私をここまで運ばせてしまった。
そう謝ると、カフェさんは静かに頭を振る。
「私が、やりたくて……やったことですから」
そう言って彼女は手を差し出し、私はそれをとった。
彼女の手のひらはひんやりとしていて心地よい。
寮に到着すると、玄関で寮長が待ち構えていた。
どうやら門限はとうに過ぎていたらしい。
ヒシアマゾンさんは腕組みをして立っていたが、こちらを認めると安心したような表情で出迎えてくださった。
「まったく……夕飯は取ってあるからとっとと入って食べな」
口調こそぶっきらぼうだがその中に確かな優しさを感じる。
おそらくカフェさんが連絡を入れてくださっていたのだろう。
門限やぶりのお咎めはなかった。