驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
今年も夏合宿の季節がやってきた。
トレセン学園を出たバスに揺られること数時間。街並みはいつしか田畑と山に変わり、やがて見覚えのある景色が増えてくる。
目的地は新潟。
昨年も、その前も世話になった、すっかり馴染みの合宿地だ。
「今年もここですね」
「ええ。今年も、慣れ親しんだ好風に迎えていただけました」
ゼファーさんも気に入っているらしい。
そんな言葉を交わすうち、バスはゆっくり速度を落とした。
駐車場には、既に何台か別のバスが停まっている。
降りてみれば、そこにいたのも見慣れた顔ばかりだった。
メジャーさんとスカーレットを連れた北浦トレーナー。少し離れたところではセイウンスカイさんが大きく伸び、その横でタイキシャトルさんがこちらに気づいて手を振っている。引率は竪川トレーナーだ。
今年もまた、いつもの面々で夏が始まる。
合宿初日。
夏空の下では、いくつものチームがそれぞれのメニューに散っていた。
短距離を全力で往復する者、タイヤを引いて進む者、数人でまとまって周回する者。
その向こうでは坂路へ向かう一団もいる。
そんな中で、私に与えられた指示は拍子抜けするほど単純だった。
「200mを12秒8目安。こちらが止めるまで、そのまま走ってください」
トレーナーさんがストップウォッチを確認し、その隣ではゼファーさんがこちらを見ている。
普段なら200mを11秒前後で刻む短距離ウマ娘にとっては、かなり余裕のある速度だ。
「ゼファーさんも?」
「ええ。今日はセミラミスさんの風を、少し近くで感じてみようかと」
要するにフォームや呼吸、力みの監視役なのだろう。
特に疑問もなく、そのまま走り出した。
最初の200mは12秒8。次もほぼ同じ。脚を溜める程度の速度で、呼吸にも余裕がある。これならしばらく続けても大した負荷にはならない。
そう考えていた3周目、外から短距離組が一気に抜けていった。
視界の端を鋭い影が横切り、つられるように脚へ力が入りかける。すぐに抜いたつもりだったが、横を走るゼファーさんがわずかに目を細めた。
「今、追い風を欲しがりましたね」
否定しかけてやめる。
タイムは崩れていない。それでも、抜かれた瞬間に接地が強くなった自覚はあった。
次の周では、前方をタイヤ曳きのウマ娘が走っていた。邪魔にならないよう外へ膨らみ、そのまま追い抜く。
「今度は少し、烈しくなりました」
追い抜く瞬間にも速度を上げていたらしい。
そこから先も同じだった。
前の集団がインターバルに入れば距離が縮まり、後ろから全力走の足音が迫れば意識がそちらへ向く。隣を走る相手が急に落とせば、自分まで引かれそうになる。
それでも時計だけなら大きくは崩れない。12秒7、12秒8、12秒9。誤差の範囲だ。
だが、ゼファーさんはそのたびに何かを拾った。
「少し波立ちましたね」
後方の足音に意識が引かれた。
「今は、向こうの風に帆を預けかけました」
前方の相手を目標にしかけた。
言われれば分かる。だから、いちいち聞き返す必要もなかった。
問題は、それが延々と続くことだった。
速く走れと言われれば速く走ればいい。追い込めと言われれば限界まで追い込めばいい。だが、周囲だけが絶えず変わる中で、自分だけ何も変えるなと言われると妙に神経を使う。
抜かれても追わない。前に誰かいても目標にしない。横から加速されても、自分の呼吸と歩幅を守る。
一定で走るために周囲を警戒するほど、かえって周囲へ意識を奪われる。
「……今の風は、少し濁りました」
何が濁ったのかと考えかけ、すぐに気づく。
後ろから近づいてきた足音に、意識を取られていた。
速度もフォームも変わっていない。
それでも、次に抜かれるかもしれないと考えた時点で、もう自分の走りだけを見てはいなかった。
そこで、ようやく力の入れ方が変わった。
周囲を見ない必要はない。聞こえるものまで遮る必要もない。
ただ、それを理由に自分の走りを変えない。
後ろが速いからといって、こちらまで予定を変える理由にはならない。前を走る相手が遅くても、追いかける理由にはならない。
次の周、また誰かに抜かれた。
さらに先で別のウマ娘を追い越した。
それでも脚は変えない。
視界の中では相変わらず、皆が好き勝手に走っている。
その中を、自分だけ同じ速度で抜けていく。
やがてトレーナーさんの笛が鳴った。
速度を落として戻ると、思っていた以上に頭が疲れていた。脚にはまだ余裕があるのに、妙な倦怠感だけが残っている。
「どうでした?」
少し考えて答える。
「思ったより、面倒な練習でした」
するとゼファーさんが、ふっと微笑んだ。
「最後の風は、とても澄んでいましたよ」
今度は、その意味を考える必要もなかった。
中山記念のように1000mもいらない。たった数百mでいい。この感覚をものにできさえすれば。
それから数日後。
夜明け前に朝食を終えた私は、セイウンスカイさんと並んで港にいた。
「おー、今年もありますねぇ」
スカイさんが嬉しそうに見る先には、白いクルーザーが浮かんでいる。
トレーナーさんが夏合宿の休養日に出している船で、毎年何人かを連れて沖へ釣りに出るらしい。
スカイさんにとっては恒例行事で、手慣れた様子で荷物を積み込んでいく。
参加者は私たちの他に、全員分の弁当をこしらえてきてくださったフラワーさん、風に吹かれてやってきたゼファーさん、今日も元気に高笑いしているキングヘイローさんである。
初参加は私だけだった。
「話には聞いていましたが、立派なフネですね」
「でしょー。吉富トレーナー、こういうところだけ妙に本格的だから」
「聞こえていますよ、スカイさん」
「あ、まずい」
船上から声が飛び、スカイさんがそそくさと逃げる。
トレーナーさんは呆れたようにこちらを見て、私の手元へ視線を落とした。
「酔い止めは?」
「乗り物酔いはしませんので」
「帽子と飲み物は?」
「こちらに」
「よろしい。今日は休養ですから、船の上で筋力トレーニングなど始めないように」
「しませんよ」
メジロライアンさんじゃないんだから。私はそっち系ではない。
やがて船は港を離れた。
海風は陸より涼しく、強い日差しも幾分和らいで感じられる。遠ざかる陸を眺めているだけでも、普段とは随分違った気分だった。
だいたい20knぐらいかな、対気速度で。
「お、セミちゃん計算速いね~。さっすが優等生」
「いえ……そんなことは」
趣味でノットとインチとポンドに親しんでただけです。などとは言えず曖昧にごまかす。
そしてポイントに着いて、スカイさんに教わりながら仕掛けを落とす。
スカイさんはともかく、ゼファーさんがササッと仕掛けを作っていたのには驚いた。曰く、もう慣れたとか。
なんとなくフラワーさんが器用なのと、キングヘイローさんがトレーナーさんにやってもらっていたのは想像通りだったが。
まあそこは良かった。
午前中のうちに、撒き餌と疑似餌でアジを釣って、その後それを泳がせて大物を狙うのだという。
アジ釣りは竿を上げるたびに、場合によっては何匹も一度に釣れて楽しかった。
問題はそれを餌に、ハタやヒラメのような大物を狙いだしてからだった。
「…………」
「…………」
何も起こらない。
波に揺られて竿先が上下するだけで、魚の気配はない。
横を見ると、スカイさんはクーラーボックスに腰掛け、満足そうに海を眺めていた。
「……これでよいのですか?」
「いいんじゃない?」
「餌の付け方に問題があるとか」
「ないない」
「棚が違う可能性は?」
「まあ、あるかもねー」
「なら調整した方が」
「セミちゃん」
スカイさんがこちらを見る。
「まだ5分くらいしか経ってないよ?」
時計を見る。
確かにその程度だった。
先月、寮の前で釣具を整備していた彼女から、少しは待つことを覚えろと言われたのを思い出す。
仕掛けを触るのをやめ、海へ向き直った。
しかし、待つのは存外難しい。
潮が変われば場所を動かした方がよいのではと思うし、スカイさんの竿先が揺れれば自分との差が気になる。少し離れたところでトレーナーさんが魚を上げれば、今度はそちらの仕掛けに目が向く。
そのたび、手を動かしかけてやめた。
やがてスカイさんが海を見たまま言った。
「そういやセミちゃん、この前からずーっと同じペースで走らされてたんだって?」
「よくご存じですね」
「ゼファーさんから聞いた。大変だった?」
「肉体的にはそれほど。精神的には思ったより疲れました」
周囲では皆が違う練習をしている。その中で、自分だけ同じ速度を維持し続ける。
狙いは理解していた。息を入れる区間で後続が詰めても、それにつられて余計な脚を使わないための練習だ。
そう話すと、スカイさんはくすくす笑った。
「セミちゃん、そういうの苦手そうだもんねー」
「否定はしません」
少なくとも以前なら、もっと苦手だった。
一昨年の有馬記念の前、メジャーさんの練習相手として逃げ役を務めたことがある。
前に誰もいない。
比較する相手も追いかける相手もいない。
ペースが速いか遅いか、その判断を自分だけで下さなければならない。
あの時は、それを自由ではなく孤独だと思った。
「私、逃げはあまり好きではないんですよ」
「へえ」
「前に誰もいないと、基準がありませんから。以前に逃げ役をやった時も、後ろから来られるとつい反応したくなりました」
「あー。それじゃ楽しくないわ」
「そうですか?」
「だってセミちゃん、逃げてるのに後ろに走らされてるじゃん」
一瞬、意味を取り損ねた。
「……後ろに?」
「そ。誰かが近づいたら速くなって、離れたら安心して。前にいるのに、決めてるのは後ろの子でしょ?」
海面へ目を戻す。
そう、だから逃げは、特に大逃げは弱いと思っていた。
相手のミスに依存する、後ろが愚かでなければ成功は望めない戦法だ、と。
先日の恒速走でも、速度自体は守れていても、後ろから足音が迫れば意識はそちらへ向いた。前に誰かいれば追いつきたくなった。
予定を崩さない練習だとは分かっていたが、言われてみれば判断のきっかけを相手に与えていた。
「でも、後ろを気にしないわけではないでしょう?」
そう訊くと、スカイさんは少し楽しそうに笑った。
「そりゃ見るよ。見ないと困るし」
「では、先ほどの話と矛盾しませんか?」
「しないしない。見るのと、動かされるのは別だから」
竿先を眺めたまま、スカイさんは続ける。
「後ろが来たから速くなる、離れたから緩める。それじゃ向こうに決めてもらってるでしょ?」
「ええ」
「でも、後ろが来そうだから少しだけ離しておこうとか、逆に近づかせてから動こうとか。そういうのは、こっちが決めてる」
なるほど。
「相手を見るな、ではなく」
「相手に合わせるな、かなぁ」
ずいぶん意味が違う。
「逃げてるとね、後ろのみんながこっちを見るんだよ」
スカイさんがくすくす笑う。
「速いのか遅いのか。追った方がいいのか、まだ待った方がいいのか。みんな勝手に考えてくれる」
「それを利用する、と」
「せっかく先頭にいるんだからねー」
飄々としたその様子は実に彼女らしい。
以前の私は、前に誰もいない場所を、頼れる基準を失った孤独な場所だと思っていた。
けれどスカイさんにとっては違う。
前に誰もいないからこそ、自分で基準を作れる。
そして、その基準を後ろに押しつけることさえできる。
「……自由というより、支配に近くありませんか?」
「人聞き悪いなぁ」
まるで否定する気のない顔で言う。
「でもまあ、後ろに振り回されるよりは楽しいでしょ?」
確かに。
少なくとも、以前よりはずっと腑に落ちる。
「……なるほど」
呟いた瞬間、竿先が大きく沈んだ。
反射的に合わせようとする。
「まだまだ」
「えっ」
「待って待って。今上げたら早いよー」
数秒後、もう一度強く竿が引かれた。
「今!」
言われるまま竿を立てる。
ずしりと、今までになかった重みが返ってきた。
「かかりました」
「おー、初ヒット。焦んない焦んない」
魚の動きに合わせてリールを巻き、しばらく格闘して、ようやく平たい銀色の魚体が海面に現れた。
スカイさんが網ですくい上げる。
「おめでとー。ちゃんと待てたねぇ」
「子供扱いしないでください」
そう返しながら小さいクッションほどあるヒラメをクーラーボックスへ収め、再び仕掛けを海へ。
「お刺身とか、煮付けにしてもおいしいですね!」
「いいねぇ。フラワーの料理は絶品だからね」
なにやら騒がしい船の反対側とは違い、こちらにはゆったりとした時間が流れていた。
「ぎにゃー!! サメさん! サメさん!!」
「おお、魚雷さんに小判さんのおまけつきですか」
「アブラツノザメですね。キングさん、落ち着きなさい。キングヘイロー」
「サメさん!!! どうぞ!?!?!」
……一体なにをやっているのだろうか。