驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
午後、合宿所。
私に与えられたメニューを見た瞬間、少し嫌な予感がした。
芝の脇には大きめのタイヤが2つ。その先には坂路へ続くコースがあり、さらに戻ってきたところには200mの直線が取られている。
そして、その横には肩口に星を4つつけたジャージ姿のメジャーさんとスカーレットがいた。
どうやらスカーレットも指導ウマ娘の研修を修了したらしく、今は姉妹で組んで実地指導中だという。
「今日は根性練習だ」
メジャーさんがタイヤの牽引用ベルトを持ち上げる。
「タイヤ曳き、坂路、最後に200。これを何セットかだな」
「最後の200は全力ですか?」
「違うわよ」
答えたのはスカーレットだった。
胸を持ち上げるように腕を組んだまま、こちらをじっと見ている。
「速さはそこまでいらないわ。どれだけ疲れても最初と同じフォームで走ること。今日はそれが一番大事よ」
「なるほど」
要するに、脚を先に潰してから走りの再現性を見るらしい。
それなら話は早い。
ベルトを装着し、横で同じ準備をしているメジャーさんを見る。
「一緒にやるのですね」
「見本くらいは見せてやるよ」
そう言ってメジャーさんは笑う。
一方、スカーレットはスタート地点から少し離れた位置で、タブレットを片手にこちらを見ていた。
「セミラミス、最初から飛ばしすぎないで。タイヤで脚を使い切ったら意味ないんだから」
「分かっています」
「姉さんもよ」
「分かってるって」
開始の合図とともに走り出す。
タイヤが芝を削り、重い抵抗が腰から後ろへかかる。
最初のうちは大したことはない。
脚を高く上げすぎず、身体を前へ倒しすぎず、一定のテンポで進む。
横を見ると、メジャーさんも同じように淡々とタイヤを引いている。
1本目を終える。
短い休憩を挟み、そのまま坂路へ。
ここでも全力ではない。
ただし、脚には先ほどの重さが残っている。
坂を登り切って戻り、ほとんど間を置かず200m。
走り出した瞬間、身体の軽さが一気に戻る。
タイヤがなくなった分、脚が前へ出る。
その感覚に任せて加速しかけたところで、スカーレットの声が飛んできた。
「セミラミス! 歩幅広げすぎ!」
すぐに修正してゴール。
「今のは?」
「速さは悪くない。でも最後50m、上体が少し起きた」
「自覚はありませんでした」
「だから撮ってるのよ」
スカーレットがトラック横のカメラに接続されたタブレットをこちらへ向ける。
映像を見ると、確かに終盤で腰の位置が僅かに落ちていた。
タイムだけなら問題ないが、今日見られているのはそこではない。
「次、直しなさい」
「はい」
2セット目。
タイヤが少し重く感じ始める。
3セット目では、坂路の途中から大腿部に明確な張りが出てきた。
そして200m。脚はまだ動く。
だからこそ、無意識に楽な走りへ逃げようとする。
接地を少し前へ。
腕を強く振り、歩幅を僅かに広げる。
「勝手に変えない!」
スカーレットの声が飛ぶ。
反射的に戻す。
が、その修正自体が遅れた。
ゴールして呼吸を整える間もなく、スカーレットが近づいてきた。
「今、右脚がきつくなって走り方変えたでしょ」
「多少、負担を分散した方が効率的かと」
「今日はそれをやる日じゃないの」
きっぱりと言われる。
「苦しくなったら別の走り方に逃げるんじゃなくて、どこまで最初の形を残せるかを見るの。アンタなら分かるでしょ」
「……ええ」
横で水を飲んでいたメジャーさんも口を挟む。
「根性ってのは苦しくなってから無茶することじゃねえ。苦しくなっても同じようにできることだ」
なるほど。
それなら、今日の目的はずいぶん明快だ。
もっともそれは口で言うほど容易ではないのだろうが。
4セット目。
今度は意識して、最初と同じフォームを守る。
だが、守ろうとすればするほど、疲労した場所がはっきり分かる。
臀部、大腿部、ふくらはぎ。
身体は少しでも楽な動きを、疲労した部位をかばうフォームを選ぼうとする。
それを1つずつ戻していく。
坂路を終えた時点で、脚はかなり重かった。
最後の200m。
横でメジャーさんも構える。
「ここだけは負けんなよ」
「誰にです?」
「さっきの自分にだよ」
スタートする。
速さは求めない。
腰の高さ、腕振り、接地、歩幅。
最初と同じフォームを。最も効率的に進めるフォームを維持する。
ただ、それだけ。
100m。
脚が重い。
150m。
上体を起こしたくなる。
それでも変えない。
ゴール直前、視界の端でメジャーさんのフォームが崩れないまま伸びているのが見えた。
こちらもそのまま走り切る。
停止してから数歩進み、膝に手をついた。
息が上がっている。脚も重い。
それでも、今の走りには手応えがあった。
スカーレットが映像を確認している。
少しして彼女は顔を上げた。
「……うん。今のはいいわ」
以前なら、こういう時は横に並んで走ってもらえば済んだのに。
そう思ってから、その発想を頭の隅へ追いやる。
「では合格ですか?」
「まだよ。今のができたなら、もう1本できるでしょ」
即答だった。鬼、悪魔、ダイワ。
横でメジャーさんが笑う。
「そう来ると思った」
「ただし」
スカーレットがこちらの脚へ視線を落とす。
「張り、痛みに変わってない?」
「問題ありません」
「本当に? みせてみなさい」
そう言って、彼女は膝をついて私の脚を撫でまわす。
「……なら、次で最後よ」
そこだけは妙に慎重だった。
彼女の引退の原因になったのは……と思いかけてそれを振り払い、再びスタート地点へ戻る。
脚はもう、十分に重い。
だからこそ、やることは単純だった。
速く走る必要はない。
苦しさに合わせて形を変えない。
最初にできていたことを、最後までできるだけ残す。
そして最後の200mを走り切った時、スカーレットは今度こそタブレットを下ろした。
「よし。今日はここまで」
メジャーさんも大きく息を吐く。
「どうだったよ、根性練習」
「……思っていたより、技術的でしたね」
そう答えると、メジャーさんが笑った。
「だから根性なんだよ。でもなかなか筋は良かったぞ」
さすが、3年もゼファーさんに鍛えられただけのことはある。そうメジャーさんは豪胆に笑う。
その横でスカーレットが、少しだけ満足そうに頷いていた。
その日の夜、宿泊所。
夕食を終えて、風呂にも入ったあと。
私は宿舎の外にあるベンチでメジャーさんとスカーレットと一緒に夜風に当たっていた。
昼間の疲労はまだ脚の奥に残っている。
とはいえ嫌な痛みではない。身体を伸ばすたび、どの筋肉を酷使したのかがよく分かる程度だ。
「で、どうだった?」
隣に座るスカーレットが訊いてくる。
「根性練習ですか?」
「それ以外に何があるのよ」
「有意義でしたよ。疲労すると無意識に別の筋肉を使ったり、より楽な走り方へ切り替えようとすることには気づいていませんでした」
「でしょ?」
スカーレットはふふんと胸を張り、ジャージの布が酷使される。
「アンタ、頭いいからすぐ別解探すもの。そういう時くらい素直に苦しみなさいよ」
「随分な指導方針ですね」
「言い方」
「まあでも、間違ってねえだろ」
メジャーさんが横から笑う。
「キツくなってから楽な方に逃げたら、最後に残るもんも残らねえからな」
「ええ。それは今日、よく分かりました」
昼の練習自体に不思議なところはない。2000mという未知の距離へ挑む以上、最後に疲労するのは避けられない。そこでフォームを崩さず走り切る力は、どう走るにせよ必要になる。
「そういえばよ」
メジャーさんが缶──ふらのにんじん生搾り100%──を弄びながら、こちらを見る。
「先生、なんでわざわざ俺様に頼んだんだろうな」
「さあ」
「根性ならアタシたち、ってことじゃない?」
「それだけか?」
メジャーさんの問いに、スカーレットも少し考えるように黙った。
「……今日のメニュー、結構具体的だったのよね。疲れてからもフォームを変えるな、最後まで最初の走りを残せって」
その視線がこちらへ向く。
「秋天で、よっぽどキツい走りするつもり?」
紅い瞳の縦長の瞳孔がこちらを覗き込む。
さすがスカーレット、勘がいい。
「どうでしょう」
「誤魔化したわね」
「まだトレーナーさんと相談中ですよ」
嘘ではない。
スカーレットは納得していない顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
代わりにメジャーさんが少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあよ、セミラミス。お前なんで秋天走るんだ?」
唐突ではあったが、答えに困る質問ではなかった。
「走りたいからです」
「それだけ?」
「いいえ」
むしろ、理由ならいくらでもある。
「私がどこまで往けるのか、確かめたいのです。スプリンターである私が、2000mまで手を伸ばせるのか」
短距離を走った。
マイルも走った。
その先へ脚を延ばした時、私はどこまで行けるのか。
「3階級制覇も成し遂げたいですし、ウオッカにも勝ちたい」
「まだあるだろ」
メジャーさんが笑う。
「……分かりますか」
「お前、そういう時ちょっと考える顔するからな」
入学当時から変わっちゃいない、と笑う彼女に、仕方なく続きを口にする。
「ゼファーさんとトレーナーさんが成し遂げられなかった3階級制覇を。バクシンオーさんもフライトさんも進まなかった、その先へ」
別に、託されたわけではない。
行けと言われたこともない。……いや、冗談めかしては言われたが。
ただ、私は彼女たちから教わり、彼女たちを追ってここまで来た。その先へ。
「その先に何があるのか、私は見てみたいのです」
しばらく沈黙が場を満たす。
その沈黙を最初に破ったのはメジャーさんだった。
「欲張りだな、お前」
「今さらでしょう」
競走ウマ娘というのは欲深いものです、と、遠征支援委員会で笑いあったことを思い返しながら答える。
するとメジャーさんは肩を揺らして笑った。
「まあな。ならいいや」
「何がです?」
「誰かの代わりに走るとか言い出したら、ちょっと止めようと思ってた」
その言葉に、スカーレットの尻尾が僅かに反応した。
横を見る。
彼女は膝の上で手を組み、しばらく何も言わなかった。
やがて、夜空を見上げたまま口を開く。
「……セミラミス。アタシ、本当は今年も秋天に出るつもりだったの」
知っている。
去年の天皇賞・秋でウオッカに敗れたあと、次があると思っていたことも。
もう一度あの舞台で走り、今度こそ勝つつもりだったことも。私もそうなるとばかり思っていた。
けれど、その次は来なかった。
もう、二度と。
「去年の借りを、返したかった」
前を向いたまま、静かに続ける。
「今度は絶対って思ってた。ウオッカが出るなら。なおさら、あいつに負けたまま終わるなんて、そんなの嫌だった」
スカーレットはそういうウマ娘だ。
勝ちたいなら自分で走る。負けたなら、自分で取り返す。
誰かに任せて満足するような性格ではない。
だからこそ、その次の言葉は少し重かった。
「……でも、もうアタシじゃ無理だから」
悔しさを隠そうとはしていなかった。
ただ、それを泣き言にもしていない。
「だからって、アタシの代わりに走れなんて言うつもりはないわよ」
今度はこちらを見る。
「アタシの負けはアタシの負け。セミラミスにはセミラミスの秋天がある。そんなものまで背負わせる気はない」
そこで一度、言葉を切る。
「でも」
組んだ手に少し力が入った。
「ウオッカに勝って」
その瞳と耳は真っ直ぐこちらを向いている。
「秋天で、あいつに勝ってほしい」
私は何も言わず、その言葉を受け止める。
「アタシができなかったからじゃない。セミラミスなら勝てると思ってるから言ってるの」
「……随分、高く買われたものですね」
「何言ってんのよ」
即座に返された。
「ずっと一緒に走ってきたんだから、それくらい知ってるわよ」
胸の奥に、妙な熱が残った。
「承りました」
「……いいの?」
「必ず勝つとは申しません。レースですから」
「分かってるわよ」
「ですが、勝ってきます」
スカーレットは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「それでいいわ」
昼間の練習を思い出す。
苦しくなっても走りを変えない。
疲れてもフォームを崩さない。
最後まで、自分の走りを残す。
「ですからスカーレット」
「あによ」
「スカーレットの走り、お借りしていきますよ」
一瞬、珍しくきょとんとした顔をする。
だが次の瞬間にはいつもの調子で眉を吊り上げた。
「絶対返しなさいよ!」
横でメジャーさんが噴き出した。
「当たり前でしょ! アタシのなんだから!」
「ははっ、お前らしいよ」
そしてメジャーさんは陽性の笑いを消して、ニヤリと私に笑いかける。
「ウオッカのやつをぶちのめしてやれ」
「……はい」
あの走りを、ぶちのめすと言って良いのだろうか。まあいい、どんな形だろうと勝ちは勝ちだ。
それにしても、秋の府中へ持っていくものがまた1つ増えたらしい。