驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”チームルーム。
セントウルステークスの迫ったある日。
私とトレーナーさんはレース前の戦術研究のためチームルームに集まっていた。
「では、セントウルステークスについて詰めましょうか」
トレーナーさんがタブレットを机上へ置く。
表示されているのは出走予定者と、ここ数走のラップ、位置取りだった。
「今年もなかなか良いメンバーですね」
「ええ。錚々たるメンバーと言っていいでしょう」
ローレルゲレイロ、スリープレスナイト、カノヤザクラ。
名前を追いながら頷く。短距離重賞として見れば十分に濃い。
「春の高松宮記念に近い形ですね。特にローレルゲレイロさんが前へ行って、スリープレスナイトさんがその後ろから圧をかける形になるなら」
「そうですね。だからこそ、今回は都合がいい」
トレーナーさんの言葉に、思わず顔を上げる。
「都合がいい、ですか」
「ええ。負荷試験としては」
さらりと言われた。
……驚いたな。トレーナーさんがそんな言い方をするとは。
「……よろしいのですか?」
「公知でしょう。今現在の世界の短距離に、貴女を阻みうるものがどれだけいましょうか」
微苦笑しつつ、トレーナーさんが画面を切り替える。
まあ、それはそうなのだけど。
この間なんか椿さんが、セミラミスに勝ちたきゃバクシンオーかマニカト引っ張ってきてください、なんて言ってたし。
「この夏、貴女はかなり秋の天皇賞を意識した調整をしています。一定速度の維持、疲労下でのフォーム固定、呼吸の管理。長く速く走るための練習が中心でした」
「はい」
「その成果自体は出ています。ただし、良いことばかりとは限りません」
そこは私も気になっていた。
どの練習も、鋭く研ぎ澄ませてきた短距離用の刃を、切れ味を落とさぬまま2000mまで届かせようとするものだ。
「短距離で必要な反応が鈍っている可能性」
「そうです。出脚、位置取り、仕掛けへの反応、そこから一気に速度を上げる脚。2000mを走るための身体へ寄せた結果、1200mで使っていた刃先まで丸くなっていないか」
私は腕を組む。
トレーナーさんの調整は、メジャーさんやスカーレット、タイキシャトルさんの指導は、そんな雑なものではなかったはずだ。
だが、結局夏合宿の最後に試したのはマイル。短距離での洗礼は受けていない。
「だからセントウルステークスで確認する、と」
「実戦で、ですね」
相手がいて、位置取りがあり、圧を受け、その中で判断して脚を使う。
そこまで含めて初めて分かることがある。
そういうことだ。
「ローレルゲレイロさんが前へ行けば、遅い流れにはなりにくいでしょう。スリープレスナイトさんも、自分の間合いに入れば早めに動いてくる。カノヤザクラさんも差しに構えて終わり、というタイプではありません」
「楽には走らせてもらえない、と」
「その方がいいんです」
楽に走れては練習にならない。考えてみれば当たり前ではある。
とはいえ、まだ枠順も出ていないのでこれ以上詰めることはできない。
またその必要もなかった。
「作戦は」
「“いつもどおりに”」
「了解しました」
すなわち、適切な位置につき、適切なタイミングでスパートし、ゴール時点で1バ身差である。
いつも通りにできれば良し、できなければスプリンターズステークスまでに研ぎ直しだ。
そうして簡単にレース研究を終わらせ、私はトレーナーさんに外出する旨を伝えた。
「おや、どちらまで」
「ちょっと借りるものがありまして」
多摩川、河川敷。ヴィクトリー倶楽部。
セントウルステークスへ向けた打ち合わせを終えた私は、その足でここを訪れていた。
遠くでは何人ものウマ娘が土を蹴り、指導役の声が飛んでいる。
「あれ、セミラミスじゃない。一人とは珍しいね」
声を掛けてきたのはユタカオーさんだった。
軽く挨拶を交わすと、彼女は私の格好を上から下まで眺める。
「今日は一緒に走る?」
「いえ。今日は別件です」
「別件?」
「シンゲキさんに少々用がありまして」
そう答えると、ユタカオーさんの眉がわずかに上がった。
「……ああ。いるよ。たぶん奥」
示された先へ目を向ける。
練習場の端、土手寄りに建てられた簡素なプレハブ。その前で、見慣れた鹿毛のウマ娘がこちらに気づいた。
サクラシンゲキさんは私の顔を見るなり、何も尋ねずに顎をしゃくった。
「来な。話は中で聞く」
その声に促され、私はプレハブへと足を向けた。
プレハブの戸を開けると、中は外観から想像したよりずっと整っていた。
一角が障子で仕切られ、その奥には畳が敷かれている。
小さな床の間には季節の花。香炉からは細い煙が立ち、どこからか弦楽器の穏やかな旋律が流れていた。
外から聞こえていた掛け声や地面を蹴る音も、障子を隔てただけで不思議なほど遠く感じる。
ここだけが練習場の時間から切り離されているようだった。
「……これはまた」
思わず声が漏れる。
「意外かい?」
シンゲキさんはそう言って笑った。
だが、いつものべらんめえ調ではない。声音も所作も、以前野点で茶を点ててもらった時よりさらに静かだった。
「いえ。以前にもお茶はいただきましたから。ただ、ここまでとは」
「外じゃとねっこらが走り回っているからね。少しくらい静かな場所も欲しくなるのさ」
促されるまま座る。
畳にはまだ新しい藺草の香りが残っており、香炉から漂う甘い香と混じって鼻腔をくすぐった。
シンゲキさんは余計なことを言わず、茶を点て始めた。
湯の音。
茶筅が擦れる音。
小さく流れる音楽。
無駄のない手つきだった。
茶碗を取る指先も、湯を注ぐ腕も、決して急がない。それでいて一つとして動きが滞らない。普段の豪放な振る舞いを知っているだけに、同じ人物とは思えないほどだ。
けれど、考えてみれば不思議ではないのかもしれない。
全力で駆けることと、無闇に急ぐことは同じではない。速さを知り尽くしているからこそ、こうして静かに時を使えるのだろうか。
やがて差し出された茶碗を受け取り、一口いただく。
柔らかな苦味のあとから、ほのかな甘味が残った。
「それで。何を借りに来た?」
向かいへ座ったシンゲキさんが口を開いた。
どうやら最初から分かっていたらしい。
問いながらも表情に驚きはなく、こちらが口にするのを待っていただけのようだった。
「シンゲキさんの、走りを」
一瞬だけ、その目が細くなる。
「秋の天皇賞か」
「はい」
それ以上は聞かれなかった。
代わりにシンゲキさんは香炉へ目をやり、しばらく黙った。
細い煙が揺れもせず立ち上り、途中で形を失っていく。音楽だけが、その沈黙を埋めるように淡々と流れていた。
「私が現役だった頃、最初のジャパンカップを走ったことがある」
「存じています」
海外から強豪が集まった、最初の国際競走。
そしてシンゲキさんは、そこでいつものように前へ行った。
「私は短いところのウマ娘だった。2400mなんてあの走りで最後まで持つはずがない。それくらい自分でも分かっていたよ」
穏やかな声だった。
武勇伝を語る声音ではない。かといって、自嘲しているわけでもなかった。
ただ遠い出来事を、当時の自分ごと静かに見つめ直しているように聞こえた。
「それでも行った。自分にできる走りは、あれしかなかったからね」
私は黙って聞く。
「結果も知っているだろう?」
「はい」
「なら話が早い」
4角まで先頭、直線で力尽き9着。それが結果だった。
シンゲキさんは茶碗を置いた。
畳の上に小さな音が落ちる。
「アレは、そんな便利なものじゃない。困った時に使えば勝てるような技でもない。前へ出て、離して、あとは祈ればいいというものでもない」
視線がこちらを向く。
先ほどまで柔らかかった眼差しが、ほんの少しだけ鋭くなった。
「まして、持たないと分かっていて走るならなおさらだ」
その言葉だけ、少し重かった。
「君は違うんだろうね?」
「はい」
即答した。
「勝算は?」
「あります」
「願望ではなく?」
「計算しています」
わずかに口元が緩む。
「最後まで走り切れる?」
「そのための準備をしています」
さらに少し間が空いた。
音楽だけが静かに流れている。
外では誰かの掛け声が微かに聞こえ、すぐにまた遠ざかった。
「ゴールの先まで、自分の脚で帰ってくるつもりで?」
何を問われているのかは分かった。距離のことだけを尋ねているのではない。
だからこそ、今度も迷わなかった。
「はい」
シンゲキさんはしばらく私の顔を見ていた。
言葉ではなく、そこに嘘がないかを確かめるような視線だった。
やがて目を伏せ、もう一服茶を点て始める。
「若い頃はね。行けるところまで行くことを、美しいと思う時がある」
「後悔されていますか?」
「さあね。日本の快速ウマ娘、ここにあり。──あの時は、それしか頭になかったからね」
茶筅が止まる。
「ただ、人に勧める走りではないよ」
差し出された茶を受け取る。
先ほどと同じ茶のはずなのに、今度は妙に苦味が強く感じられた。
「君が借りたいと言っているのは、そういう走りだ」
「承知しています」
「一度行けば、途中で都合よく戻れるものでもない」
「はい。湊川のつもりはありません。勝つために走ります」
私の返答に目を見開いて、そしてふっとシンゲキさんは笑った。
穏やかな笑みだった。先ほどまで残っていた何かを、ようやく下ろしたようにも見えた。
「この走り、使い難し。それでも往くか」
私は茶碗を置き、まっすぐに頭を下げた。
「はい。覚悟の上です」
一拍、誰も口を開かなかった。
香炉の煙だけが変わらず細く立ち上り、弦の音が静かに次の小節へ移っていく。
「よし、貸してやる」
次に聞こえた声は、いつもの調子に戻っていた。
そしてニヤリと笑う。
「耳揃えて返しに来い。自分でだぞ、わかってるな?」
「……承知しました」
何を、とは聞かなかったし、聞く必要もなかった。
勝つために借りるのだ。
ならば、返しに来るのも自分でなければ意味がない。