驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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202 2つの距離の女主人と早すぎた快速ウマ娘

 トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”チームルーム。

 

 

 セントウルステークスの迫ったある日。

 私とトレーナーさんはレース前の戦術研究のためチームルームに集まっていた。

 

「では、セントウルステークスについて詰めましょうか」

 

 トレーナーさんがタブレットを机上へ置く。

 表示されているのは出走予定者と、ここ数走のラップ、位置取りだった。

 

「今年もなかなか良いメンバーですね」

「ええ。錚々たるメンバーと言っていいでしょう」

 

 ローレルゲレイロ、スリープレスナイト、カノヤザクラ。

 名前を追いながら頷く。短距離重賞として見れば十分に濃い。

 

「春の高松宮記念に近い形ですね。特にローレルゲレイロさんが前へ行って、スリープレスナイトさんがその後ろから圧をかける形になるなら」

「そうですね。だからこそ、今回は都合がいい」

 

 トレーナーさんの言葉に、思わず顔を上げる。

 

「都合がいい、ですか」

「ええ。負荷試験としては」

 

 さらりと言われた。

 ……驚いたな。トレーナーさんがそんな言い方をするとは。

 

「……よろしいのですか?」

「公知でしょう。今現在の世界の短距離に、貴女を阻みうるものがどれだけいましょうか」

 

 微苦笑しつつ、トレーナーさんが画面を切り替える。

 まあ、それはそうなのだけど。

 この間なんか椿さんが、セミラミスに勝ちたきゃバクシンオーかマニカト引っ張ってきてください、なんて言ってたし。

 

「この夏、貴女はかなり秋の天皇賞を意識した調整をしています。一定速度の維持、疲労下でのフォーム固定、呼吸の管理。長く速く走るための練習が中心でした」

「はい」

「その成果自体は出ています。ただし、良いことばかりとは限りません」

 

 そこは私も気になっていた。

 どの練習も、鋭く研ぎ澄ませてきた短距離用の刃を、切れ味を落とさぬまま2000mまで届かせようとするものだ。

 

「短距離で必要な反応が鈍っている可能性」

「そうです。出脚、位置取り、仕掛けへの反応、そこから一気に速度を上げる脚。2000mを走るための身体へ寄せた結果、1200mで使っていた刃先まで丸くなっていないか」

 

 私は腕を組む。

 トレーナーさんの調整は、メジャーさんやスカーレット、タイキシャトルさんの指導は、そんな雑なものではなかったはずだ。

 だが、結局夏合宿の最後に試したのはマイル。短距離での洗礼は受けていない。

 

「だからセントウルステークスで確認する、と」

「実戦で、ですね」

 

 相手がいて、位置取りがあり、圧を受け、その中で判断して脚を使う。

 そこまで含めて初めて分かることがある。

 そういうことだ。

 

「ローレルゲレイロさんが前へ行けば、遅い流れにはなりにくいでしょう。スリープレスナイトさんも、自分の間合いに入れば早めに動いてくる。カノヤザクラさんも差しに構えて終わり、というタイプではありません」

「楽には走らせてもらえない、と」

「その方がいいんです」

 

 楽に走れては練習にならない。考えてみれば当たり前ではある。

 とはいえ、まだ枠順も出ていないのでこれ以上詰めることはできない。

 またその必要もなかった。

 

「作戦は」

「“いつもどおりに”」

「了解しました」

 

 すなわち、適切な位置につき、適切なタイミングでスパートし、ゴール時点で1バ身差である。

 いつも通りにできれば良し、できなければスプリンターズステークスまでに研ぎ直しだ。

 

 

 そうして簡単にレース研究を終わらせ、私はトレーナーさんに外出する旨を伝えた。

 

「おや、どちらまで」

「ちょっと借りるものがありまして」

 

 

⏰️ ⏰️ ⏰️

 

 

 多摩川、河川敷。ヴィクトリー倶楽部。

 

 

 セントウルステークスへ向けた打ち合わせを終えた私は、その足でここを訪れていた。

 遠くでは何人ものウマ娘が土を蹴り、指導役の声が飛んでいる。

 

「あれ、セミラミスじゃない。一人とは珍しいね」

 

 声を掛けてきたのはユタカオーさんだった。

 軽く挨拶を交わすと、彼女は私の格好を上から下まで眺める。

 

「今日は一緒に走る?」

「いえ。今日は別件です」

「別件?」

「シンゲキさんに少々用がありまして」

 

 そう答えると、ユタカオーさんの眉がわずかに上がった。

 

「……ああ。いるよ。たぶん奥」

 

 示された先へ目を向ける。

 練習場の端、土手寄りに建てられた簡素なプレハブ。その前で、見慣れた鹿毛のウマ娘がこちらに気づいた。

 

 サクラシンゲキさんは私の顔を見るなり、何も尋ねずに顎をしゃくった。

 

「来な。話は中で聞く」

 

 その声に促され、私はプレハブへと足を向けた。

 

 

 プレハブの戸を開けると、中は外観から想像したよりずっと整っていた。

 

 一角が障子で仕切られ、その奥には畳が敷かれている。

 小さな床の間には季節の花。香炉からは細い煙が立ち、どこからか弦楽器の穏やかな旋律が流れていた。

 

 外から聞こえていた掛け声や地面を蹴る音も、障子を隔てただけで不思議なほど遠く感じる。

 ここだけが練習場の時間から切り離されているようだった。

 

「……これはまた」

 

 思わず声が漏れる。

 

「意外かい?」

 

 シンゲキさんはそう言って笑った。

 だが、いつものべらんめえ調ではない。声音も所作も、以前野点で茶を点ててもらった時よりさらに静かだった。

 

「いえ。以前にもお茶はいただきましたから。ただ、ここまでとは」

「外じゃとねっこらが走り回っているからね。少しくらい静かな場所も欲しくなるのさ」

 

 促されるまま座る。

 畳にはまだ新しい藺草の香りが残っており、香炉から漂う甘い香と混じって鼻腔をくすぐった。

 

 シンゲキさんは余計なことを言わず、茶を点て始めた。

 

 湯の音。

 茶筅が擦れる音。

 小さく流れる音楽。

 

 無駄のない手つきだった。

 茶碗を取る指先も、湯を注ぐ腕も、決して急がない。それでいて一つとして動きが滞らない。普段の豪放な振る舞いを知っているだけに、同じ人物とは思えないほどだ。

 

 けれど、考えてみれば不思議ではないのかもしれない。

 全力で駆けることと、無闇に急ぐことは同じではない。速さを知り尽くしているからこそ、こうして静かに時を使えるのだろうか。

 

 やがて差し出された茶碗を受け取り、一口いただく。

 柔らかな苦味のあとから、ほのかな甘味が残った。

 

「それで。何を借りに来た?」

 

 向かいへ座ったシンゲキさんが口を開いた。

 

 どうやら最初から分かっていたらしい。

 問いながらも表情に驚きはなく、こちらが口にするのを待っていただけのようだった。

 

「シンゲキさんの、走りを」

 

 一瞬だけ、その目が細くなる。

 

「秋の天皇賞か」

「はい」

 

 それ以上は聞かれなかった。

 代わりにシンゲキさんは香炉へ目をやり、しばらく黙った。

 

 細い煙が揺れもせず立ち上り、途中で形を失っていく。音楽だけが、その沈黙を埋めるように淡々と流れていた。

 

「私が現役だった頃、最初のジャパンカップを走ったことがある」

「存じています」

 

 海外から強豪が集まった、最初の国際競走。

 そしてシンゲキさんは、そこでいつものように前へ行った。

 

「私は短いところのウマ娘だった。2400mなんてあの走りで最後まで持つはずがない。それくらい自分でも分かっていたよ」

 

 穏やかな声だった。

 武勇伝を語る声音ではない。かといって、自嘲しているわけでもなかった。

 ただ遠い出来事を、当時の自分ごと静かに見つめ直しているように聞こえた。

 

「それでも行った。自分にできる走りは、あれしかなかったからね」

 

 私は黙って聞く。

 

「結果も知っているだろう?」

「はい」

「なら話が早い」

 

 4角まで先頭、直線で力尽き9着。それが結果だった。

 

 シンゲキさんは茶碗を置いた。

 畳の上に小さな音が落ちる。

 

「アレは、そんな便利なものじゃない。困った時に使えば勝てるような技でもない。前へ出て、離して、あとは祈ればいいというものでもない」

 

 視線がこちらを向く。

 先ほどまで柔らかかった眼差しが、ほんの少しだけ鋭くなった。

 

「まして、持たないと分かっていて走るならなおさらだ」

 

 その言葉だけ、少し重かった。

 

「君は違うんだろうね?」

「はい」

 

 即答した。

 

「勝算は?」

「あります」

「願望ではなく?」

「計算しています」

 

 わずかに口元が緩む。

 

「最後まで走り切れる?」

「そのための準備をしています」

 

 さらに少し間が空いた。

 

 音楽だけが静かに流れている。

 外では誰かの掛け声が微かに聞こえ、すぐにまた遠ざかった。

 

「ゴールの先まで、自分の脚で帰ってくるつもりで?」

 

 何を問われているのかは分かった。距離のことだけを尋ねているのではない。

 だからこそ、今度も迷わなかった。

 

「はい」

 

 シンゲキさんはしばらく私の顔を見ていた。

 言葉ではなく、そこに嘘がないかを確かめるような視線だった。

 

 やがて目を伏せ、もう一服茶を点て始める。

 

「若い頃はね。行けるところまで行くことを、美しいと思う時がある」

「後悔されていますか?」

「さあね。日本の快速ウマ娘、ここにあり。──あの時は、それしか頭になかったからね」

 

 茶筅が止まる。

 

「ただ、人に勧める走りではないよ」

 

 差し出された茶を受け取る。

 先ほどと同じ茶のはずなのに、今度は妙に苦味が強く感じられた。

 

「君が借りたいと言っているのは、そういう走りだ」

「承知しています」

「一度行けば、途中で都合よく戻れるものでもない」

「はい。湊川のつもりはありません。勝つために走ります」

 

 私の返答に目を見開いて、そしてふっとシンゲキさんは笑った。

 穏やかな笑みだった。先ほどまで残っていた何かを、ようやく下ろしたようにも見えた。

 

「この走り、使い難し。それでも往くか」

 

 私は茶碗を置き、まっすぐに頭を下げた。

 

「はい。覚悟の上です」

 

 一拍、誰も口を開かなかった。

 香炉の煙だけが変わらず細く立ち上り、弦の音が静かに次の小節へ移っていく。

 

「よし、貸してやる」

 

 次に聞こえた声は、いつもの調子に戻っていた。

 そしてニヤリと笑う。

 

「耳揃えて返しに来い。自分でだぞ、わかってるな?」

「……承知しました」

 

 何を、とは聞かなかったし、聞く必要もなかった。

 勝つために借りるのだ。

 ならば、返しに来るのも自分でなければ意味がない。




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