驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
阪神レース場、パドック。
ステージの外周を周回しながら、観客席から飛んでくる声に軽く手を振る。
夏を越したとはいえ、9月半ばの日差しはまだ強い。
もっとも、この程度なら走りに影響するほどではない。
ある意味通気性の良い体操着にブルマで助かったと言えるかもしれないが。
身体の調子も悪くない。
秋の天皇賞へ向けてトレーニングの内容を変えてからしばらく経つが、少なくとも今のところ違和感はなかった。
あとは実際に走って確かめるだけ。
そう考えながら歩いていると、不意に横から声が飛んできた。
「ノルデンセミラミス」
聞き覚えのある声に振り向く。
「スズカコーズウェイさん」
先日の安田記念でも一緒に走った相手だ。
もっとも、学園ではクラスが違ううえ、同じチームで練習していた時期もほとんど入れ違いだった。
顔を合わせれば挨拶くらいはするものの、こうして話す機会はあまりない。
「お久しぶりです」
「……そうだね」
そう返したコーズウェイさんの視線が、ふと私の胸元へ落ちる。
そこにあるのは今日のゼッケン。
そして、大きな星が1つと、小さな星が4つ。
しばらくそれを眺めてから、コーズウェイさんが何とも言えない顔で呟いた。
「……増えたねぇ」
「何がです?」
「星だよ、星。あのときは1個もなかったのに」
あのとき。
一瞬だけ考え、すぐに思い当たる。
「……メイクデビューですか」
「そ。京都の1400。私が1番人気で、アンタが3番人気だったやつ」
「ああ、覚えています」
忘れてはいない。
初めてレースを走った日だ。
自分がどれほど走れるのかも分からず、3番人気という評価に少なからず不安を覚えていた。
「懐かしいですね」
「こっちは懐かしいで済ませられないんだけどなあ……」
なぜだろう。
首を傾げると、コーズウェイさんは呆れたように息を吐いた。
「3バ身以上ぶっちぎられたんだよ、デビュー戦で」
「そうでしたね」
「そのあと絶対もう一回走ってやるって思ってたら、アンタ、どんどん先に行くし」
「先に?」
「桜花賞勝って、NHKマイル勝って、クラシック級で安田も勝って。やっと重賞まで来たと思ったらコレだもんな」
指折り数えながら並べられ、返答に困る。
別に逃げていたわけではないのだが。
「今年の安田記念では一緒だったでしょう?」
「アンタ、ウオッカしか見てなかったじゃん」
「…………」
否定できない。
「……申し訳ありません」
「謝られても困るって」
コーズウェイさんが笑う。
つられて、私も小さく笑った。
「でも、やっと追いついた」
その声に先ほどまでの軽さはなかった。
コーズウェイさんを見る。その表情に浮かんでいたのは笑み。
「私も重賞を勝った。今日も同じレースに出る。3年前と同じだ」
そう言って、彼女は私のゼッケンへもう一度目を向けた。
「まあ、そっちはとんでもない数の星をぶら下げてるけど」
「それは今日のレースには関係ないでしょう」
コーズウェイさんが目を瞬く。
過去の戦績が今日の着順を決めるわけではない。
私が14のG1を勝っていようと、彼女が先日の京王杯スプリングカップで初めて重賞を勝っていようと、ゲートに入ればまた0からだ。
もっとも。
今日の出走者を見渡して、負ける可能性を高く見積もっているかと問われれば、答えは否だった。
スリープレスナイトさん、ローレルゲレイロさん、カノヤザクラさん。
もちろん、コーズウェイさんも。
皆、優れたスプリンターだと思う。
そのうえで、普段どおりに走ることができれば私が勝つ。
少なくともトレーナーさんも私もそう判断している。
だからこそ今日確かめるべきなのは、彼女たちに勝てるかどうかではない。
──私が、普段どおりに走れるかどうかだ。
「じゃあ、今度こそ勝つから」
コーズウェイさんが笑う。
3年前のメイクデビュー。
あの日の彼女が何を思っていたのか、私は知らない。
けれど、今日まで私との再戦を望んでくれていたというのなら。
「ええ」
その気持ちを軽んじる理由もない。
「お待ちしています」
「……そこは『負けない』とかじゃないの?」
「負けるつもりはありませんので」
「そういう意味じゃないんだけどなあ……」
呆れたように笑って、コーズウェイさんが離れていく。
私も係員の誘導に従い、ステージへと向かう。
さて、昔話はここまでだ。今日もいつもどおりに。
『捕らえた! 残り200でノルデンセミラミス先頭! アルティマトゥーレが食い下がる! その後ろからスリープレスナイト!』
『ノルデンセミラミス先頭! アルティマトゥーレ懸命に追う! スリープレスナイトも来ているが──届かない!』
『差は1バ身! 今年も女主人が譲らない!』
『ノルデンセミラミス、1着! 強い! これが短距離の女主人! アルティマトゥーレを退け、セントウルステークス3連覇達成!』
『春は高松宮記念を制し、ヴィクトリアマイル、安田記念ではウオッカと激闘! そして秋初戦、1200メートルへ戻ればこの強さ!』
『勝ったのはノルデンセミラミス! 今年もきっちり1バ身差です!』
ウイニングランを終え、ウィナーズサークルへと向かう。
観客席から歓声が飛んでくる。
軽く手を振って応えながら、先ほどのレースを頭の中で振り返る。
出脚は問題なし。
道中の位置取りにも苦労はなかった。
流れが変わった際の反応も、直線で速度を引き上げた際の感覚も以前と変わらない。
最後はトレーナーさんの注文どおり、1バ身。
秋の天皇賞へ向けてトレーニングの内容を変えてから、持久力を重視する時間が増えている。
その影響で、これまで培ってきた短距離での反応や切れ味が鈍っていないか。
今日確かめたかったのは、そこだった。
結果は問題なし。
ひとまず、安心していいだろう。
ひとしきり観客に手を振ったあとは、案内に従ってインタビュー用のステージへ上がる。
「ノルデンセミラミスさん、セントウルステークス3連覇、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
マイクを向けられ、いつものように柔らかく笑って頭を下げる。
「これでクラシック級から3年連続の勝利。同一重賞3連覇という大記録になりました! 今のお気持ちは?」
「そうですね……」
3連覇。
言われてみれば、そうなるのか。
最初にこのレースを走ったのが2年前。
昨年も勝ち、今年も勝った。
別に忘れていたわけではないが、今回は勝つことそのものより確認したいことがあった。
だから、そこまで意識していなかった。
「3年間、大きな故障もなく出走できて、そのすべてで勝てたことは嬉しく思います」
「今日も強い勝ち方でした。最後はアルティマトゥーレさんに1バ身差。そして実は、これで3年連続1バ身差での勝利なんです」
「……そうなのですか?」
思わず聞き返す。
「はい。一昨年も1バ身、昨年も1バ身、そして今年も1バ身です」
それは知らなかった。
今年は意識していたが過去2年の着差までは覚えていない。
「随分と綺麗に揃いましたね」
思わず笑うと、観客席からも笑い声が聞こえた。
「今年も1バ身を狙っていたのでしょうか?」
「狙っていた、というのは少し違いますね」
「と、言いますと?」
「トレーナーさんからは“いつもどおりに”と。それができれば、結果として1バ身ほどになるだろうとは考えていました」
「つまり、もっと差を広げる余裕もあった?」
どう答えたものかと少し考える。
「ふふ、どうでしょう。ただ、必要があればもう少し頑張ったと思いますよ」
また観客席がざわめく。
何かおかしなことを言っただろうか。
もちろん、必ずそうできるという意味ではない。
レースなのだから、展開次第では想定どおりに運ばないこともある。
ただ、今日の出走者を確認したうえで、普段どおりに走ることができれば勝てるというのが、トレーナーさんと私の共通した見立てだった。
問題はそこではない。
「今日は春までと変わらず走れるかを確かめたかったのです。最近は秋の天皇賞へ向けて、トレーニングの内容を変えていますから」
「2000メートルへの挑戦ですね」
「はい。持久力を伸ばすことを重視しています。その影響で、短い距離に必要な反応や加速が鈍っていないか確認しておきたかったので」
「では、その確認のためのセントウルステークスだったと?」
「そうなりますね」
笑顔のまま頷く。
なぜか、インタビュアーの方がしばし黙った。
「……その結果が、3連覇」
「はい。問題なさそうで安心しました」
再び歓声が上がり、ところどころから笑い声まで聞こえてくる。
やはり何かおかしいらしい。
「次走はスプリンターズステークスを予定されています。こちらも勝てば3連覇ですが、やはり今日と同じようなレースを?」
「いえ」
今度は迷わず答える。
「次は、もう少し踏み込んでみようと思っています」
「踏み込む、ですか?」
「はい。今日はいつもどおり、勝つために必要なだけ走りましたから。次は余力を残すことを考えず、最後まで走ってみようかと」
「……余力を残さず、ですか?」
インタビュアーの方が、念を押すように聞き返す。
「はい」
「では、これまでは余力を残していた、と?」
少し考えてから、笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「毎回というわけではありませんよ。最後まで出し切らなければ勝てなかったレースもありますから」
当然だ。
桜花賞や初回のスプリンターズSのように、あるいはジュライカップのように。最後まで競り合ったレースもある。
先日のヴィクトリアマイルと安田記念に至っては、出し切ったうえでウオッカに敗れた。
「ただ、勝負が決まったあとまで差を広げようとは、あまり考えてきませんでしたね」
「それを、次のスプリンターズステークスでは?」
「はい」
柔らかく笑って頷く。
「最後まで走ってみようと思います」
観客席が、今日一番と言っていいほど大きくざわめいた。
今までの私は、勝つために必要なところまで走り、必要がなくなればそれ以上を求めないことが多かった。
けれど、次は違う。
どこまで速度を上げられるのか。
最後まで踏み切ったとき、それでもなお脚を使えるのか。
それを試してみたい。
トレセン学園、美浦寮、自室。
夕食と入浴を済ませたあと、私はベッドの上で壁を背にして座っていた。
隣ではレヨが私の肩口へ頭を預け、半ば体重までこちらに任せながらスマートフォンを弄っている。
重くはないし、この程度なら今さら気にすることでもない。
「お姉ちゃん、炎上してるよ」
「炎上?」
今日、何か燃えるようなことをした覚えはない。
「うん。『今まで舐めプだったのか』って」
「舐めてはいませんが」
「知ってる」
「なら──」
「世間は知らないの」
レヨがスマートフォンをこちらへ傾ける。
『短距離の女主人、次走は「余力を残さず」──3連覇達成のノルデンセミラミスが異例の宣言』
その下には私の発言とともに、過去の短距離戦の着差まで並べられていた。
「お姉ちゃんにとっては、勝つのに100必要なら100出す。70で勝負が決まったなら、残り30を使う意味がないってだけでしょ?」
「そうですね」
「それを世間では『余力を残してた』って言うんだよ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
もちろん、毎回余裕があったわけではない。
最後まで競り合ったレースもあるし、先日のヴィクトリアマイルと安田記念では余力など残っていなかった。
「だから私も、手を抜いてたとは思ってないよ。でもG1を14個も勝ってる人が『勝負が決まったあとは走ってませんでした。次は最後までやります』って言ったら、そりゃ怖いでしょ」
「そこまで直接的な表現はしていませんよ」
「だいぶ柔らかく言った?」
「かなり」
「元の言い方、聞かない方がよさそう」
なぜだろう。
レヨが画面を滑らせる。
『短距離の女主人“リミッター解除”か スプリンターズSでサクラバクシンオーの大記録に挑戦?』
「リミッターを設けていた覚えはありませんが」
「物の例え。で、実際どこまでやるの?」
「最後まで踏み切ってみます」
「どこまで行けそう?」
「分かりません」
「分からないんだ」
「意識してやったことはありませんから」
レヨの指が止まった。
「……それ、インタビューで言わなくてよかったね」
「そうですか?」
「もっと燃えるよ」
そういうものだろうか。
「まあ、頑張ってね。お姉ちゃん」
「ありがとうございます」
「私も今週、毎日王冠あるけど」
「ええ。応援していますよ」
「そっち炎上してる場合じゃないんだからね」
「私が燃やしているわけではありませんよ」
「燃料は全部お姉ちゃんが撒いたんだけどね」
反論しようとしてやめた。
どうやら今回は、レヨの方が正しいらしい。
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