驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
15人が収まった鋼鉄の檻に足を踏み入れ、後ろで扉が閉まる。
ゲートの中でゆっくりと息を吐く。
視線を前へ。
耳を澄ませば左右から微かな蹄の音や息遣い、ゲートの金属が軋む音が聞こえてくる。
8枠16番。
大外枠ではあるが、今さら気にするほどのことでもない。
内へ寄せるなら寄せればいいし、前へ行くなら行けばいい。何より今日は、私より前へ行きたい方がいる。
視線だけを僅かに右へ向ける。
13番に収まったゲレイロさん。
共同会見での言葉を思い出す。
私が最後まで余裕を持って走れるようなレースにはしない、などと、随分と頼もしいことを言ってくれたものだ。
だから私は、あの場で期待していると答えた。
そして、その期待は──。
ジッ……という電気回路が通電するような、あるいは扉が軋むような、前兆を感じ取る。
いつものように、反射的に地面を蹴った。
ゲートが開く。
ほぼ揃った発走から速度を上げて外枠なりに前へ出る。無理に内へ切り込む必要はない。周囲の位置を確認しながら、身体の向きを緩やかに内側へ。
その視界の先で海老色の胸甲姿が明確に飛び出した。
ローレルゲレイロだ。
迷いなく前へ。
内から競りかけようとする相手にも構わずさらに速度を上げていく。
──その期待は、果たされるだろう。
思わず口元が緩む。
よい。そうでなくては。
こちらも脚を回しながら、少しずつ位置を取る。
ハナを争う必要はない。
前へ出たローレルゲレイロを目標にして、その後ろ。何人かを挟んだ外側へ収まる。
5番手か6番手。
内へ入り切ることはできず、外を回されている。
それでも問題はない。
むしろ視界が広い。前の様子も、周囲の動きもよく見える。
前との差はまだある。
けれど、離されているという感覚はない。
少し速めに脚を回していれば、自然とついていける。
心地よい。
間違いなく速い流れだろう。一番速いところで10秒前半程度か。
けれど、速すぎるとは思わない。
むしろ私にとっては丁度良いぐらいだ。
隊列は3コーナーのカーブへ。
相変わらず先頭はローレルゲレイロ。
その後ろ、アーバニティ、アイルラヴァゲイン、アルティマトゥーレ。
私は5番手集団の外側から彼女らの背中を見ながら坂を下っていく。
流れは速いが、地面を蹴るたび身体は素直に前へ運ばれ、呼吸にも脚にもまだ窮屈さはない。
先頭までは3バ身と少し。
ローレルゲレイロの背中はまだ遠く、海老色の胸甲も勢いよく揺れている。
そうでなくては。
カーブが深くなるにつれ、内を走っていたビービーガルダンの肩が少しずつ近づいてきた。
こちらから脚を速めたつもりはないが、そのまま外から並び、流れの中で自然に前へ出る。
続いて、前にいたアイルラヴァゲインの背中もこちらへ寄ってくるように距離を縮め、その横を通り過ぎるころには視界も少しずつ開けてきた。
その先にはまだローレルゲレイロがいる。
逃げる姿勢は崩れず、むしろ前へ前へと進んでいるようにさえ見えた。
思わず口元が緩む。
いい。
いいじゃないか。
3コーナーの出口が近づくころには、前を行く背中がまた一つ近づいていた。
そのまま外から並びかけ、視線をさらに先へ向ける。
ローレルゲレイロまで、2バ身あまり。
海老色の胸甲を視界に収めたまま、4コーナーへ入る。
残り400のハロン棒を過ぎる。
さあ、ここからだ。
ふいに、世界を満たしていた音が遠ざかった。
中山レース場を震わせていた歓声も、耳元を裂いていた風の唸りも消え去り、あとに残った静寂の中、蹄鉄が硬質な床を叩く音だけが高く響く。
踏み締めていたはずの芝も、いつの間にか足元から失われていた。
視界を占めるのは、磨き上げられた白亜の大理石。
高く伸びる列柱と尖塔、頭上を渡る重厚な梁、それらを繋ぐ荘厳なアーチが広大な空間を形作っている。
華美ではない。それでも見る者を圧する威容を備えた玉座の間。
その壇下からは深紅の絨毯が伸び、遥か正面に閉ざされた大扉まで一直線に続いていた。
手前には3つの玉座が並んでいる。私はその背後、一段高くなった壇上に立っていた。
天井近くまで切られた高窓から光が降り注ぐ。赤、白、金。それぞれ異なる色を宿した3条の光が、並ぶ3つの玉座を静かに照らしていた。
広間には私以外の姿はない。
ただ静かに、3つの玉座がそこにある。
私は白亜の床へ蹄音を響かせながら腰へ右手を伸ばし、
そのまま鞘を払えば、澄んだ金属音が長く玉座の間を渡っていく。
抜き放った刀身を顔の前へ掲げる。
すると玉座へ降り注いでいた光が揺らいだ。
最初に赤。続いて白。そして金。
3条の光はそれぞれ弧を描くように壇上へ伸び、掲げた刀身へと重なった。磨かれた鋼の上を赤と白と金が走り、互いを塗り潰すことなく、3色の輝きとなって刃へ宿る。
3色の光を帯びた切っ先を正面へ向ける。
すると閉ざされていた大扉が重厚な音を立てて左右へ開く。
その向こうに、赤と金の胸甲を纏ったローレルゲレイロが立っていた。
肩には大剣。
胸には胸甲。
脚には具足。
海老色に染められたそれらを鳴らし、黒鹿毛を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その視線が、玉座の間を一巡した。
白亜の大理石。
3つの玉座。
赤、白、金の光。
そして壇上に立つ私。
彼女は鼻を鳴らす。
「……なるほどな」
大剣を肩から下ろし、両手で柄を握る。
「最初っから、アンタの城ってわけか」
「はい」
否定する理由もない。
スプリンターたる私の、文字通りの城。
ゲレイロは一度だけ天井を仰ぎ、それからまた私を見た。
「ったく。分が悪ぃにも程があるな」
それでも、その口元から笑みは消えなかった。
むしろ、歯を見せてさらに大きく笑う。
「けどよ」
大剣の切っ先を床へ落とし、重い音を響かせる。
「ここまで来て尻尾巻いて逃げたら、
そう言って、姿勢を低くした。
「最後まで走るぜ。アンタがどこまで行こうがな」
その言葉に自然と笑みが浮かんだ。
「……ええ。そうでなくては」
私も
赤、白、金。
3色の光が刀身の上を走る。
彼女は一歩も引かなかった。
「来いよ」
次の瞬間、互いに床を蹴った。
彼女は大剣を振り上げ、真正面から踏み込んでくる。
私も切っ先をまっすぐに据えたまま加速する。
そして衝突。
衝突した瞬間、ゲレイロの身体が大きく浮いた。
正面から騎兵突撃でも受けたように、胸甲と具足を激しく鳴らしながら後方へ弾き飛ばされ、そのまま開け放たれた大扉の向こうへ消えていく。
それでも。
最後まで、その顔から不敵な笑みは消えなかった。
「ハッ──! 上等だ!」
その声を最後に、姿が見えなくなる。
玉座の間に再び静寂が戻った。
次の一歩を踏み込んだ瞬間、世界に歓声と風が戻った。
白亜の床は再び芝へと変わって、手にしていた
その代わりに蹄鉄から全身へ突き上げてくる衝撃と、中山の直線へ向かって吹きつける風圧が一気に身体へ戻ってきた。
4コーナー出口、すぐ横にいたはずのローレルゲレイロが半歩、また半歩と後ろへ流れていくのを視界の端に捉えながら、私はそのまま脚を回し、腕を振り、さらに身体を前へ押し出していく。
直線へ向いた。
前には、もう誰もいない。
普段ならここで十分なはずだった。
後ろとの差を測り、勝つために必要なだけ走ればそれでよかった。
だが、今日は地面を蹴るたびさらに速度が乗る。
荒くなった呼吸も、肺の熱も、腿へ溜まり始めた疲労も、まだ身体を止める理由にはならなかった。
まだ速くなれる。
ならば、もっと。
残り200、背後の足音は少しずつ遠ざかり、歓声はますます大きくなっている。
そのはずなのに、もはや意味のある音としては耳に入らない。
一歩踏み込み、さらにもう一歩。
脚を使うたびに確実に苦しくなっているはずなのに速度は落ちず、それどころか身体はまだ前へ出ようと応え続けてくる。
思わず頬が吊り上がる。
そうだ、これだ。これこそが──。
こんなところまで来ても、まだ行ける。
残り100、後ろを見ることもなければ時計を確かめることもせず、ただ身体が動く限り前へ。
もう少し速く、もう少しだけ先へと腕を振り切り、最後まで脚を回し続ける。
ゴール板が目前へ迫ってくる。
それでも緩めず、最後にもう一度だけ強く地面を蹴ると、身体はさらに前へ伸びた。
加速を続けたまま、私はゴール板を駆け抜けた──。