驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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207 中山レース場スプリンターズステークス(G1)芝 1200m 晴 良

10月4日中山レース場第11レース

スプリンターズステークス(G1)芝 1200m 晴 良

 

『4コーナーへ入ります! 先頭ローレルゲレイロ! まだ粘っている!』

 

 関係者席から見下ろす4コーナー、その先頭を海老色の勝負服が駆けている。

 2バ身ほど後ろでは外を回ってきた赤い勝負服が番手集団から抜け出すように前との差を詰めていた。

 

『外からノルデンセミラミス! 大外16番からここまで来た! ローレルゲレイロまで、もう2バ身を切る!』

 

 サクラバクシンオーは無意識に身を乗り出した。

 ここまでは予想できた。

 

 あれだけ速い流れを大外から追走してなお、セミラミスの脚には明らかに余裕がある。

 対してローレルゲレイロもよく粘っているが、400mのハロン棒を通過したところで、赤い勝負服の身体が僅かに沈んだ。

 

『残り400! ここからだ!』

 

 脚の回転が一段上がる。

 それまで一定に保たれていたように見えた両者の距離が、目に見えて縮まり始めた。

 

『ノルデンセミラミスが来る! ローレルゲレイロ逃げる! 最後まで余裕を持って走らせないと宣言したローレルゲレイロ! その背後へ短距離の女主人が迫る!』

 

 速い。

 けれどバクシンオーが見ているのは、その速度だけではなかった。

 セミラミスにはまだ、もう一段ある。

 

 分かる。

 同じ短距離を走り続けた者だからこそ、分かってしまう。

 4コーナー出口、ローレルゲレイロが内で踏ん張り、その外へセミラミスが並びかける。

 

『直線へ向いた! ローレルゲレイロ先頭! 外からノルデンセミラミス!』

 

 1バ身。

 半バ身。

 

『並びかける!』

 

 そして。

 

『並んだ! ノルデンセミラミス! ローレルゲレイロ!』

 

 ここでバクシンオーにはもう勝負が決まったのが分かった。

 外を回りながらあれだけの流れを追走して、それでも脚色が違う。

 残り300mを前に外のセミラミスがわずかに前へ出ると、その差はすぐに半歩、さらに半歩と広がっていった。

 

『かわした! ノルデンセミラミス先頭!』

 

 勝つだけならここまで来れば十分だった。

 これまでのセミラミスであれば、後ろとの差を測り、必要以上の出力は使わなかっただろう。

 だからバクシンオーも、そのつもりで次の一歩を見た。

 

 目が僅かに見開かれる。

 セミラミスは緩めなかった。

 

『さあ、ここからどうする!』

 

 むしろもう一段深く地面を踏み込み、直線へ向いた身体をさらに前へ押し出していく。

 

「……まだ行くんだ」

 

 傍らでノースフライトが呟いた。

 返事はしなかった。できなかったのかもしれない。

 ただ見ていたかった。目に焼き付けたかった。あの走りを。

 

『前走セントウルステークスのあと自ら宣言しました! 今度は余力を残さない! 最後まで走ると!』

 

 1バ身。

 

 2バ身。

 

『その言葉どおりだ! まだ追う! まだ伸びる!』

 

 セミラミスは止めない。

 

 先頭に立っている。勝負もほとんど決している。

 それでも頬には心底からの歓びが浮かび、まるでまだ前に誰かがいるかのように加速を続けていた。

 

 その姿を見ているうちに、バクシンオーの胸の奥から遠い記憶が浮かび上がる。

 

 冬の中山、1200m。

 4コーナーから前を捕まえ、そのまま直線へ。

 あの日のスプリンターズステークス。

 

 自分もここで前を捉えた。

 勝負は決していた。それでも、さらに踏み込んだ。

 

『残り200! ノルデンセミラミス独走! ローレルゲレイロが離される! 後ろも届かない!』

 

 似ている。

 あまりにも。

 

 けれど、同じではない。

 あの子は自分のレースをなぞっているのではない。

 まだ身体が応える。まだ速くなれる。だから、その先へ行こうとしている。

 

『まだ加速している!』

 

 3バ身。

 

『ノルデンセミラミス、まだ伸びる!』

 

 胸が騒いだ。

 

 そうだ。

 もっと。

 それでいい。

 

 行け。

 往け。

 貴女がどこまで行けるのか、私に見せてくれ。

 

 前に送り出したとき、胸の内で願ったことが、そのまま目の前で形になっていた。

 貴女の脚が往けるところまで。

 

『残り100! もう勝負は決した! スプリンターズステークス3連覇は間違いない!』

 

 ローレルゲレイロとの差は大きく広がっている。

 その数字を見ている余裕さえ、もうバクシンオーにはなかった。

 

『それでも追う! 最後まで追う!』

 

 いつの間にか手すりを関節が白くなるほど握りしめ、身体は大きく前へ傾いている。

 フライトが隣で息を呑んだ。

 

『前には誰もいない! それでもまだ速くなる!』

 

 あと少し。

 越えてくれ。

 最後の一完歩まで。

 

 あの日、自分が最後の愛の鞭として遺したものを。

 いつか誰かが越えてくれることを願って、置いていったものを。

 

『ノルデンセミラミス!』

 

 赤い勝負服が最後まで脚を止めず、加速したまま決勝線へ飛び込む。

 

『ゴール!!』

 

 中山レース場が爆発したような歓声に包まれた。

 少し遅れてローレルゲレイロ、その後ろから後続が次々と決勝線を通過していく。

 

『ノルデンセミラミス! 史上初、URAG1・3連覇達成!』

 

 そんな声も、もう半分しか耳に入っていなかった。

 バクシンオーの視線はゴール後に歓声に応えるセミラミスから離れない。

 

 やがて実況が途切れた。

 電光掲示板が切り替わる。

 

 

中山 11R 確定 

 Ⅰ  16 

>XX 4 XX

 Ⅱ  13 

> 1/2 

 Ⅲ  9X 

>X1.1/4X

 Ⅳ  12 

> クビ 

 Ⅴ  8X 

 

 芝  レコード 

 良 タイム 1:06.8 

ダート 4F   44.3 

 良  3F   33.4 

 

 

 

 1:06.8。レコードの赤い文字。

 

 その瞬間、時間が止まったような気がした。

 

『……1分6秒8』

 

 実況さえ、一度その数字を確かめるように間を置いた。

 

『1分6秒8です!! レコード!!』

 

 どよめきが中山全体を揺らす。

 

『サクラバクシンオーが残した1分6秒9を、0秒1更新!』

 

 1:06.8。

 

 もう一度見ても変わらない。

 あの日、自分が最後まで全力で走り切って残した数字より、0.1秒だけ速い。

 

「……レコード、だね」

 

 フライトの声が、すぐ隣から聞こえた。

 バクシンオーは答えなかった。

 答えられなかった。

 

『大外16番から4バ身差! ノルデンセミラミス! スプリンターズステークス3連覇! そしてサクラバクシンオー以来、ついにこの中山1200mのレコードが塗り替えられました!』

 

 1分6秒8。

 

 見間違いではない。

 いつか私を越えるウマ娘が現れてくれること。

 それが望みだった。本当に、そう願っていた。

 

 そしてあの日。

 人垣を掻き分けて現れた小さな栗毛のとねっこが、顔を真っ赤にして言ったのだ。

 

 絶対に、私を超えると。私が願ったとおりに。

 あの子が誓ったとおりに。

 

 すべて叶った。

 

「バクちゃん?」

 

 もう一度フライトに呼ばれた。

 

「……ほんとうに」

 

 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。

 

 嬉しい。

 誇らしい。

 待ち望んでいた瞬間だった。

 

 なのに、胸の奥から込み上げてくるものはそれだけではない。

 

 もし。

 もし、あの娘がもっと早く生まれていたなら。

 同じゲートに入り、同じ芝を踏み、あの直線で隣に並ぶことができていたなら。

 

 私は、どこまで走れただろう。

 あの子は、どこまで来てくれただろう。

 

 胸の底にずっと居座っていた乾きが堪えようもなく疼いた。

 

 分かっていた。

 ずっと前から、自分は、こういう相手を待っていた。

 いつか越えてくれる誰かを待っていた。けれど、本当はそれだけでは足りなかった。

 

 同じ場所で。

 同じ時代に。

 最後まで競り合える誰かと、走りたかった。

 

 もし、それが叶っていたなら。

 あの日から消えずに残ったこの乾きも、きっと。

 

「どうして……」

 

 声が震えた。

 模範的な先達なら、ここでは笑うのだろう。

 よくやりましたと褒め、記録を託せる後輩が現れたことを喜び、胸を張って祝福するのだろう。

 そうあるべきだと分かっている。

 けれど、できなかった。

 

「どうして貴女は、私と同じ時代(とき)に走ってくださらなかったのですか……」

 

 視界が滲んだ。

 そのとき、傍らからそっと肩を抱かれた。

 

 ノースフライトだった。

 何も言わず、ただ逃げ場を作るようにやさしく身体を引き寄せてくる。

 

 バクシンオーは抵抗しなかった。

 その肩へ額を預ける。

 

「……走りたかったです」

「ええ」

 

 絞り出した言葉を受け止めるように、フライトは腕へとほんの少しだけ力をこめた。

 

「知ってるよ」

 

 中山の歓声は、まだ止まない。

 電光掲示板には変わらず、1:06.8の数字が輝いている。

 

 その喧騒のただ中で、バクシンオーはあの日から胸の奥に残り続けていた乾きを初めて誰かの前にさらしていた。

 

 


 

 

 ノルデンセミラミスが歓声に包まれながらウィナーズサークルへ上がる。

 

 勝負服の胸元には、これまで積み重ねてきた戦績を示す優勝レイを模したリボンの付いたバーが並んでいる。

 その一角には、今日取り替えられるべき赤のリボンにⅡのバッジがついたものが取り付いていた。

 

『それでは初代G1・スプリンターズステークス連覇、サクラバクシンオーさん、お願いいたします!』

 

 バクシンオーが前へ進み出る。

 いつも通りの声だった。明るく、張りがあり、少しばかり大仰な。

 表情も模範的な学級委員長としてのそれ。

 

「セミラミスさんッ! 本当におめでとうございますッ! はなまるですッ!」

「ありがとうございます!」

 

 相対するセミラミスも頬を上気させ、憧れの、越えると宣言した先達に胸を張る。

 そのままバクシンオーはセミラミスの胸元から旧い略綬を留めたリボンバーを抜き取り、新しく3連覇を示す意匠のついたものと取り替えた。

 

 その瞬間、周りを囲んでいた報道陣のカメラが一斉にシャッターを切る。

 

 初代短距離王者から次代の短距離の女主人へ。

 確かにその歴史は受け継がれた。

 その継承の瞬間をカメラが切り取る。

 

 そしてバクシンオーがセミラミスの手を取ると、そのまま手を引き強く抱きしめた。

 

「バクシンオーさん!?」

「本当に、見事でした。ノルデンセミラミス」




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○架空馬紹介
ノルデンセミラミス Norden Semiramis 牝
父:サクラバクシンオー
母:ノースフライト
主な勝鞍 スプリンターズステークス3連覇など
近親馬 ノルデンレヨネット(全弟:05)、メモリアルフライト(全妹:13)
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