驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
【特集】あの日の約束、その先へ──史上初の3連覇と1分6秒8
(文:乙名史 悦子)
■ 驀進王の記録、ついに破られる
1分6秒8。中山の電光掲示板にその数字が灯った瞬間、短距離界の歴史が動いた。
スプリンターズステークス(G1・芝1200m)。ノルデンセミラミスが後続に4バ身差をつけ、史上初となる同競走3連覇を達成した。勝ち時計は日本レコード。それまでの記録を0秒1更新する驚異的な走りだった。
破られたのは、サクラバクシンオーが引退レースで刻んだ1分6秒9。史上初の連覇を達成し、5バ身差で後続を圧倒した伝説の一戦である。
そして、その記録を塗り替えたのは、かつてバクシンオーの前で「あなたを超える」と宣言した少女だった。
■ あの日の約束が、現実になった
一昨年の本誌10月号で、筆者は2人の原点を取り上げた。
引退セレモニーに現れた幼いウマ娘と、その無謀な宣言を笑顔で受け止めた短距離王者。憧れから始まった物語は、やがて師弟関係となり、数々の勝利を経て今日に至った。
一昨年、セミラミスは初めてスプリンターズステークスを制した。翌年には連覇。そして今年、ついに師の記録を塗り替えた。
だが、今回の偉業を単に時計の比較だけで語るべきではないだろう。バ場状態も展開も相手関係も異なる。0秒1の差で、2人の優劣を決することはできない。
それでも、3連覇という誰も成し遂げなかった偉業と、長く破られなかった日本レコード。その両方を手にした事実は揺るがない。
■ 受け継がれた王冠
レース後、ウィナーズサークルで忘れがたい光景があった。
駆け寄ったサクラバクシンオーが、ノルデンセミラミスを抱きしめたのである。
あの瞬間、かつての短距離王者は何を思ったのだろう。自らが残した記録を破られた悔しさか、それとも教え子が成し遂げた偉業への喜びか。
その胸中を推し量ることはできない。だが、記録を更新した教え子を抱きしめる姿には、確かな誇らしさが感じられた。
かつての少女は、今や短距離の歴史にその名を刻む女主人となった。
そして彼女は、次走に天皇賞(秋)を予定している。
芝1200mから芝2000mへ。憧れの背中を追い続けた少女は、その背中を越え、さらに先へ進もうとしている。
あの日の約束は果たされた。だが、彼女の挑戦はまだ終わらない。
トレセン学園、チーム棟、チーム“アルケス”応接室。
窓の外では、街路樹が少しずつ色づき始めていた。
まだ紅葉には早い木々も多いが、秋の訪れは確実に感じられる。先日のスプリンターズステークスから数日、トレセン学園にもようやく普段の落ち着きが戻ってきていた。
「いやあ、実に素晴らしい記事ですね! 乙名史記者はよく分かっています!」
朗々と響く声の主はバクシンオーさん。
応接室のソファに腰掛けた彼女は、テーブルに広げた『月間トゥインクル』を満足そうに眺めていた。
「特にこの部分! 『あの日の約束は果たされた』! ええ、まったくその通りです!」
「バクシンオーさん、もう3回目ですよ」
「何度読んでも良いものは良いのです!」
そう言って胸を張るバクシンオーさんに、向かいの席のフライトさんがくすくすと笑う。
私もつられて微笑んだ。
この部屋へ招かれたのは、スプリンターズステークスの報告と、今後の予定について話すためだった。
ところが、挨拶もそこそこに話題は発売されたばかりの雑誌へ移り、以来ずっとこんな調子である。
「でも、素敵な記事だよね。セミラミスちゃんが入学する前のことから、ちゃんと取材してくれているんだから」
「……あまり昔のことを掘り返していただきたくはないのですが」
「ふふ。あの頃は本当に可愛かったものね」
「今も十分可愛いですよ!」
「そ、そういう話ではなく!」
思わず声を上げると、2人揃って笑われてしまった。
まったく、揃いも揃って。
テーブルには雑誌のほかに、緑茶と桜餅が用意されている。
バクシンオーさんのお好みだろうか。瑞々しい桜色の餅からは、ほんのりと桜葉の香りが漂っていた。
「ほら、バクシンオー。お話ばかりしていないで、乾く前に食べないとね」
「おっと、そうでした! では、いただきます!」
元気よく手を合わせ、バクシンオーさんが桜餅を頬張る。
「それにしても、とうとうやりましたね、セミラミスさん!」
「……はい」
「1分6秒8! 見事な日本レコードです!」
満面の笑みを向けられ、私は少しばかり居住まいを正した。
「ありがとうございます。ですが、バクシンオーさんの記録をとうとう更新してしまいました」
「はい! 実に見事でした! 1分6秒8! しかも4バ身差! 素晴らしい走りでしたよ、セミラミスさん!」
4バ身差、スプリンターズステークスの着差としては2位タイ。
「ありがとうございます。でも、バクシンオーさんは5バ身差でしたから。まだまだですね」
「はっはっは! では次は6バ身差を目指しましょう!」
「いや、そこは時計を縮める方では……?」
「もちろん両方です!」
「欲張りだねえ」
フライトさんの苦笑に、また笑い声が重なった。
こうして話しているとあの記録を超えたという実感が不思議なほど薄れてしまう。
幼い頃から何度も見返した、あの引退レース。
1分6秒9という数字も、最後の直線で後続を突き放す姿も、私にとってはずっと憧れそのものだった。
それを、自分の脚で超えた。
もちろんバ場も相手も違う。
12月の枯れた芝と10月の青々とした芝では単純に比較できないことくらい分かっている。開催時期が変わってしまったという意味ではアンタッチャブルとなってしまったことも。
それでも、ようやく追いついたのだと思う。
「……あの、バクシンオーさん」
「はい!」
「悔しくは、ありませんでしたか?」
口にしてから、少し失礼だったかと思った。
けれどずっと気になっていたことでもある。
私なら自分の記録を破られて平然としていられるだろうか。
まして、あれほど長く守られてきた記録を。
バクシンオーさんは一瞬だけ目を丸くし、それから、からりと笑った。
「もちろん、少しはありますよ!」
「……そうなのですか?」
「当然です! 私も競走ウマ娘でしたからね! 自分の記録が破られれば、悔しいと思うこともあります!」
そこで一度言葉を切り、彼女は私をまっすぐに見つめた。
「ですが、それ以上に嬉しいのです」
「……嬉しい?」
「はい! 私がずっと見たかったものを、ようやく見せていただけたのですから!」
あまりにも晴れやかな笑顔だった。
「私を超えるウマ娘を」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
いつか、確かに口にした言葉だ。
子供の頃、何の根拠もなく、ただ憧れだけを胸に掲げた理想。
「……覚えていらしたのですね」
「もちろんですとも!」
「忘れるわけないよ。あんなに一生懸命だったんだから」
フライトさんが穏やかに微笑む。
「セミラミスちゃんがあの頃に言っていたこと、ちゃんと覚えているよ。だから、今回のレースは私も嬉しかった。日本一、ううん、世界一速くて切れるウマ娘!」
「……ありがとうございます」
なんだか、妙に気恥ずかしい。
当時は大真面目だった。今でもあの言葉を撤回するつもりはない。
ただ、こうして憧れの方々から改めて突きつけられると、どうにも落ち着かないのである。
「でも、世界一かどうかはまだ分かりませんよ」
「それでいいのです!」
「え?」
「自分の限界など、簡単に決めるものではありません! 今のセミラミスさんなら、まだまだ先へ行けるでしょう!」
バクシンオーさんは力強く頷いた。
「私はもう、あなたに何かを教える必要はないのかもしれませんね」
ふと、その声が穏やかなものに変わった。
「……バクシンオーさん?」
「もちろん、尋ねられればいくらでもお答えします! ですが、あなたはもう、私の走りを追いかけるだけのウマ娘ではありません」
そう言って、雑誌の表紙に視線を落とす。
「自分の脚で、自分の望む場所へ行ける。実に素晴らしいことです」
私は返事に迷った。
それは嬉しい言葉だった。
けれど、どこか寂しくもあった。
「……まだまだ教えていただきたいことはありますよ」
「はっはっは! そう言っていただけるのは嬉しいですね!」
いつもの快活な笑い声が響く。
しかし、その後に続いた言葉は少し意外なものだった。
「ですが、私もそろそろ考えなくてはなりません!」
「何を、ですか?」
「今後の身の振り方です!」
思わずフライトさんを見る。
彼女は驚いた様子もなく、静かにお茶を飲んでいた。
「……指導ウマ娘を、お辞めになるのですか?」
「今すぐというわけではありませんよ! 引き受けているお仕事もありますからね!」
バクシンオーさんはそう前置きして、少しだけ声を落とした。
「ですが、私自身の夢は、もう叶えていただきました」
「……夢、ですか?」
「はい! 自分を超えるウマ娘を育てることです! もちろん、それだけが指導の喜びではありません。ですが、私がこうして指導を続けてきた、大きな理由の1つでした」
いつもの感嘆符過多の口調が鳴りを潜める。
胸の奥が締め付けられるようだった。いつか来ると分かっていた日が、思いのほか近くまで迫っていたらしい。
「長い間、待っていたのです。私より速く、私の知らない景色を見せてくれるウマ娘が現れることを」
彼女は私を見た。
「そして、ようやく現れてくれました。貴女です、セミラミスさん」
「……はい」
「ですから、もう思い残すことはありません! あの時計を見たとき、ようやく分かったのです。私はもう、何かを待ち続ける必要はないのだと!」
あまりにもあっさりとした宣言だった。
しかし、その表情を見れば冗談ではないと分かる。
「もちろん、まだまだ指導は続けますよ! ですが、いつまでも私が居座っている必要もないでしょう!」
「……そう、ですか」
何と答えるべきだろう。
寂しいと言えば、引き止めることになる。
けれど、私自身がバクシンオーさんに憧れ、追いかけ、そして今ようやくその記録を超えたのだ。
それを喜んでくださっている相手に、辞めないでほしいと告げるのは、どうにも違う気がした。
「バクちゃんはね、ずっと待っていたんだよ」
フライトさんが静かに口を開いた。
「誰かが自分の記録を超えてくれる日を。自分たちが見られなかった景色を、見せてくれる日を」
「フライトさん……」
「だから、今は喜んであげて。バクちゃんがそう決めたなら、それはきっと、とても幸せなことだから」
バクシンオーさんは大きく頷いた。
「その通りです! 実に充実した指導ウマ娘生活でした!」
「まだ引退したわけじゃないでしょう?」
「おっと! そうでした!」
いつもの調子に戻った彼女に、私もようやく笑うことができた。
「……分かりました。では、その日が来たら、盛大にお祝いさせてください」
「ええ! 楽しみにしておりますよ!」
そう言って、バクシンオーさんはまた桜餅を手に取った。
窓の外では、秋風に揺られた色づき始めの葉が、ひらひらと舞っていた。
アルケスの応接室を後にして、私はチーム棟の小道を歩いていた。
バクシンオーさんが、指導ウマ娘を引退する。
いずれはそういう日が来るのだろうと思っていた。
けれど、実際に本人の口から聞くと、やはり少し寂しい。
もっとも、まだ先の話らしい。
それまでに何度でもお会いできるだろうし、引退したからといって二度と会えなくなるわけでもない。
まして、バクシンオーさんの地元はここ府中だ。
それでも、1つの時代が終わりつつあるのだとは思う。
そういえば、ゼファーさんはどうなのだろう。
バクシンオーさんよりも1つ上の世代。
指導ウマ娘としての活動も長く、私が入学した頃には既にベテランの風格があった。
バクシンオーさんが身の振り方を考えているのなら、ゼファーさんもそろそろなのかもしれない。
……いや。
それを言うなら、私自身も同じか。
足を止め、歩いてきた道を振り返る。
幼い頃、私はバクシンオーさんを超えるウマ娘になりたかった。
あの日の宣言は、今でも鮮明に覚えている。
そして、ようやく実現した。
スプリンターズステークス3連覇。
1分6秒8の日本レコード。
もちろん、これが史上最速の走りだなどと言うつもりはない。
もっと速く走れる条件も、もっと強い相手も、どこかに存在するのだろう。
だが、少なくとも私が求めていた速さには、手が届いた。
速さの限界は、もう確かめた。
ならば距離はどうか。
私がこの脚でどこまで往けるのか。おそらく、その答えも間もなく出る。
2000m。
秋の天皇賞に勝てるなら、それが私の望んだ果てなのだろう。勝てないなら、そこに私の限界がある。
どちらにしても、もう十分ではないか。
そう考えて、ふと思い出した。
……そういえば、トレーナーさんにはまだお話ししていなかったですね。