驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”トレーナー室前。
廊下を歩いていると、目指す部屋の扉が開いた。
「あら、セミラミスさん。お待ちしていました」
迎えてくださったのはゼファーさんだった。
「こんにちは、ゼファーさん。まだ声もかけていないのに、よくお分かりになりましたね」
「ふふ。すっかり聞き慣れた足音ですから」
なるほど。ウマ娘の耳なら、この程度の距離で足音を聞き分けることなど難しくもないだろう。
軽く会釈して、開けていただいた扉をくぐる。
すると、ふわりとスパイスと柑橘の香りが鼻をくすぐった。
……ああ、懐かしい。
そういえば、初めてこの部屋を訪れたときも、こんな香りがしていた。
あの日は冷たい雨が降っていて、まだ会ったこともないトレーナーさんがどんな方なのか分からず、扉の前で何度も部屋の場所を確認したものだった。
それが今では、足音だけで迎えていただける。随分と長い付き合いになったものだ。
「こんにちは、セミラミスさん。どうぞ、そちらへ」
室内ではトレーナーさんが、いつもどおり穏やかな笑みを浮かべていた。
「こんにちは、トレーナーさん。本日もよろしくお願いいたします」
勧められるままテーブルにつく。
壁には見慣れた魚拓と潮汐表。初めて訪れたときには、随分と変わった趣味の部屋だと思ったものだったが、今となってはすっかり馴染みの風景だ。
やがてトレーナーさんが、湯気の立つガラスのカップを私の前に置いた。
赤い液体の中には、くし切りにされた果実が浮かんでいる。
「ホットワインです。少し肌寒くなってきましたから」
「ありがとうございます。久しぶりですね」
初めていただいた際には、アルコールは残っていないから安心するよう、わざわざ説明していただいたものだった。
今では、その説明も必要ない。
カップを持ち上げて口をつけると、シナモンと柑橘の香り、そしてぶどうの甘みが広がった。
「……おいしいですね」
「ふふ。それは何よりです」
「恵風ですね……」
隣ではゼファーさんが、両手でカップを包み込んでいる。
そうだった。この方も、あの日、私の隣で同じ飲み物を召し上がっていたのだった。
あれから、随分と遠くまで来たものだ。
「さて、それでは天皇賞までの調整について確認しましょうか」
トレーナーさんがタブレットを机上に置いた。
スプリンターズステークスから天皇賞(秋)までは中3週。
先日のレースで幸い大きな疲労は残らなかったが、1200mを全力で走った身体を、今度は2000mへ向けて仕上げなければならない。
もっとも、その準備自体は夏合宿から続けてきたことだ。
「ここから新しいことを詰め込むつもりはありません。これまで積み重ねてきたものを、当日までに仕上げていきましょう」
「はい。異存ありません」
「脚の状態については、引き続き慎重に見ていきます。何かあればすぐに知らせてくださいね」
「もちろんです」
具体的な練習量や休養日、最終追い切りまでの日程を確認していく。
途中、ゼファーさんからもいくつか意見があったが、大きな変更はない。
結局、これまで準備してきたことを予定どおりに進める、という結論に落ち着いた。
「では、調整については以上ですね。何か気になるところはありますか?」
「いえ、大丈夫です。……それとは別に、少しお話ししたいことがあるのですが」
「ああ、そうでしたね。何でしょう?」
トレーナーさんがタブレットを伏せた。
ゼファーさんもカップを置き、こちらを向く。
さて。
どう切り出そうかと少し考えたが、回りくどく話す必要もあるまい。
「今年のマイルチャンピオンシップを最後に、現役を引退しようと思っています」
トレーナーさんが、わずかに目を見開いた。
そのまま数秒、私の顔を見つめる。
「……そうですか」
「はい」
「天皇賞の結果にかかわらず、ですか?」
「ええ。勝っても負けても、です」
はっきりと頷いた。
「バクシンオーさんの記録も超えることができました。短距離でもマイルでも、私なりにやりたいことはやれたと思っています。あとは2000mです」
「……なるほど」
「秋の天皇賞に勝てるなら、私の脚はそこまで届くということでしょう。勝てないなら、そこが私の限界です。いずれにしても、答えが出ればもう十分ではないかと」
もちろん、勝つつもりでいる。
ただ、勝てなかったとしても、もう1度、さらにもう1度と挑み続けるつもりはなかった。
私が知りたいのは、この脚がどこまで往けるのか。
それを確かめられたなら、次へ進んでもよいのではないか。
「以前、今後のことも考えておくようにとお話ししましたね」
「はい。あのときから、少しずつ考えていました」
「……思っていたより、早く答えが出ましたね」
「私もそう思います」
思わず苦笑する。
何しろ、つい先日までバクシンオーさんの記録を破りたいなどと言っていたのだ。
それが叶った途端、今度は引退の相談とは。我ながら随分と気が早い。
「ちなみに、マイルチャンピオンシップを最後にするのは?」
「今年の予定に入っていますから。それに、せっかくなら最後まで走り切っておきたいですし」
もちろん、3連覇も狙っている。
だが、それが引退の条件というわけではない。最後のレースまで全力を尽くし、勝敗を受け入れる。それでよい。
「分かりました。では、もう1つだけ」
トレーナーさんが、少しだけ居住まいを正した。
「引退した後のことは、考えているのですか?」
「……一応は。ただ、まだ具体的には決めていません」
「そうなのですか?」
「ええ。指導ウマ娘という道もありますし、海外で学んでみたいこともあります。ですが、何をするかは引退してから考えてもよいかと思いまして」
指導ウマ娘になるにせよならないにせよ、私の戦績なら一次の筆記試験も二次の面接も通ったようなものだ。
レースのための予定を立てなくてよくなったとき、自分が何をしたいと思うのか。
正直、まだ分からない。
だが、それを今から決めておかなければならない理由もないだろう。
「……ふふ。珍しいですね」
「何がでしょう?」
「貴女が、それほど先のことを決めていないなんて」
確かに。
学園に来てからというもの、何かしら目標を掲げ、それに向かって走り続けてきた。
その私が、次に何をするか決めていないというのだから、少々おかしな話かもしれない。
「まあ、少しくらいはのんびりしてもよいかと」
「ええ。それもよいと思いますよ」
トレーナーさんが微笑む。
「初めてお会いしたときにもお話ししましたが、学園を出た後の人生の方が長いのです。競走を終えてから何をするにせよ、貴女自身が望む道を選んでくだされば、それで十分です」
「……ありがとうございます」
初めてこの部屋を訪ねた日。
目の前の方は、勝つことよりも、無理をして怪我をしないことの方が大切だと仰った。
私はあのとき、その考え方を好ましく思ったのだった。
そして今も、それは変わらない。
「ただし、残りのレースも全力で勝ちに行きますよ」
「もちろんです。私たちも、そのつもりで準備していますから」
トレーナーさんは、いつものように穏やかに頷いた。
「では、最後までよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
まだ天皇賞もマイルチャンピオンシップも終わってはいない。
それでも、こうしてトレーナーさんに伝えられたことで、ひとまず区切りをつけられたような気がした。
顔を上げると、ゼファーさんが静かに微笑んでいた。
その表情は驚いているというよりも、どこか納得したように見えた。
もしかしたら、私がそう言い出すのを察しておられたのかもしれない。
「……ところで、セミラミスさん。実はこちらからも、お伝えしておきたいことがありまして」
トレーナーさんが、ゼファーさんへと視線を向けた。
「ゼファーの今後についてです」
「ゼファーさんの、ですか?」
そう尋ねると、ゼファーさんはカップをそっと置き、穏やかに頷いた。
「はい。私も、今年度いっぱいで指導ウマ娘を退こうと思っています」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
今年度いっぱい。つまり、あと半年ほどということか。
「以前から考えていたことなのです。そろそろ、次の風に道を譲る頃合いかと」
「そう、でしたか……」
考えてみれば、ゼファーさんはトレーナーさんのもとで長く後進の指導に携わってこられた。いつかはそういう日が来るのだろう。
それでも、いざ聞かされると驚きを隠せない。
「実際には、もう少し早く退くことも考えていたそうですよ」
トレーナーさんが補足する。
「ただ、どうしても見届けておきたいことがある、と」
「……見届けたいこと、ですか?」
ゼファーさんが、ふふ、と微笑んだ。
「ええ。少しばかり、風待ちが長くなってしまいました。けれど、ようやく時つ風が吹いてくれたようです」
よい時機が訪れた、ということか。
その言葉に、ふと思い当たる。
「……もしかして、私のことでしょうか」
「さて、どうでしょう?」
答える代わりに、ゼファーさんは静かに目を細めた。
「ただ、もう少しだけ、あなたの追い風でありたいと思っていたのは確かです」
……ああ。
私は以前、この方が果たせなかった3階級制覇へ挑むと宣言した。
あのとき、ゼファーさんは驚きながらも、私を応援してくださった。東京の1600mと2000mなら練習に付き合うと、初めてお会いした日にも仰っていた。
その約束を、今までずっと守ってくださっていたのだ。
「……ありがとうございます。ゼファーさんには、随分とお世話になりました」
「ふふ。まだ、お別れには早いですよ」
「……そうですね」
思わず苦笑する。
私には天皇賞とマイルチャンピオンシップが残っているし、ゼファーさんも年度末までは指導を続けられるのだから。
「それに、まだ風は吹いています。天つ風に届くかどうか、見届けるまでは」
「ええ。ぜひ、最後までお付き合いください」
そう答えると、ゼファーさんは嬉しそうに頷いた。
しばし、3人でホットワインを飲む。
初めてこの部屋を訪れた日も、こうして同じ顔ぶれでカップを囲んでいた。
あの頃には想像もしていなかったところまで来たのだと、改めて思う。
「……さて、それではそろそろ失礼します」
残っていたホットワインを飲み干し、席を立った。
「明日からも予定どおりに進めていきましょう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「どうか、よい風を。セミラミスさん」
「ゼファーさんも」
扉を開け、廊下へ出る。
振り返れば、ゼファーさんがいつもの穏やかな笑顔で見送ってくださっていた。
初めて訪れた日には、あの方に迎え入れていただいた。
ふと思う。この後ゼファーさんはどうなさるつもりなのだろうか。
バックパック一つで世界を風まかせに放浪するか、あるいは山奥の一軒家で森の魔女と呼ばれる生活を送るのだろうか。
何しろ、あの上品な佇まいで台風の日に出かけようとするような、品のある野生児ともいうべきお人だから。
そんなことを考えながら、私はトレーナー室を後にした。
トレセン学園、美浦寮、自室。
「お姉ちゃん、緑の勝負服、クリーニングから戻ってきてたよ」
「ああ、ありがとうございます。秋の天皇賞に間に合ってよかったです」
「うん。じゃ、あたしもちょっと出かけてくるね」
「はい。いってらっしゃい」
レヨを見送り、届けられていた勝負服を衣装袋から取り出す。
深い緑の軍装を基調とした上衣に、金色のエポレット。
肩からは刺繍を施したケープが流れ、首元には青いスカーフが添えられている。
白いサッシュと剣帯は以前の勝負服から受け継いだ意匠で、裾の広がる白いスカートが軍服らしい硬さを和らげていた。
年度代表ウマ娘の褒賞として、新たに仕立てていただいた勝負服。
ロシア帝国のエカチェリーナ2世を主題に、ゼファーさんの風を取り入れた、私なりの「新たな挑戦と拡大」を表現した衣装だ。
初めてデザインをお願いしたときは、まだマイルを超える距離のレースに出走したことすらなかった
結局、春の宝塚記念では袖を通さずじまいだったが、今度こそ、この勝負服で2000mに挑むことになる。
専用クリーニングから戻ったばかりの生地には皺1つない。ケープの金糸も、照明を受けて柔らかく輝いていた。
さて、あとは装飾品を付け直さなければ。
スプリンターズステークスで着用した赤い勝負服からは、クリーニングに出す前にすべて取り外してある。
机の引き出しから小箱を取り出し、蓋を開けた。
まずは、優勝レイの色を模した略綬を並べたリボンバー。勝利を重ねるたびに増やしてきたものだが、今では3行5列と随分賑やかになった。
スプリンターズステークスの赤いリボンの上に輝くⅢのピンを軽く撫でる。
胸元の定位置へ留め、続けて3つの勲章を取り出す。
年度代表ウマ娘の受賞を記念してのものとグローバル・スプリント・チャレンジ制覇記念の2つは、父が手ずから誂えてくれた記念章。
もう1つは、カルティエ賞最優秀短距離ウマ娘の記念章だ。
こちらは先ほど取り付けた英国3連戦のリボンと同じく、……その、ベスおばあちゃんからいただいた品である。
一緒に添えられていたお手紙も、もちろん保管してある。……いや、あれは親書と呼ぶべきなのだろうか。
いずれも傷つけぬよう慎重に留める。
最後に全体の位置を整え、少し離れて眺めた。
うん。これでよし。
……いや、まだ1つ残っていた。
小箱の底に収められた、小さなメダル。
濃い緑を真鍮で縁取ったそれを、そっと手のひらに載せる。
アストンマーチャン。
かつて病院で、彼女から預かったものだ。
あの日、アスコットへ連れていってほしいと願われ、私は自分の白い襷にこれを取り付けた。
約束は果たした。
そして、もう二度と一緒に走れないかもしれないと思っていた彼女は、今では無事に復学している。
……そういえば、まだお返ししていなかったですね。
私自身も、そう遠くないうちに競走生活を終えるつもりだ。
ならば、そろそろ持ち主にお返しするべきだろう。
メダルを小箱へ戻し、蓋を閉じる。
明日にでも、マーチャンを訪ねてみようか。