驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
府中市内、とある喫茶店。
「改めまして、スプリンターズステークス3連覇、おめでとうございます。ぱちぱちぱち、なのです」
「ありがとうございます。マーチャンにそう言っていただけると、嬉しいですね」
向かいの席で、マーチャンがにこりと微笑んだ。
テーブルには紅茶と、季節の果物を使ったタルトが2皿。
窓から差し込む秋の日差しが白いテーブルクロスを明るく照らしている。
こうして2人でお茶を飲むのも、すっかり当たり前になった。
顔色も、そのふくよかさもずいぶんと元に戻った。
「ところで、今日はお返ししたいものがありまして」
「お返し、ですか? はてさて、何でしょう」
私は鞄から小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。
蓋を開けると、中には真鍮で縁取られた濃い緑のメダルが収まっている。
「以前、アスコットへ連れていってほしいと預かったものです。無事にお約束も果たせましたし、そろそろお返ししようかと」
マーチャンはメダルをじっと見つめた。
あの病室で、彼女が自分の勝負服から外して私に差し出したもの。
今度は私から、持ち主へ。
そう思って箱を押し出しかけたところで、マーチャンが小さく首を振った。
「その前に、ひとつお願いがあるのです」
「はい。何でしょう?」
「この子が、セミラミスと一緒に何を見てきたのか。旅のご報告を、改めてお願いしたいのです」
マーチャンは箱の中のメダルへ、そっと目を向けた。
「アスコットのことも、その後のことも。マーちゃんの知らない景色を、たくさん見てきたはずですから。ぜひぜひ、聞かせてください」
……なるほど。
このメダルが見てきた景色、か。
「そうですね。では、どこからお話ししましょうか」
私は差し出しかけた箱をテーブルに置き、紅茶を含んで口を湿らせる。
「まずは、英国ですね。キングズスタンドステークスから、ゴールデンジュビリーステークス、そしてジュライカップまで。3戦とも勝つことができました」
「はい。マーちゃんも、ばっちり見ていました。セミラミス、とっても速かったのです。びゅびゅーん、でした」
マーチャンが嬉しそうに頷く。
「ですが、テレビの向こう側と、実際にあの場所に立つのとでは、きっと別物なのでしょうね」
「ええ。特にアスコットは驚きました。観客の装いも華やかですし、レース場というよりお祭りのようでして」
思い返せば、あの遠征では随分と多くの人に出会った。
陛下……もといベスおばあちゃんとの謁見について話すと、マーチャンは目を丸くし、ベスおばあちゃんという呼び方にはくすくすと笑った。
私の騎士様にもよろしく、というのはまったくもって冗談ではなかったが。
現地で親しくなったウマ娘たちの名前を挙げれば、その後も交流が続いているのかと尋ねられる。
例えばゴルディ──ゴルディコヴァなどは、あれからマイルで頭角を現しG1・6勝。来月には米国で連覇のかかるBCマイルに出走するという。
あのツンデレ、私との併せのマイルで肉薄するだけの素質はあったんだなぁ。
「それで、肝心のレースですが……実は、あちらの芝は思っていた以上に手強かったのです」
「おや。芝、ですか?」
「はい。日本のレース場とは随分勝手が違いましたから。走り方も、随分と試行錯誤しました」
芝の硬さも起伏もレース場ごとに違う。実際に走ってみなければ分からないことが、いくつもあった。
「ですから、最初に走り終えたときは、ほっとした部分もありましたね。これなら走れる、と」
「ふふ。世界最速のセミラミスにも、どきどきする初めてがあったのですね」
「もちろんです。私だって初めての場所では緊張しますよ」
最初のキングズスタンドステークスは半ば追い切り代わりだったというのは、黙っていたほうがいいだろう。
もっとも、芝への不安は本当だった。慣れてしまえば、レース場ごとに異なる走り方を試すことさえ楽しくなっていたが。
「面白いものですね。最初は3戦とも勝って帰ることばかり考えていたのに、終わってみれば、もっとあちらで走ってみたくなっていたのですから」
「それは大変よきことなのです。もっと走りたい、は、マーちゃんにもよく分かります」
マーチャンは箱の中のメダルへ目を落とした。
「この子も、そんな景色を見てきたのですね」
「ええ。少なくとも、私が見たものは全部、一緒に見てくれたはずです」
そう答えると、マーチャンは満足そうに微笑んだ。
「なるほどなるほど。この子は、すっかりイギリス通になって帰ってきたのですね。マーちゃんよりも、ずっと物知りさんです」
「ふふ。そうなりますね。随分と物知りなメダルになってしまいました」
室内の照明にきらりと真鍮がまたたく。
「それから帰国して、スプリンターズステークスの連覇。そして香港スプリントですね」
「はい。どちらも、とっても立派な勝利です。マーちゃんからも、花丸を贈呈したいところなのです」
「ええ。私もそう思っていました。……いえ、今でもそう思っていますよ」
あのときのことを思い出す。
「スプリンターズステークスを連覇すれば、バクシンオーさんに並べると思っていたのです。実際、そのとおりになりました。けれど……」
「……けれど?」
「思っていたほど、嬉しくなかったのですよ」
マーチャンは何も言わず、続きを待っている。
「もちろん、勝てたことは嬉しかったのです。ただ、もっと満たされるものだと思っていました。それで、今度は香港です。日本のウマ娘がまだ勝ったことのない香港スプリントを制すれば、きっと今度こそ、と」
そうして、勝った。
世界の頂点に立ち、グローバルスプリントチャレンジも制した。
バクシンオーさんにも、涙ながらに喜んでいただけた。
「……それでも、足りなかったのですね」
「ええ。達成感も満足感もありました。けれど、その先に何を求めればよいのか、分からなくなってしまったのです」
バクシンオーさんに並ぶスプリンターズステークス連覇、日本ウマ娘未踏の香港制覇。
誇るべき成果だっただろう。でも。
「結局、私はまだ見たことのない景色を見たかったのでしょうね」
「まだ見ぬ景色……。ふむふむ、未知なる世界への旅路、ですね」
「ええ。幸い、ゼファーさんのおかげで、中距離という新しい世界が残っていることに気づけましたから」
勝てるかどうかも分からない、2000メートルという未知の距離。
けれど、そこへ踏み込めば、自分の脚がまだ知らない何かを見せてくれるかもしれない。
「ふふ。セミラミス、今、とっても楽しそうなお顔をしているのです」
「そうですか?」
「はい。にこにこ、なのです」
言われてみれば、自然と頬が緩んでいた。
「……そうですね。やはり、私は走ることが好きなのでしょう」
マーチャンが嬉しそうに頷く。
「それからも、色々ありました。そして、先日のスプリンターズステークスです」
「はい。めでたく3連覇です。マーちゃんも、テレビの前でぱちぱちしていました」
「ありがとうございます。今回は、少しばかり欲張ってしまいました」
思い出すのは、最後の直線。
目の前には、もう誰もいなかった。
「振り返ってみれば、勝つためだけなら、あそこまで走る必要はなかったのでしょうね」
「ですが、セミラミスは、まだまだ走っていました。ぐんぐん、でした」
「ええ。まだ脚が動きましたから。もっと速く走れる気がしたのですよ」
あの瞬間の感覚は、今も鮮明に残っている。
踏み込むたびに地面が後ろへ流れていく。
風を切り裂き、身体が前へと運ばれる。
まだ行ける。まだ速くなれる。そう思えば、自然と脚が動いた。
勝ち負けなど、もう考えていなかった。
ただ、自分の脚がどこまで応えてくれるのか、それを確かめたかった。
「そうして最後まで走ったら、1分6秒8。バクシンオーさんの記録まで破ってしまいました」
「ふふ。テレビのセミラミス、とっても嬉しそうでした。ゴールしたあとまで、にこにこです」
「ええ。本当に嬉しかったですよ。幼い頃から憧れていたあの日の速さに、ようやく自分の脚で届いたのですから」
……ああ、そういうことか。
ふと、いつぞやの金色の暴君の言葉を思い出す。
──真の王なれば、冠など自ずと捧げられるもの。自ら求むるなど、王の行いに非ず。
あのときは無冠のポニーちゃんが何を偉そうに、クラシック三冠ぐらい取ってから言え、と思ったものだが、今なら少し分かる気がする。
連覇も世界制覇も、誇るべき成果には違いない。
けれど、それを手に入れることで満たされようとしていた。
先日のスプリンターズステークスでは、ただ自分の望むままに走った。
心から満足できたうえに、3連覇も日本レコードも、その結果としてついてきた。
……悔しいが、あの金ピカの言葉にも一理あったのかもしれない。
「セミラミス」
「はい?」
「マーちゃんは、とっても嬉しいのです。この子がセミラミスと一緒に、こんなにたくさんの景色を見てこられたこと。思い出も、もりもりになったことでしょう」
「……ありがとうございます」
マーチャンは小さく微笑み、箱の中のメダルを見つめた。
「それで、セミラミスはどうなのでしょう。探していたもの、見つかりましたか?」
その問いに、私は頷いた。
「ええ。ようやく、見つけられました」
考えてみれば、随分と遠回りをしたものだ。
バクシンオーさんに憧れ、マーチャンを追いかけ、自分自身の走りを見つけた。
幾つもの栄光を求め、まだ見ぬ世界への挑戦に胸を躍らせた。
間違いだったとは思わない。けれど、今なら分かる。
「どれほど速く走れるのか。そして、その速さでどこまで往けるのか。結局、私はそれを知りたかったのでしょうね」
「……どこまで、ですか」
「ええ。速さについては先日ようやく納得できました。少なくとも、私が求めていたところまでは辿り着けましたから」
「ふむふむ。では、残るは……?」
「はい。2000メートルです」
マーチャンの視線が、私へと戻ってくる。
「今度の天皇賞で、この脚がどこまで走り続けられるのかを確かめます。勝てるのなら、それでよし。届かないのなら、そこが今の私の限界なのでしょう」
それでも、この脚でどんな景色が見られるのか、今から楽しみで仕方がなかった。
「ふふ。では、セミラミスの旅は、まだまだ続くのですね」
「ええ。もう少しだけ、続きます」
「……もう少しだけ、ですか」
マーチャンが小首を傾げる。
「もしやもしや。セミラミス、引退を考えているのです?」
「はい。今年のマイルチャンピオンシップを最後にしようかと」
「……なるほど。そういうことでしたか」
マーチャンはしばらく考え込んでから、テーブルの上の小さな箱へ目を向けた。
「この子は、まだセミラミスの最後の景色を見ていません。せっかくここまで一緒だったのですから、最後まで連れていってあげてほしいのです」
マーチャンが小さな箱を、こちらへそっと押し戻した。
私は箱と、マーチャンの顔を交互に見る。
「……よろしいのですか?」
「もちろんです。マーちゃんからのお願い、その第2弾なのです」
「ふふ。では、ありがたくお預かりしますね」
箱を引き寄せ、蓋を閉じる。
「それでは、秋の天皇賞にも連れていきましょう。今度は2000メートルですから、この子にとっても初めての景色ですね」
「はい。わくわくなのです」
マーチャンは満足そうに頷いた。
「それに、この子が見てきたものを、マーちゃんが覚えていれば」
「はい?」
「セミラミスの旅も、マーちゃんの思い出になります。とってもお得な、思い出の共有サービスなのです」
思わず笑ってしまった。
「なるほど。それはお得ですね」
「でしょう? ですから、どうかよろしくお願いします」
そう言って、マーチャンは小さく頭を下げた。
「セミラミス、今度はどこまで行くのでしょうね」
「さて。走ってみなければ分かりません」
「ふふ。それならマーちゃん、この子と一緒に、楽しみにしているのです」
私は小さな箱を、再び鞄へと収めた。
では往こうか。共に。旅の終わりまで