驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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211 3連覇の女主人とSilent letter

 府中市内、とある喫茶店。

 

 

「改めまして、スプリンターズステークス3連覇、おめでとうございます。ぱちぱちぱち、なのです」

「ありがとうございます。マーチャンにそう言っていただけると、嬉しいですね」

 

 向かいの席で、マーチャンがにこりと微笑んだ。

 

 テーブルには紅茶と、季節の果物を使ったタルトが2皿。

 窓から差し込む秋の日差しが白いテーブルクロスを明るく照らしている。

 

 こうして2人でお茶を飲むのも、すっかり当たり前になった。

 顔色も、そのふくよかさもずいぶんと元に戻った。

 

「ところで、今日はお返ししたいものがありまして」

「お返し、ですか? はてさて、何でしょう」

 

 私は鞄から小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。

 

 蓋を開けると、中には真鍮で縁取られた濃い緑のメダルが収まっている。

 

「以前、アスコットへ連れていってほしいと預かったものです。無事にお約束も果たせましたし、そろそろお返ししようかと」

 

 マーチャンはメダルをじっと見つめた。

 

 あの病室で、彼女が自分の勝負服から外して私に差し出したもの。

 

 今度は私から、持ち主へ。

 

 そう思って箱を押し出しかけたところで、マーチャンが小さく首を振った。

 

「その前に、ひとつお願いがあるのです」

「はい。何でしょう?」

「この子が、セミラミスと一緒に何を見てきたのか。旅のご報告を、改めてお願いしたいのです」

 

 マーチャンは箱の中のメダルへ、そっと目を向けた。

 

「アスコットのことも、その後のことも。マーちゃんの知らない景色を、たくさん見てきたはずですから。ぜひぜひ、聞かせてください」

 

 ……なるほど。

 

 このメダルが見てきた景色、か。

 

「そうですね。では、どこからお話ししましょうか」

 

 私は差し出しかけた箱をテーブルに置き、紅茶を含んで口を湿らせる。

 

「まずは、英国ですね。キングズスタンドステークスから、ゴールデンジュビリーステークス、そしてジュライカップまで。3戦とも勝つことができました」

「はい。マーちゃんも、ばっちり見ていました。セミラミス、とっても速かったのです。びゅびゅーん、でした」

 

 マーチャンが嬉しそうに頷く。

 

「ですが、テレビの向こう側と、実際にあの場所に立つのとでは、きっと別物なのでしょうね」

「ええ。特にアスコットは驚きました。観客の装いも華やかですし、レース場というよりお祭りのようでして」

 

 思い返せば、あの遠征では随分と多くの人に出会った。

 

 陛下……もといベスおばあちゃんとの謁見について話すと、マーチャンは目を丸くし、ベスおばあちゃんという呼び方にはくすくすと笑った。

 私の騎士様にもよろしく、というのはまったくもって冗談ではなかったが。

 

 現地で親しくなったウマ娘たちの名前を挙げれば、その後も交流が続いているのかと尋ねられる。

 例えばゴルディ──ゴルディコヴァなどは、あれからマイルで頭角を現しG1・6勝。来月には米国で連覇のかかるBCマイルに出走するという。

 あのツンデレ、私との併せのマイルで肉薄するだけの素質はあったんだなぁ。

 

「それで、肝心のレースですが……実は、あちらの芝は思っていた以上に手強かったのです」

「おや。芝、ですか?」

「はい。日本のレース場とは随分勝手が違いましたから。走り方も、随分と試行錯誤しました」

 

 芝の硬さも起伏もレース場ごとに違う。実際に走ってみなければ分からないことが、いくつもあった。

 

「ですから、最初に走り終えたときは、ほっとした部分もありましたね。これなら走れる、と」

「ふふ。世界最速のセミラミスにも、どきどきする初めてがあったのですね」

「もちろんです。私だって初めての場所では緊張しますよ」

 

 最初のキングズスタンドステークスは半ば追い切り代わりだったというのは、黙っていたほうがいいだろう。

 もっとも、芝への不安は本当だった。慣れてしまえば、レース場ごとに異なる走り方を試すことさえ楽しくなっていたが。

 

「面白いものですね。最初は3戦とも勝って帰ることばかり考えていたのに、終わってみれば、もっとあちらで走ってみたくなっていたのですから」

「それは大変よきことなのです。もっと走りたい、は、マーちゃんにもよく分かります」

 

 マーチャンは箱の中のメダルへ目を落とした。

 

「この子も、そんな景色を見てきたのですね」

「ええ。少なくとも、私が見たものは全部、一緒に見てくれたはずです」

 

 そう答えると、マーチャンは満足そうに微笑んだ。

 

「なるほどなるほど。この子は、すっかりイギリス通になって帰ってきたのですね。マーちゃんよりも、ずっと物知りさんです」

「ふふ。そうなりますね。随分と物知りなメダルになってしまいました」

 

 室内の照明にきらりと真鍮がまたたく。

 

「それから帰国して、スプリンターズステークスの連覇。そして香港スプリントですね」

「はい。どちらも、とっても立派な勝利です。マーちゃんからも、花丸を贈呈したいところなのです」

「ええ。私もそう思っていました。……いえ、今でもそう思っていますよ」

 

 あのときのことを思い出す。

 

「スプリンターズステークスを連覇すれば、バクシンオーさんに並べると思っていたのです。実際、そのとおりになりました。けれど……」

「……けれど?」

「思っていたほど、嬉しくなかったのですよ」

 

 マーチャンは何も言わず、続きを待っている。

 

「もちろん、勝てたことは嬉しかったのです。ただ、もっと満たされるものだと思っていました。それで、今度は香港です。日本のウマ娘がまだ勝ったことのない香港スプリントを制すれば、きっと今度こそ、と」

 

 そうして、勝った。

 世界の頂点に立ち、グローバルスプリントチャレンジも制した。

 バクシンオーさんにも、涙ながらに喜んでいただけた。

 

「……それでも、足りなかったのですね」

「ええ。達成感も満足感もありました。けれど、その先に何を求めればよいのか、分からなくなってしまったのです」

 

 バクシンオーさんに並ぶスプリンターズステークス連覇、日本ウマ娘未踏の香港制覇。

 誇るべき成果だっただろう。でも。

 

「結局、私はまだ見たことのない景色を見たかったのでしょうね」

「まだ見ぬ景色……。ふむふむ、未知なる世界への旅路、ですね」

「ええ。幸い、ゼファーさんのおかげで、中距離という新しい世界が残っていることに気づけましたから」

 

 勝てるかどうかも分からない、2000メートルという未知の距離。

 けれど、そこへ踏み込めば、自分の脚がまだ知らない何かを見せてくれるかもしれない。

 

「ふふ。セミラミス、今、とっても楽しそうなお顔をしているのです」

「そうですか?」

「はい。にこにこ、なのです」

 

 言われてみれば、自然と頬が緩んでいた。

 

「……そうですね。やはり、私は走ることが好きなのでしょう」

 

 マーチャンが嬉しそうに頷く。

 

「それからも、色々ありました。そして、先日のスプリンターズステークスです」

「はい。めでたく3連覇です。マーちゃんも、テレビの前でぱちぱちしていました」

「ありがとうございます。今回は、少しばかり欲張ってしまいました」

 

 思い出すのは、最後の直線。

 目の前には、もう誰もいなかった。

 

「振り返ってみれば、勝つためだけなら、あそこまで走る必要はなかったのでしょうね」

「ですが、セミラミスは、まだまだ走っていました。ぐんぐん、でした」

「ええ。まだ脚が動きましたから。もっと速く走れる気がしたのですよ」

 

 あの瞬間の感覚は、今も鮮明に残っている。

 

 踏み込むたびに地面が後ろへ流れていく。

 風を切り裂き、身体が前へと運ばれる。

 まだ行ける。まだ速くなれる。そう思えば、自然と脚が動いた。

 

 勝ち負けなど、もう考えていなかった。

 ただ、自分の脚がどこまで応えてくれるのか、それを確かめたかった。

 

「そうして最後まで走ったら、1分6秒8。バクシンオーさんの記録まで破ってしまいました」

「ふふ。テレビのセミラミス、とっても嬉しそうでした。ゴールしたあとまで、にこにこです」

「ええ。本当に嬉しかったですよ。幼い頃から憧れていたあの日の速さに、ようやく自分の脚で届いたのですから」

 

 ……ああ、そういうことか。

 

 ふと、いつぞやの金色の暴君の言葉を思い出す。

 

 ──真の王なれば、冠など自ずと捧げられるもの。自ら求むるなど、王の行いに非ず。

 

 あのときは無冠のポニーちゃんが何を偉そうに、クラシック三冠ぐらい取ってから言え、と思ったものだが、今なら少し分かる気がする。

 

 連覇も世界制覇も、誇るべき成果には違いない。

 けれど、それを手に入れることで満たされようとしていた。

 

 先日のスプリンターズステークスでは、ただ自分の望むままに走った。

 心から満足できたうえに、3連覇も日本レコードも、その結果としてついてきた。

 

 ……悔しいが、あの金ピカの言葉にも一理あったのかもしれない。

 

「セミラミス」

「はい?」

「マーちゃんは、とっても嬉しいのです。この子がセミラミスと一緒に、こんなにたくさんの景色を見てこられたこと。思い出も、もりもりになったことでしょう」

「……ありがとうございます」

 

 マーチャンは小さく微笑み、箱の中のメダルを見つめた。

 

「それで、セミラミスはどうなのでしょう。探していたもの、見つかりましたか?」

 

 その問いに、私は頷いた。

 

「ええ。ようやく、見つけられました」

 

 考えてみれば、随分と遠回りをしたものだ。

 

 バクシンオーさんに憧れ、マーチャンを追いかけ、自分自身の走りを見つけた。

 幾つもの栄光を求め、まだ見ぬ世界への挑戦に胸を躍らせた。

 

 間違いだったとは思わない。けれど、今なら分かる。

 

「どれほど速く走れるのか。そして、その速さでどこまで往けるのか。結局、私はそれを知りたかったのでしょうね」

「……どこまで、ですか」

「ええ。速さについては先日ようやく納得できました。少なくとも、私が求めていたところまでは辿り着けましたから」

「ふむふむ。では、残るは……?」

「はい。2000メートルです」

 

 マーチャンの視線が、私へと戻ってくる。

 

「今度の天皇賞で、この脚がどこまで走り続けられるのかを確かめます。勝てるのなら、それでよし。届かないのなら、そこが今の私の限界なのでしょう」

 

 それでも、この脚でどんな景色が見られるのか、今から楽しみで仕方がなかった。

 

「ふふ。では、セミラミスの旅は、まだまだ続くのですね」

「ええ。もう少しだけ、続きます」

「……もう少しだけ、ですか」

 

 マーチャンが小首を傾げる。

 

「もしやもしや。セミラミス、引退を考えているのです?」

「はい。今年のマイルチャンピオンシップを最後にしようかと」

「……なるほど。そういうことでしたか」

 

 マーチャンはしばらく考え込んでから、テーブルの上の小さな箱へ目を向けた。

 

「この子は、まだセミラミスの最後の景色を見ていません。せっかくここまで一緒だったのですから、最後まで連れていってあげてほしいのです」

 

 マーチャンが小さな箱を、こちらへそっと押し戻した。

 

 私は箱と、マーチャンの顔を交互に見る。

 

「……よろしいのですか?」

「もちろんです。マーちゃんからのお願い、その第2弾なのです」

「ふふ。では、ありがたくお預かりしますね」

 

 箱を引き寄せ、蓋を閉じる。

 

「それでは、秋の天皇賞にも連れていきましょう。今度は2000メートルですから、この子にとっても初めての景色ですね」

「はい。わくわくなのです」

 

 マーチャンは満足そうに頷いた。

 

「それに、この子が見てきたものを、マーちゃんが覚えていれば」

「はい?」

「セミラミスの旅も、マーちゃんの思い出になります。とってもお得な、思い出の共有サービスなのです」

 

 思わず笑ってしまった。

 

「なるほど。それはお得ですね」

「でしょう? ですから、どうかよろしくお願いします」

 

 そう言って、マーチャンは小さく頭を下げた。

 

「セミラミス、今度はどこまで行くのでしょうね」

「さて。走ってみなければ分かりません」

「ふふ。それならマーちゃん、この子と一緒に、楽しみにしているのです」

 

 私は小さな箱を、再び鞄へと収めた。

 では往こうか。共に。旅の終わりまで




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