驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”チームルーム。
天皇賞(秋)まであと数日。
私とトレーナーさんは、指導ウマ娘のゼファーさんから最後の調整について報告を受けていた。
「結論から申し上げます。セミラミスさんの走りは、既に実戦で通用する水準に達しています」
ゼファーさんは机上に広げた練習記録へ視線を落とし、静かに続けた。
「予定している一連の走りについても、十分な再現性が確認できました。あとは当日の風向き次第……ですが、少なくとも、私から申し上げるべき課題はもうありません」
「ありがとうございます、ゼファーさん。長い間、お世話になりました」
「いいえ。私も、実り多い時間を過ごさせていただきました」
微笑みを交わしたところで、トレーナーさんが口を開いた。
「ゼファーもありがとうございました。ここから先は、私たちで最終確認を行います」
「……そう、ですか」
ゼファーさんは一度トレーナーさんを見つめ、それから小さく頷いた。
「承知しました」
そう答えた彼女は、席を立つと私へと向き直った。
「セミラミスさん。どうか、あなたの望む風を。西風は晴嵐とともにありますから」
「はい。ありがとうございます」
もう一度微笑んでゼファーさんは部屋をあとにした。
扉が静かに閉まる。
私は向かいに座るトレーナーさんへ視線を戻した。
「では、始めましょうか」
「ええ。もっとも、今さら新しく決めることもありませんが」
トレーナーさんは頷き、手元のタブレットを操作した。
「そうですね。必要な調整はすべて終わりました。ゼファーからも太鼓判をいただきましたし、今日は予定している戦術と、その成立条件を最後に確認しておきましょう」
机上のモニターに、東京レース場のコース図と数字が並ぶ。
府中2000m、私にとっては未知の距離。
「まず、全体の目標タイムは1分57秒1」
「はい。レースレコードですね」
天皇賞(秋)のレースレコードは1分57秒2。
その記録を0.1秒上回ることを目標に、これまで練習を重ねてきた。
レコードさえ上回れば勝てる、などというナイーヴな考えは捨てろ。
そんなことはあのハゲに言われるまでもなくわかっている。
スワンステークス1400m、ノースフライトはケイエスミラクルのレコードを0.5秒上回った。
マイルチャンピオンシップ1600m、サクラバクシンオーはダイタクヘリオスのレコードを0.1秒上回った。
にもかかわらず勝てなかった。理由は簡単だ。
その1バ身先に、お互いが居たからだ。
というか何なら同じことを以前セントウルステークスでサンアディユさん相手にやった覚えがある。
「ですが、相手のことを考えればそれくらいは必要でしょう」
「はい、なにせそのレコードは去年のウオッカのものですから」
その前のレコードは確かシンボリクリスエスさんとスペシャルウィークさんの58秒ちょうど。
ウオッカにはそれを0.8秒更新するだけの力がある。すなわち、少なくとも私はそれを上回らねば勝てない。
では思い出のあの日、2着のビコーペガサスは昨年覇者より0.1秒早く走ったから勝てたかと言えば、そんなことはないのだが。
だからこそ、ここまでの無茶を通さねばならない。
府中のコース図を見下ろす。
2コーナーのポケットから発走したあと、向正面を抜けて3コーナーに入ったところが1000m。
そこから4コーナーの出口付近までが400m。そして最終直線が525m。
「想定タイムは最初の1000mを57秒半。そこから2ハロン400mを12秒8ずつまで落として息を入れる。そして最後の600mを34秒ちょうど。合計で1分57秒1です」
何度も見返してきた数字だった。
そして、おおよそ正気ではない。
まず問題となるのは前半1000mを57秒半、1ハロン11.5秒ペースで走ることだ。
このペースで前半を走り、最後まで保たせることができたウマ娘はこれまでいなかった。
中距離ウマ娘にとってはほぼ自殺行為と言うべきハイペースである。
過去に数例ないわけではないが、いずれも着外に沈んでいる。マイラーのヘリオスさんはともかく、スタミナ自慢のはずのメジロパーマーさんですら、だ。
だが、私にとっては違う。
「1000m57秒台はおおむねいつもの調子ですからね」
「そうですね。ただし、安田記念1600mの、ですが」
そう。であるがゆえに、ここで息を入れる必要がある。
トレーナーさんはコース図の1000m地点、3コーナーに入ったところを指した。
「ここから400m。今回の作戦で最も重要な区間です」
「ええ。そこで休めなければ最後まで走り切れませんから」
3コーナーから4コーナーにかけての400mを、持久力の温存のために使う。
「そして残り600mから再加速し、4コーナーを抜けたら、あとはゴールまで一直線」
「まさしくそれこそが難しいのですがね」
そう。意外に思うかもしれないが、人間は、ただ真っすぐ走ることさえ訓練なしには難しい。ヒトもウマ娘もだ。
特に疲労が溜まってしまえば。
メジャーさんやスカーレットとの夏合宿での特訓は、まさにこの最後の直線で正しく走るためであった。
「さて、走り方についてはこれでよいでしょう。問題は、他の皆さんがどう走るかですね」
「ええ。いくら予定どおりに走れても、途中で捕まってしまっては意味がありませんから」
トレーナーさんは画面を切り替え、過去の天皇賞(秋)のラップタイムを表示した。
「では、まず前半1000mについて確認しましょう。なぜ58秒台ではなく、57秒半なのか」
「理由は2つあります。まず、私自身にとって最も走りやすい速度だからです」
1ハロン11.5秒前後。
これが私にとって最も自然な速度だった。
無理に加速する必要も、逆に速度を抑え込む必要もない。脚の運びも呼吸も、余計なことを考えずに済む。
もちろん、そのまま2000mを走り切れるという意味ではないが。
けれど59秒台に抑えようとしても、私にはかえって難しい。
多少遅く走れるようになったからといって、長い距離を我慢し続けられるわけでもないのだ。
そしてそれは春の中山記念で思い知ったことでもある。
「そして、もう1つ」
「後続の皆さんに、追いかけるのを諦めてもらうためですね」
「はい」
トレーナーさんは頷いた。
「58秒台なら先行するウマ娘たちが追走を選ぶ可能性があります。そうなれば、後続も自然と速い流れに引き込まれるでしょう」
「去年のような展開になっては困りますからね」
それでは何も変わらない。
私自身が2000mを走り切れたとしても、最後にはウオッカたちとの末脚勝負になる。
そこに持ち込まれれば距離の長い分だけ私が不利、というかマイルですら勝てていないのにどうすればいいのだ。
「今年、前に行くと考えられるのはエイシンデピュティさんやマツリダゴッホさん。それにキャプテントゥーレさんでしょうか」
「ええ。いずれも前へ行けるウマ娘ですが、何が何でも先頭を譲らないというタイプではありません」
画面にそれぞれの過去の通過順位が表示される。
もちろん、だからといって必ず控えてくれるとは限らない。
まして、私が前へ行くことを承知していれば最初から追走するつもりでいる可能性もある。
それでも、前半1000mを57秒半で走るスプリンターを見たら、どう考えるだろうか。
2000mを走るつもりがあるのか、と。
あんな暴走保つわけがない、と。
そう考えてくれるのではなかろうか。
「例年程度のペースで運んでくだされば、1000m地点で2秒ほどの差がつきます」
「おおむね10バ身ですね」
「ええ。それだけ離れれば、ウオッカたちの視線も、目の前の集団へ向かうでしょう」
もちろん、見えなくなるわけではない。
それでもクリスエスさん曰く、中団からでは相当に前が見づらい。
なら、目の前の相手と、遥か前方で勝手に飛ばしているスプリンター。どちらを基準に走るかといえば普通は前者だ。
私が勝手に潰れると思ってくれれば、なおよい。
「欲を言えば、先行集団には少し遅めに走っていただきたいところですが」
「そればかりは相手次第ですね」
「ええ。あくまで期待です」
後続の速度を決めるのは私ではない。
ただ、速すぎる相手を無理に追わないという判断は何ら不合理ではない。むしろ、そのほうが賢明ですらある。
というか前方脚質が、差しの決まりやすい府中でハイペースを志向するのはあまり考えられない。
「では、追ってこられた場合は?」
「困りますね。大変に」
思わず苦笑する。
前半から競りかけられれば、予定以上の消耗を強いられる。
仮に57秒半を守れたとしても、後続が58秒台でついてくれば十分な差を作れない。
そして1000mからの400m。私が12秒8まで落としている間に、相手はそのまま前へ出てしまうだろう。
「そうなると、この作戦を採用する意味がありません」
「ええ。ですから、今回は相手関係にも恵まれています」
トレーナーさんの言葉に、私はある顔を思い浮かべた。
栗毛の大きなツインテール。ついぞあの桜花賞が最後だった彼女。
「……スカーレットがいたら、まず無理でしたね」
「そう思います」
スカーレットなら、私がどれほど速く飛び出そうと簡単には先頭を譲ってくれまい。
むしろスプリンターのこの私が出足のみで言えば勝てるかどうかわからない相手だ。
そもそも自分が一番でなければ気が済まないスカーレットは、前を走る相手を放っておける性分ではない。
まして私が相手ならなおさらである。
競り合うことになれば最初の1000mで余計な脚を使い、競り合わずに済んだとしても、400mの休息区間で抜かれる。
そのとき、私が予定どおりの速度を守れるかどうかも怪しい。
「幸いと言ってよいものか、スカーレットは既に引退していますから」
「勝負の世界ですからね。出走者が違えば、取れる戦術も変わります」
私は頷いた。
去年と今年では、相手が違う。そして、今年だからこそ試せる方法がある。
……皮肉なものだ。あれだけショックだった彼女の引退が、この戦法を成立させる条件の1つになっている。
それでいて、彼女に指導してもらえたからこそ、最後の直線を走り切る目処も立った。
そして私は今、彼女の思いを胸に秋天へ向かおうとしているのだから。
「次に、1000m地点からの減速です」
トレーナーさんがコース図の3コーナーから4コーナーにかけてをなぞった。
「ここで後続がどう判断するか。これも重要になります」
「スプリンターがとうとう失速した、と思ってくださるとありがたいのですが」
「そううまくいけばよいですね」
無論、私が速度を落としたからといって、後続まで落としてくれるとは限らない。
それでも、最初から追うつもりのなかった相手が予想どおり失速し始めたなら、わざわざ自分たちのペースを崩す必要はない。
その間に、私は息を入れる。
そして、再び加速する。
「もっとも、ウオッカやカンパニーさん、レヨが早めに動けば、また話は変わります」
「はい。その場合、こちらにできることは限られます」
途中から追われれば、休息を短く切り上げるか、予定どおり休んで差を詰められるか。どちらにせよ苦しい。
一応、迫られても動じない訓練はゼファーさんにみっちりとつけてもらったが。
そして、最後の600mを予定どおり走れたところで、必ず勝てるわけでもない。
ウオッカの末脚は、私自身が嫌というほど知っている。
「それでも、勝機はあります」
「ええ。少なくとも、普通に2000mを走るよりは」
トレーナーさんは小さく頷き、再びコース図を表示した。
「最後に、スタート地点について確認しておきましょう」
指し示されたのは、2コーナーのポケットだった。
東京2000mは、発走して間もなく左へ曲がる。
外枠から内側の最短経路へ入ろうとすれば、どうしても余計な距離を走るか、先手を取るために脚を使うことになる。
「外枠では最初から計画が狂いかねませんね」
「ええ。速く走れることと、無駄なく走れることは別ですから」
私が57秒半で走れるとしても、それは無制限に速く走れるという意味ではない。
外から強引に先頭を奪えば余計な負荷がかかる。かといって、外を回ったまま走れば距離のロスが生じる。
いずれも、ぎりぎりの計算で組み立てた今回の作戦には好ましくない。
「できれば内枠。それも、なるべく内がよいですね」
「そうですね。あとはこの後の枠順発表を待つしかありません」
ここまでにできる準備は、すべて終えた。
あとは、自分たちでは決められない条件がどうなるか。
私はモニターに映る東京レース場のコース図をもう一度見下ろした。
そして、待ちに待った枠順発表の時間。
私はチームルームの端末に陣取り、URAの公式サイトを開いていた。
更新ボタンを1秒に16回叩きながら、その時を待つ。
まだか。まだなのか。
トレーナーさんには落ち着くように言われたが、こればかりは仕方がない。
これまで積み重ねてきた準備も、練り上げた作戦も、たった1つの数字で台無しになりかねないのだから。
そして、ついに画面が切り替わった。
表示されたのは、天皇賞(秋)の枠順表。
私は反射的にスクロールしようとして、その必要がないことに気づいた。
一番上。
そこに、見慣れた自分の名前があった。
溜めていた息が、ゆっくりと胸から漏れる。
ああ、これぞ、まさしく。
そうとしかいいようがない。 そう確信するより他になかった。
18分の1。無論、どの枠も等しく望ましいわけではない。
けれど、その中で最も欲しかった場所を、よりにもよって引き当てたのだ。
思わず笑みがこぼれる。
「──天佑だ」
1枠1番、ノルデンセミラミス。
11月1日、運命の天皇賞(秋)は、あと2日に迫っていた。