驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
東京レース場、重賞用控室。
11月1日。
天皇賞(秋)の発走を数時間後に控え、私はトレーナーさんと最後の打ち合わせを行っていた。
「体調はいかがですか?」
「万全です。脚も軽いですし、疲労も残っていません」
「それは何よりです。ここまでの調整も、予定どおりに進みましたからね」
トレーナーさんは手元のタブレットに目を落とし、満足そうに頷いた。
既に作戦は決まっている。今さら変更することもなければ、新たに確認するようなこともない。
そして天気は晴れ、バ場は良。
私たちができる準備はすべて終わっていたし、今や作戦を阻む外的要因は一つもない。
あとは他のウマ娘がどう出てくるかと、私がどう走るかのみにかかっている。
「それにしても、ずいぶんと楽しそうですね」
「そう見えますか?」
「ええ。先ほどから尻尾が落ち着いていませんよ」
言われて振り返れば、確かに尻尾の先が左右に揺れていた。
思わずその根本を両手で掴む。
どうやら、知らず知らずのうちに機嫌のよさが表に出ていたらしい。
「……お恥ずかしい限りです」
「別に恥ずかしがることではありませんよ」
「そうでしょうか。何しろ、まだ勝ったわけでもありませんのに」
「それはそうですが、楽しみにしていたのでしょう?」
「はい。それはもう」
思わず笑みがこぼれる。
半年以上を費やして準備を整え、最内枠という望み得る最高の枠まで引き当てた。
あとは走るだけだ。
しかも相手は、ウオッカをはじめとする錚々たる強豪たち。これで胸が躍らないはずがない。
「では、最後に1つだけ」
トレーナーさんが書類を置いた。
「万が一、脚に異常を感じた場合は、直ちに競走を中止してください。決して無理に走り続けようとはしないこと」
「はい」
「それから、もし転倒するようなことがあれば、まず頭を守ること。受け身を取る際にも、頭部への衝撃は可能な限り避けてください」
私は思わず首を傾げた。今更何を言うのか。
そのための勝負服内部のインナーに仕込まれた金属と樹脂のプロテクターであり、幼児や小学生の頃から義務付けられた
「トレーナーさん。それは今や常識です。スクールのとねっこですら習うことですよ」
「……そう、でしたね」
トレーナーさんは小さく頷いた。
いつもなら、何か一言くらい返してきそうなところなのだが。
その視線は、私ではなく、机の上に置かれた出走表へと向けられていた。
「トレーナーさん?」
「ああ、いえ。失礼しました。少々、余計なことを言ってしまいましたね」
私も年を取ってしまいました。
そう続けて、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「ですが、念のためです。約束していただけますか?」
「もちろんです。学園を出た後の人生のほうが長いのですから」
勝負は好きだ。負けるのは嫌いだ。
けれど、勝つために自分の身体を壊してしまっては元も子もない。かつてトレーナーさんがそう言ったように。
そもそも、私たちがこれほどの時間を費やしてきたのは、勝ってこのレースを無事に終えるためである。
「……ありがとうございます」
トレーナーさんはそう答えると、立ち上がった。
「それでは、そろそろ支度をしましょうか」
「はい」
私も立ち上がり、椅子の背に掛けていた勝負服の上着を手に取る。
いよいよだ。
今日こそ、私が2000mを走る日が来た。
東京レース場、パドック。
秋晴れの空の下、観客席から絶え間なく歓声が降り注いでいた。
天皇賞(秋)。
国内有数の大舞台だけあって、パドックを取り囲む人の数も向けられる視線の熱量も相当なものだ。
私は観客席へ軽く手を振りながら、いつものようにレース前のルーティーンを続けていた。
今日は1番だったので最初にステージでのアピールは終わってしまった。
向かいの電光掲示板を見る。
本日の私は2番人気、先程の時点で4.2倍。
2000m以上で実績ゼロのウマ娘にしては人気と見るべきか、G1・15勝がたった4倍と見るべきか。
少し前方にはウオッカ。そのさらに先にはカンパニーさんがいる。
レヨの姿も見える。今日は随分と気合いが入っているようで、先ほどから何度かこちらを窺っていた。
そのほかにも、ドch……ドリームジャーニーさん、スクリーンヒーローさん、オウケンブルースリさん。
改めて見れば実に豪華な顔ぶれだ。
その中で誰が勝つのか。
無論、私は私だと思っているし、他の皆さんも同じことを考えているのだろう。
やがて周回を終え、地下バ道へ向かう。
「よう、セミラミス」
背後から声をかけられた。
振り向けば、ウオッカがこちらへ歩いてくるところだった。
「調子はいかがです?」
「最高だぜ。お前こそ、今日は随分と余裕そうじゃねえか」
「そう見えますか?」
「ああ。初めての2000mだってのに、いつもと変わんねえな」
ウオッカは楽しそうに笑った。
「しかし、お前が秋天まで来るとはな。春はマイルで散々やり合ったけど、今度は2000mだ」
「ええ。お手柔らかにお願いしますね」
「言ってろ。今回は去年の覇者として迎え撃つ側なんだからな」
そう言って、彼女は私をまっすぐ見据えた。
「今日も勝つぜ、セミラミス。春と同じようにな」
「……それは、困りましたね」
思わず笑みがこぼれる。
まったく、相変わらず格好いいことを言う。
そして、その言葉に見合うだけの実力があることも、私は誰よりよく知っていた。
「私も負けるつもりはありませんよ」
「おう。そうこなくっちゃな!」
互いに拳を突き出し、空中で合わせる仕草をした。彼女は満足そうに笑い、先へと歩いていく。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
けれど、ウオッカ。
今日はあなたとは戦わない。
府中では、今のウオッカに勝てない。
1600mですら春に2度も敗れたのだ。
まして今回は2000m。
普通に走って、最後の直線で末脚を競ったところで、勝ち目は無い。
だから、今日はあなたとはレースをしてあげない。
あなたが誰を警戒し、どこで仕掛け、どんな末脚を繰り出そうとも。
その勝負の外側を、私は走る。
もちろん、それが最後まで許されるかどうかは分からない。
けれど、だからこそ面白いのではないか。
『そして2番人気、ノルデンセミラミス! 前走スプリンターズステークスを圧勝した2つの距離の女主人が、今度は未知の距離2000mに挑みます!』
地下バ道から抜けると、視界が一気に開けた。
ターフの緑と、埋め尽くされた観客席。
耳を打つ大歓声に、自然と胸が高鳴る。
軽く返しウマを済ませ、発走地点へと向かう。
1コーナー付近のポケット、私がこれまで縁のなかった発走位置だ。
1枠1番。
私が望み、そして引き当てた最内枠。
返しウマを済ませ、発走地点近くでしばし待機する。
やがて、場内に高らかな金管の音が響いた。
関東G1のファンファーレだ。
たちまち観客席から手拍子が沸き起こり、最後の音が消えると同時に、大きな歓声がレース場を包んだ。
係員の誘導に従い、最も内側のゲートへ進む。
いつものように一歩ずつ中へ入り、足元を確かめた。
隣にも、その向こうにも、次々と出走者たちが収まっていく。
背後では係員たちの声が交わされ、やがてそれも静かになった。
あとは、走るだけ。
前を見据え、呼吸を整える。
何度も繰り返してきたことだ。特別なことなど何もない。
ただ、今日は少しばかり長く走る。それだけである。
私は耳を立て、目の前の扉に意識を集中させた。
そして、ゲートが開いた。