驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
ゲートが開いた。
地面を蹴って飛び出し、最初のコーナーへ向けて加速する。
スタートは上々。最内から先頭に立ち、短いカーブを抜ける頃には気持ちのよい速度に乗っていた。
うん。いつもどおり。
背後から聞こえていた蹄音は少しずつ遠ざかり、誰かが並びかけてくる気配もない。
エイシンデピュティさんたちは、どうやら付き合ってくれないらしい。
それならそれで結構。
無理に追いかけてこられても困るけれど、競り合いになればこちらも譲るつもりはない。
ただ、今日はその必要もなさそうだ。
視線を前へ戻す。
脚はよく動く。呼吸も安定している。無理に速度を上げる必要も、逆に抑える必要もない。
これまで何度となく繰り返してきた走り方だ。
先頭に立って自分の速度で走る。誰にも邪魔されず、ただ前へ進む。
それだけが、先頭に立っていることだけがいつもと違う。
こんな序盤から先頭に立つのはメイクデビュー以来か。
あの時は、誰も私の走りについて来られなかった。
でも今日は違う。
誰も付いてこようとしない。それこそが狙いなのだ。
コーナーを抜けて向正面へ。
風が吹き付ける。
ゼファーさんをイメージした勝負服の裾がたなびく。
聞こえるのはターフを蹴る音と風の音と己の呼吸だけ。
先頭の景色というのは、こんなに孤独なものなのか。
ただ脚の望むままに、命ずるままに前へ。
後続はついてきていない。
まもなく1000mの標識。
ここまでの感覚は悪くない。予定していた速度からも大きく外れてはいないはずだ。
標識を通過する。
安田記念ならいよいよコーナーを抜けるところ。
いつもならここからが勝負だが、今日もある意味ではここからだ。
下り坂に差し掛かったところで脚を緩める。
さあ、400m。
ここからが我慢だ。
歩幅を狭める。脚の回転を落とし、意識して速度を緩めていく。
途端に身体が前へ出ようとした。
……いけない。
速く走ることは簡単だ。今だって脚はよく動くし、もっと速度を上げたいと訴えている。
けれど、今はそれをしてはいけない。
12秒8。
200mをその速さで、2回。
夏合宿でゼファーさんに散々付き合っていただいた練習だ。
最初は随分と苦労したものだった。速度を落とすこと自体は難しくない。しかし、落とした速度を維持しようとすると、どうしても脚が速くなってしまう。
少し気を抜けば歩幅が広がり、意識して抑えれば今度は余計なところに力が入る。
それでは脚を休めることにならない。
ゼファーさんには何度も注意された。速さを抑えるのではなく、走りを整えるのだと。
肩から力を抜く。上体を安定させ、接地の感覚を確かめる。
歩幅と回転を合わせる。
吸って、吐いて。
呼吸の深さを取り戻す。
……うん。悪くない。
気持ちのよさでは先ほどまでの走りに遠く及ばないけれど、身体は練習どおりに動いてくれている。
これなら大丈夫だ。
3コーナーを過ぎる。
背後から聞こえる蹄音が、少しずつ大きくなってきた。
当然だ。こちらは速度を落としているのだから。
むしろ後続が追いついてこなければおかしい。
そう分かっていても、背後の気配が強くなるにつれて、つい脚に力が入りかける。
……駄目だ。
抜かれそうになったら追いかける。
競走ウマ娘としては当たり前のことだし、これまでの私もそうしてきた。
夏合宿でも同じだった。
ゼファーさんに横を抜けられると、時計を守っているつもりでも接地が強くなる。蹄音が近づくだけで、知らず知らずのうちに脚の回転が速くなっていた。
自分では意識していなかった癖まで、あの人にはすっかり見抜かれてしまった。
だから何度も繰り返したのだ。
抜かれても追わない。蹄音が近づいても速度を変えない。
相手の動きを知ることと、相手に動かされることは違う。
セイウンスカイさんにも教わったことだ。
今は私のレースをする。
誰が追ってこようと、この400mだけは譲れない。
なにも1000m我慢しようってんじゃない。
再び呼吸を整える。
脚には前半1000mの疲労が残っている。いくら走り慣れた速度とはいえ、あれだけ飛ばして何の負担もないはずがない。
この400mで回復できるものには限りがある。
それでも、ここで無駄な力を使わなければ、最後に使える脚を少しでも多く残せる。
背後の蹄音がさらに近づいた。どこまで差が縮まったのだろう。
計算通りなら10バ身ほど離したはずだが、今はもうそこまでの余裕はなさそうだ。
もっとも、振り返ったところで正確なことなど分かるまい。
それに、今さら確かめても仕方がない。
もう少し。
あと少しだけ。
脚を前へ運ぶ。速くなりすぎないよう、接地を確かめる。
呼吸はずいぶん落ち着いてきた。
脚の重さも、これ以上はどうにもならないだろう。
4コーナーを回る。
そろそろだ。
後ろから迫る蹄音が気になる。
想定より近いのかもしれない。誰かが早めに仕掛けている可能性だってある。
それでも、まだ並ばれてはいない。
ならば十分。
ここまで我慢したのだから、あと少しで台無しにするわけにはいかない。
4コーナー出口が近づいてくる。
長い直線が、少しずつ視界に開けていく。
400m。予定していた休息は、これで終わり。
肩の力を抜いたまま、今度は意識して歩幅を広げる。
脚の回転を上げる。
抑え続けていた身体が、待ちかねたように前へ出た。
……ああ。
やっぱり、こっちのほうがいい。
けれど、最初の1000mとは違う。脚は重い。呼吸も再び速くなる。
それでも構わない。
ここから先は、もう休まない。
東京の長い直線を見据え、私は再び加速した。
借り物の、
……保ってくれよ。
その瞬間、ターフも、ラチも、観客席も、すべてが溶けるように消える。
入れ替わるように現れたのは、はるかなる海原。
主の居ない丸木筏の上に私は立っていた。
……わかっている。多分、これに意味などない。
これは、ここ府中の2000mで使える走りじゃない。
それでも入口だけは教えてくれたのだ。感謝しなくては。
潮風が吹き抜ける。
足元の筏が揺れ、私はその上で姿勢を整えた。
腰に佩いた
……わかっている。これも、意味はない。
番手より後ろから終盤に競りかけていく、私のいつもの走りとは程遠い。
それでも、私の走りはきっと繋がっている。
ですから、お借り申し受けます。
振り下ろした刃の先に、水平線が広がった。
海と空の境が曖昧になる。
足元の筏が遠ざかり、いつの間にか私は海原の上を飛んでいた。
風切り音が耳にうるさい。
そして、前触れなくふっと重力が消え、身体が浮き上がる感覚を覚えた。
さあ、征くぞ。
裂帛の気合とともに、赤白金の3条の光を曳いて。
一気に身体が加速した。
足元に、大地が戻ってきた。
風切り音はそのままに、海の青がターフの緑へ変わっていく。
耳に入るのは足音と息遣いだけ。
すぐ脇のラチ沿いに脚を回しながら、西日に霞むスタンドを、その先を睨む。
ただ前へ。
まっすぐ前へ。
まっしぐらに、すすめ。
地面を蹴る。
脚は重い。呼吸も苦しい。
それでも、まだ前へ進める。
どれだけ離せただろうか。
後ろはもう来ているだろうか。
いや、他には目もくれるな。
ただスピードだけを信じて。
速さこそが真理だと、そう信じて突き進め。
息が苦しい。脚も重い。
それでも速度は落とせない。
ひたすら前を見つめる。
すると、目の前の芝がセピア色に褪せる。
視線をを上げると、よく知る学園の中庭の景色。
現実感の失せた景色の中で、私は襷を、その結び目にさげられたメダルを握り込んだ。
私たちの旅路は、まだ終わっていない。
眼の前には坂が立ちあがる。
東京の長い直線。その途中に待ち構える上り坂。
脚に、坂が容赦なく負担をかけてくる。
なんと酷なる道だろうか。
だが構いはしない。
躊躇いも、恐怖心も、もはやない。
このままでいい。
最後まで、戦うのだ。
勾配が緩み、ようやく脚が少しだけ軽くなる。
けれど、楽になったわけではない。
肺は焼けるように熱く、脚は一歩ごとに重さを増していた。
……まだだ。
ここから先は、もう速度を落とせない。
疲労に屈しそうになる身体を叱咤し前へ。
眼前にはゴール板。
蹄音はもうすぐ後ろまで迫っている。
あと少し。
視界が狭まる。
霞がかかる視界に、紅い花弁が舞った。
1枚、また1枚。
風に乗った花弁が、ゴールへと伸びるターフを紅く染めていく。
──勝って。
ただ全力で駆け、前へ進め。