驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
11月1日 東京レース場 第11レース
天皇賞・秋(G1) 芝 2000m 良
『ノルデンセミラミス、前半1000m57秒4の大逃げ! しかし、ここに来て明らかにペースが落ちています!』
『……さすがに速すぎたか! ノルデンセミラミス、ここで失速か!?』
東京レース場、関係者席。
ウオッカの担当である奈瀬文乃は、ターフを凝視したまま動かなかった。
57秒4。
その数字が耳に入った瞬間から、胸の奥に嫌なものが居座っている。
11月1日。東京の2000m。1枠1番から飛び出した栗毛のウマ娘。後続を大きく引き離した大逃げ。
そして、3コーナーでの減速。
奈瀬は思わず身を乗り出した。
ターフビジョンには、先頭を走るセミラミスの姿が大写しになっている。
走りに乱れは見えない。少なくとも、今のところは。
それでも、奈瀬の表情は険しいままだった。
「……吉富さん」
隣に立つ年嵩の女性が、静かに視線を向けた。
「あれは、どういうことですか」
「ご覧のとおりですよ」
「そういうことを聞いているんじゃない!」
奈瀬の声が思わず大きくなる。
「なぜ、あんな走りをさせたんですか。2000mですよ? 前半1000mを57秒4なんて……!」
吉富は何も答えなかった。
ただ、ターフへ視線を戻す。
その態度が、奈瀬の神経を逆撫でした。
「まさか、セミラミスが勝手にやったことだとでも? あなたがあの子のトレーナーでしょう!」
「いいえ」
吉富は静かに首を振った。
奈瀬が息を呑む。
「……何ですって?」
「前半の速度も、あの位置で減速することも。全て事前に決めたとおりです」
その声にためらいの色はなかった。
奈瀬の視線が再びターフビジョンへ向かう。
セミラミスは走っている。速度を落としながらも、確かな足取りで3コーナーを回っていた。
それが予定どおりだという。
あの数字も。あの大逃げも。そして、今の減速さえも。
「……あなた、自分が何をさせているのか分かっているんですか」
「当然、承知していますとも」
吉富は、今度こそ奈瀬へ向き直った。
「ですから、私が全て指示しました」
「貴様ァ!」
冷静な、端正な顔をかなぐり捨てて吉富の胸倉をつかむ奈瀬。
傍らにいたゼファーが慌てて奈瀬の腕に手をかける。ディープインパクトも反対側から加勢したが、奈瀬は吉富の胸倉を放そうとしない。
そのときだった。
「カンパニー!」
鋭い声が割って入った。
少し離れた席で立ち上がったのは竪川紀洋トレーナー。
その視線が向かうのは先頭のセミラミスでも、本命ウオッカでもない。彼の教え子、カンパニー。
──ああ、やはり気付きますか。
吉富は切れ長の瞳に激昂の色を乗せた奈瀬の顔を見ながら思う。
シニア5年目のベテラン、長く走ってきたものだけが持つ直観は侮れない。彼女もそうだった。
流石は紀洋だ。よく教育している。
先頭で何が起こっているか、真っ先に気付くとしたら、カンパニーであるはずだった。
若干酸欠で霞む視界で、吉富は思う。とにかく無事で、帰ってきてください、と。
後続集団の一角。
カンパニーが、動こうとしていた。
少し前、東京レース場、3コーナー。
カンパニーは内側を走るウオッカの様子を窺っていた。
前半1000mは決して速くない。自分たちの集団だけを見れば、むしろ落ち着いた流れだ。
それなのにペースがさらに落ちた。先頭が減速したという。
……妙だ。
周囲へ視線を走らせる。
内にウオッカ。外の後ろには赤と白の勝負服。前にはエイシンデピュティたち。
何かがおかしい。
……人数が足りない。
赤と白のノルデンセミラミスは後ろにいる。いや、違う。あれは妹のレヨネットだ。
では、姉はどこにいる?
……そうだ。
今日のセミラミスは、白と緑の勝負服だった。
最内から飛び出し、猛烈な勢いで先頭を奪った姿を思い出す。
あれから、落ちてきただろうか。
いや、落ちてきていない。
ならば。
自分たちが先頭だと思って追いかけていた、この集団。
そのさらに前に、まだ1人いる。
そこまで考えて、カンパニーは悟った。
……やられた。
先頭が減速したから何だというのだ。後続との差が縮まっているからといって、追いつけるとは限らない。
まして、あのセミラミスがこのまま大人しく沈んでくる保証など、どこにもない。
残りは600mほど。
もしもう一度加速されたら、この位置から届くのか。
わずかな逡巡。
……間に合わない。
ウオッカを見た。
このまま彼女をマークして、最後の直線で勝負する。それが当初の考えだった。
だが、それでは前に届かない。
彼女は決断した。
ウオッカの外から、ひと足先に加速を始める。
一か八か、早仕掛けだ。
その少し後ろ。
ノルデンレヨネットは、前を行くカンパニーの動きに気づいた。
青と白のオフィススーツを思わせる勝負服が、内側のウオッカを置いて前へ出ようとしている。
……あれ?
まだ仕掛けるには早いはずだ。
けれど、考えるより先に身体が動いていた。
レヨネットも脚を速め、カンパニーの後ろを追従する。
彼女はシニア5年目の大ベテラン。数々の重賞を制し、前走ではあのウオッカに勝っている。
そんな人が、理由もなくこの位置から動くだろうか。
いや、何かに気づいたのだ。
では、何に?
先頭はペースを落としたらしい。後続はそれを追いかけている。少なくとも、ここまでは普通の展開に思える。
けれど、そもそも今日のレースが普通に進むはずなどなかった。
お姉ちゃんがいるのだから。
半年以上もかけて準備してきた、初めての2000m。
あのお姉ちゃんが、ただ負けるだけの走りをするだろうか。
……しない。
絶対に、そんなはずがない。
何かが起きている。
誰かが何かを仕掛けたのだとしたら、それはきっとお姉ちゃんだ。
カンパニーさんが何に気づいたのかは分からない。
けれど、この人についていったほうがいい。
レヨネットは前を見据え、さらに脚に力を込めた。
その内側、ウオッカはカンパニーの動きを捉えていた。
青と白の勝負服が位置を上げる。さらに、その後ろから赤地に白襷の軍服風勝負服、ノルデンレヨネットまでが追従した。
……もう仕掛けるのか?
まだ4コーナーだ。ここから動けば最後の直線で脚が鈍る。
カンパニーは前走毎日王冠で自分を負かした相手だ。警戒すべきなのは間違いない。
だが、だからといって付き合う必要はない。
東京の長い直線。大外へ持ち出し、そこで末脚を爆発させる。
それが自分の勝ち方だ。
ウオッカは2人を先に行かせ、仕掛けを待った。
やがて4コーナーを抜ける。
視界が開けた。
そして、見えた。
遥か前方。栗色の長い髪をなびかせ、白と深緑のドレスを翻して走るウマ娘。
ノルデンセミラミス。
……まだあんなところに!?
失速したはずではなかったのか。
いや、違う。
あいつはまだ走っている。しかも、もう一度加速している!
ウオッカの背筋に冷たいものが走った。
カンパニーたちは、これに気づいていたのか。
……やられた!
だが、まだ終わっていない。
ウオッカは大外へ持ち出し、渾身の力でターフを蹴った。
絶対に差す。
今度も、あいつを差し切ってやる!
東京レース場、最終直線。
東京レース場、3コーナーから4コーナー。
『さあ、大欅を越えて4コーナーへ! 先頭は……ノルデンセミラミス! まだ先頭です!』
白と深緑のドレスが、栗色の長い髪をなびかせてカーブを駆け抜けていく。
前半1000m57秒4。そして3コーナーでの急減速。
しかし、先頭の走りに乱れはない。
『ノルデンセミラミス、しっかり走っています! 4コーナーを回って最後の直線!』
白と深緑の勝負服が、真っ先に直線へ飛び込んできた。
『しかし後続も来る! カンパニーが上がってきた! ノルデンレヨネットも追っている! さらに内寄りからスクリーンヒーロー!』
その背後で、色とりどりの勝負服が大きく広がっていく。
『大外からはウオッカ! ウオッカも追撃開始! 東京の長い直線! 大逃げを打ったノルデンセミラミスに、後続17人が一斉に襲いかかる!』
中団から進出したカンパニーが先頭との差を詰める。レヨネットもその後ろから迫っていた。
『残り400m! カンパニーが来た! レヨネットも来た! ノルデンセミラミス、これは苦しいか!』
だが、その瞬間。
『おおっと、セミラミス……伸びる! 伸びています!』
前半1000m57秒4で飛ばし、3コーナーで速度を落としたウマ娘が、再び加速している。
『ノルデンセミラミス、もう一度加速した! まだ走れる! まだ走れるぞ!』
縮まりかけた差が、再び動かなくなった。
上り坂の途中。追撃勢がさらに脚を伸ばし、白と深緑の背中へ迫っていく。
『カンパニー! ノルデンレヨネット! 内からスクリーンヒーロー! セミラミスとの差が詰まる! 詰まってきた!』
坂を登るセミラミス。後続がその背中へ、さらに迫っていく。
『しかし粘る! ノルデンセミラミス、また粘る! 坂を越えても先頭を譲らない!』
そして大外。
水色と黄色の勝負服が、猛烈な勢いで伸びてきた。
『ウオッカだ! 大外からウオッカ! 昨年の覇者が来た!』
残り200m。
『先頭はいまだノルデンセミラミス! カンパニーが追う! レヨネットも伸びる! そしてウオッカ! ウオッカの末脚が炸裂する!』
後続の脚色は衰えない。
カンパニーが迫る。その内寄りからレヨネットが抜け出し、さらに外からウオッカが追い込んでくる。
『残り100m! ノルデンセミラミス先頭! しかしウオッカが来た! ノルデンレヨネットも来た!』
先頭との差が、目に見えてなくなっていく。
『捕まるか! 捕まるか! ノルデンセミラミス!』
だが、白と深緑の勝負服が、また前へ出た。
『セミラミス粘る! まだ粘る! なんという粘りだ! なんという根性だ!』
大外からウオッカ。内寄りからノルデンレヨネット。
2人が挟み込むように先頭へ迫る。
『ウオッカ! レヨネット! セミラミス! 3人の争い!』
残り50m。
3人の脚が、ほとんど同時に前へ伸びる。
『ウオッカが並ぶ! レヨネットも並んだ! なんということだセミラミス、譲らない! 譲らない!』
スタンドを揺るがす大歓声。
赤と白、白と深緑、水色と黄色。
3つの勝負服が、ほとんど横一線となった。
『ウオッカか! レヨネットか! それともセミラミスか!』
そして。
『──ゴールイン!!』
3人が、ほとんど同時にゴール板を駆け抜けた。
『これは際どい! 際どい決着になりました! ノルデンセミラミス、前半1000m57秒4から最後まで走り切りました!』
ターフビジョンにはゴールの映像が何度も繰り返される。
外のウオッカが届いたようにも見える。内のレヨネットが差し切ったようにも見える。
しかし、その間にいたセミラミスも、最後まで前へ出ようとしていた。
『さあ、勝ったのは誰だ! 第140回天皇賞(秋)、大接戦のゴール!』
実況の声が、わずかに落ち着きを取り戻す。
『ただいま写真判定が行われています! 確定までしばらくお待ちください!』
18人が駆け抜けたターフ。
その向こうにそびえるターフビジョンには、まだ勝者の名前が映し出されていなかった。
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秋天はベリベリホースが勝ったか。
引退セレモニーに最敬礼再びとイベントも多かった秋天でしたが、私的には09年にベテランだった騎手がなんで26年まで現役なのかと問いたくなってくる。
柴田善臣騎手お疲れ様でした。