驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
──前へ。
あと一歩。
もう一歩だけ。
脚を動かす。地面を蹴る。腕を振る。
視界がひどく狭い。
歓声も風の音も遠く、聞こえるのは自分の荒い呼吸ばかり。
喉の奥に鉄の味がする。
息を吸っても吸っても足りない。胸が苦しい。脚は重く、もう自分のものではないようだった。
……まだか。
ゴールは、まだなのか。
そのとき、不意に身体が引かれた。
「お姉ちゃん!」
襷を強くつかまれ、上体が揺れる。
何を。
「お姉ちゃん! もうゴールしたよ!」
聞き覚えのある声が、ひどく遠くから聞こえた。
……レヨ?
なぜ、ここに。
「おい、セミラミス! もう終わってるぞ!」
反対側からも声が飛んできた。
水色と黄色の勝負服。
ウオッカ?
どうして2人が隣にいるのだろう。
「レヨ、そっち頼む! 後ろも来てる!」
「うん! お姉ちゃん、ゆっくり! 急に止まっちゃ駄目!」
レヨが襷を握ったまま速度を合わせる。
ウオッカも反対側から並走し、私がよろけるたびに身体を支えてくれた。
背後から幾重もの足音が迫り、脇を駆け抜けていく。
……あれ。
もう、終わった?
言われるままに脚を緩めようとする。
けれど、うまくいかない。
身体はまだ前へ進もうとしていた。
もう少し。
あと少しだけ。
「セミラミス! こっち見ろ!」
「お姉ちゃん!」
2人の声が重なった。
そこでようやく、目の前の景色が少しずつ輪郭を取り戻してきた。
……ああ。
そうか。
ゴールしたのか。
脚の回転を落とす。
ウオッカとレヨに挟まれながら、少しずつ速度を緩めていく。
途端に、呼吸がひどく苦しくなった。
「はっ……は、ぁ……っ」
息がうまく吸えない。
喉がひりつく。唾を飲み込むと、また鉄の味がした。
肺が焼けるように熱い。
脚の奥がじんじんと痛み、膝が勝手に震えている。
……なんてこと。
これほどまでに、疲れるものなのか。2000mというのは。
観客席から大歓声が降り注いでいた。
幾度も名前を呼ばれているらしい。
ウオッカ、レヨ、そして私。
けれど、音が重なって何を叫んでいるのか分からない。
どうにか速度を落とし、歩くほどの速さになった。
「お姉ちゃん、大丈夫!?」
「……はっ、はぁ……」
答えようとしたが、言葉にならない。
レヨが私の背中に手を添える。
「無理に喋らなくていいから。ゆっくり息して」
「ったく、無茶苦茶しやがって……」
ウオッカの声にも、いつもの勢いがなかった。
彼女も肩を大きく上下させ、額に汗を浮かべている。
それでも私ほどではないらしい。
何とか息を吸い、喉の奥から声を絞り出す。
「……ゴー、ル……した、ん……ですよね」
「したって言ってんだろ!」
「うん。ちゃんと走り切ったよ」
……そうですか。
よかった。
どうやら、本当に終わったらしい。
しかし。
「……ど、なたが……勝ち、ました……?」
ウオッカが目を丸くした。
「はぁ!? こんなときにそれかよ!」
「私も分かんないよ。ほとんど一緒だったもん」
そうですか。
それは……困りましたね。
再び息を吸う。
喉の奥が痛み、思わず顔をしかめた。
「だから喋るなって。まず息を整えろ」
「お姉ちゃん、歩ける? どこか痛くない?」
首を横に振ろうとして、やめた。
痛いところなら、いくらでもある。
ただ、脚に異常があるというより、全身が疲れ切っているのだろう。
小さく頷くと、レヨは少しだけ安心したようだった。
3人でゆっくりと歩き始める。
レヨはようやく襷から手を離したものの、私のすぐ隣を離れようとしない。
ウオッカも反対側についてきた。
観客席からは、まだ大きな歓声が続いている。
その中に混じって、拍手が聞こえてきた。
顔を上げる。
遠くに電光掲示板が見えた。
そうだ。
まだ、勝敗が決まっていない。
ふと、以前にもこんなふうに3人で結果を待ったことがあったと思い出した。
あのときはスカーレットとウオッカだったか。
……ずいぶん、昔のことのように感じる。
隣では、レヨもウオッカも同じ方向を見ていた。
私はもう一度、大きく息を吸う。
喉に残る鉄の味を飲み込み、震える脚に力を入れた。
そして3人並んで、電光掲示板を見上げた。
| 東京 | 11R | ||||
| Ⅰ | XX | ||||
| > | 写真 | ||||
| Ⅱ | XX | ||||
| > | 写真 | ||||
| Ⅲ | XX | ||||
| > | 1/2 | ||||
| Ⅳ | 3X | ||||
| > | XアタマX | ||||
| Ⅴ | 2X | ||||
| 芝 | |||||
| 良 | タイム | ||||
| ダート | 4F | ||||
| 良 | 3F | ||||
観客席からの歓声はまだ鳴りやまない。
私はレヨとウオッカに挟まれ、どうにか呼吸を整えていた。
喉の奥にはまだ鉄の味が残り、息を吸うたびに胸がひりつく。
それでも、気になるものは気になる。
電光掲示板を見上げる。
まだ、結果は出ていない。
「……長いですね」
「そうか? まだそんなに経ってねえだろ」
「お姉ちゃん、無理して喋らなくていいから」
そう言われても、ただ待つというのは落ち着かない。
「……ウオッカは、どう思います?」
「オレか? ……最後は差したと思ったんだけどな。正直、分かんねえ」
「レヨは?」
「あたしも。届いたと思ったけど、お姉ちゃんも最後に伸びたから」
なるほど。
どうやら、誰にも確信はないらしい。
私はもう一度、深く息を吸った。
痛む喉をなだめながら、掲示板を見つめる。
ふと、隣のレヨが私の手を握った。
その手にも、まだ熱が残っている。
ウオッカは腕を組み、じっと前を見据えていた。
誰も口を開かない。
やがて、観客席のざわめきがひときわ大きくなった。
掲示板の表示が、切り替わった。
| 東京 | 11R | ||||
| Ⅰ | XX | ||||
| > | 写真 | ||||
| Ⅱ | XX | ||||
| > | ハナ | ||||
| Ⅲ | 15 | ||||
| > | 1/2 | ||||
| Ⅳ | 3X | ||||
| > | XアタマX | ||||
| Ⅴ | 2X | ||||
| 芝 | |||||
| 良 | タイム | ||||
| ダート | 4F | ||||
| 良 | 3F | ||||
……ああ。
レヨの手に、ぎゅっと力がこもった。
「……そっか。あたし、また3着か」
隣を見ると、レヨは掲示板を見上げたまま、小さく息を吐いていた。
「もうちょっとだったんだけどなぁ……」
悔しそうに眉を寄せ、それから私たちを交互に見た。
「お姉ちゃんもウオッカも、まだ分からないんだね」
「ああ。まったく、じらしてくれるぜ」
「……そうですね」
ようやく、それだけ返す。
レヨは少し迷ったようだったが、やがて私の肩に手を添えた。
「お姉ちゃん、ちゃんと休んでね。無理しちゃ駄目だよ?」
「……ええ。ありがとう、レヨ」
「ウオッカも、またね」
「おう。お疲れ!」
レヨはもう一度掲示板を見上げると、私たちから離れていった。
観客席から、レヨネットの名を呼ぶ声が上がる。
その声に気づいたレヨは、振り返って笑顔を浮かべた。
大きく手を振ると、歓声と拍手がひときわ大きくなる。
やがて、その赤と白の勝負服が遠ざかっていった。
「……なあ、セミラミス」
「……はい?」
ウオッカが、隣で小さく笑った。
「こうして待ってると、思い出すな。あの桜花賞」
「……ええ。あのときも、随分と待たされましたね」
「スカーレットもいてさ。3人で掲示板を睨んでたっけ」
そうだった。
あのときは、まさかこんなに長く競い合うことになるとは思ってもいなかった。
「……それに、去年もだ」
「昨年の天皇賞、ですか」
「ああ。スカーレットとどっちが勝ったか分かんなくてさ。あんときも、やたら長かったんだよな」
ウオッカは苦笑して、掲示板を見上げた。
「ったく、2年続けてこれかよ」
「……今年は、相手が私ですけれど」
「そういうことだな」
彼女は楽しそうに笑った。
「けど、今回は差したと思ったんだぜ?」
「……私も、逃げ切ったつもりです」
「言うじゃねえか」
笑いながらも、ウオッカの視線は掲示板から離れない。
私も大きく息を吸った。
喉の奥には、まだ鉄の味が残っている。
去年の天皇賞では、ウオッカが勝った。
春の府中でも、私は2度この人に敗れた。
奇しくも同じ府中。
……ですが。
今日こそは。
隣でウオッカが腕を組む。
「今回も、オレが勝つ」
「……そう簡単にはいきませんよ」
互いに前を向いたまま、短く言葉を交わす。
そのとき、観客席のざわめきが変わった。
ウオッカが口を閉じる。
私も息を止めかけ、慌てて浅く吸い直した。
そして、掲示板の表示が再び切り替わった。
| 東京 | X11R | 確定 | |||
| Ⅰ | 1X | ||||
| > | ハナ | ||||
| Ⅱ | 7X | ||||
| > | ハナ | ||||
| Ⅲ | 15 | ||||
| > | 1/2 | ||||
| Ⅳ | 3X | ||||
| > | XアタマX | ||||
| Ⅴ | 2X | ||||
| 芝 | レコード | ||||
| 良 | タイム | 1:57.1 | |||
| ダート | 4F | 46.9 | |||
| 良 | 3F | 34.1 | |||
……勝った。
掲示板に表示された数字を、何度も確かめる。
1着、1番。
ノルデンセミラミス。
2着、7番。ウオッカ。
その差、ハナ。
……ハナ差。
あれだけ走って、たったそれだけ。
けれど、確かに届いたのだ。
「……ははっ。負けたかぁ」
隣でウオッカが天を仰いだ。
「最後、絶対に差したと思ったんだけどな」
「……私も、正直……分かりませんでした」
「そりゃそうだろ。ハナ差だぜ? ったく、あとちょっとだったのによ」
悔しそうに笑うウオッカ。
その姿を見て、ようやく勝った実感が湧いてきた。
「……勝ちましたよ、ウオッカ」
「ああ。今回はお前の勝ちだ」
ウオッカが右の拳を差し出した。
いつもの仕草。
私も震える腕を持ち上げ、拳を突き出す。
「おめでとう、セミラミス」
「……ありがとうございます」
「けど、次は負けねえからな」
「……ええ。私も、負けるつもりはありません」
ウオッカが満足そうに笑った。
これで戦績は6戦3勝3敗の五分。
……次、次か。
おそらくないだろう、ともに走る機会に思いを馳せそうになるのを首を振ってとどめる。
……もう一度、走れれば。レースでなくてもいい。一緒に。
「じゃ、先に戻るぜ。お前はウィナーズサークルだろ?」
「……はい。また、あとで」
「おう!」
レザージャケットの勝負服が、短いひとつ結びを垂らした背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
私はその背中を見送り、改めて掲示板を見上げた。
1着、ノルデンセミラミス。
勝ち時計は1分57秒1。
レコード。
観客席から、私の名前を呼ぶ声が降り注いでくる。
ようやく呼吸も少し落ち着いてきた。
喉にはまだ鉄の味が残り、脚も重い。
それでも、立っていられる。
歩くこともできる。
私は観客席へ小さく手を振り、迎えに来た係員へと向き直った。
さて。
ウィナーズサークルへ行かなくては。
重い脚を一歩ずつ運びながら、私は勝者のために用意された場所へと歩き始めた。
ウィナーズサークルへ足を踏み入れると、見慣れた顔がいくつも待っていた。
トレーナーさんにゼファーさん。それからバクシンオーさんとフライトさんもいる。少し離れたところには、両親と末の妹、祖父母の姿まであった。
……皆さん、来てくださったのですね。
思わず頬が緩む。
しかし、近づいてみると、少々妙なことに気がついた。
トレーナーさんの上着には皺が寄り、襟元も曲がっている。ゼファーさんも髪が少し乱れ、普段はきちんと整えられている制服がどこか着崩れていた。
……何かあったのでしょうか。
「あの、トレーナーさん。お召し物が……」
「ああ、これですか。ちょっと色々ありましてね」
トレーナーさんは苦笑し、乱れた襟元を直そうとした。
けれど、その手が途中で止まる。
「……おかえりなさい、セミラミスさん」
いつもと変わらない、穏やかな声だった。
ただ、その表情が違う。
トレーナーさんは、これまで何度も私の勝利を喜んでくださった。けれど、こんなふうに、心の底から嬉しそうな顔をされるのは初めてかもしれない。
「……はい。ただいま戻りました」
「ええ。本当に……よく帰ってきてくれました」
そう言って、トレーナーさんが私の肩に手を置いた。
そっと、確かめるように。
「お怪我はありませんか?」
「……はい。少々疲れましたが、特には」
「そうですか。よかった」
ほっと息を吐き、また笑う。
……そんなに心配をおかけしたのでしょうか。
いえ、もともとそういう、トレーナーさんが悪辣と評するような作戦であったのは事実ですが。
確かに、それでなくても今回ばかりは私も無茶をした自覚があります。最後の直線など、どうやって走り切ったのかも曖昧です。
けれど、トレーナーさんがこれほど喜んでくださるなら、無事に戻ってこられて本当によかったと思います。
「セミラミスさん!」
その隣から、ゼファーさんが歩み寄ってきた。
「おめでとうございます! 本当に、おめでとうございます!」
両手を胸の前で握り締め、私を見つめている。
「短距離も、マイルも……そして、2000mも! ついに、全部勝ったんですね!」
「……はい。おかげさまで」
「すごいです。本当に、すごい……! あんなに苦しい走りをして、それでも最後まで諦めないで……!」
言葉を詰まらせたゼファーさんの目に、涙が浮かんでいた。
……あれ。
そういえば、今日は風のお話はなしですか。
いつもなら何でも風の言葉に例えてくださるところなのに。
「よかった……本当に、よかったです……!」
ゼファーさんは、それ以上うまく言葉にならないらしい。
私は小さく笑い、頭を下げた。
きっとゼファーさんも言葉を作っていられないのでしょう。
「……ゼファーさんに教えていただいたことが、最後に役立ちました。ありがとうございます」
あの400m。
どれほど辛くても、我慢して速度を落とすこと。
ゼファーさんと繰り返した練習がなければ、きっと最後まで走り切れなかっただろう。
「……はいっ!」
ゼファーさんが何度も頷く。
その後ろでは、バクシンオーさんが満面の笑みで拍手をしていた。フライトさんも穏やかに微笑み、私とゼファーさんを見守っている。
「トレーナーさん、ゼファーさん」
改めて、2人を見る。
「……ありがとうございました。お2人のおかげで、勝つことができました」
「いいえ。勝ったのはあなたですよ、セミラミスさん」
トレーナーさんが首を横に振った。
「私たちは少し、お手伝いをしただけです。今日の勝利は、あなた自身がつかみ取ったものです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
スタンドからは、まだ私の名前を呼ぶ声が降り注いでいる。
「さあ、セミラミスさん」
トレーナーさんが、いつものように微笑んだ。
「皆さんがお待ちですよ。胸を張って、行ってらっしゃい」
「……はい!」
まだ脚は重い。喉の奥もひりついているし、身体中が疲れ切っている。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
私はもう一度2人に頭を下げ、歓声の待つウィナーズサークルの中央へと歩き出した。
『確定しました! 第140回天皇賞(秋)、勝ったのは1番、ノルデンセミラミス! 2着ウオッカとの差は、わずか2センチ!』
『昨年、ダイワスカーレットを2センチ差で退けたウオッカ! 今年はそのウオッカが、同じ2センチ差で敗れました!』
『勝ち時計は1分57秒1! ウオッカが昨年打ち立てたレコードを、さらに0秒1更新!』
『前半1000メートル57秒4! 後続を大きく引き離す大逃げから、そのまま逃げ切りました! 一度たりとも先頭を譲らず、府中の2000メートルを駆け抜けました!』
『そして吉富トレーナーにとっては、11年ぶり、オフサイドトラップ以来実に3度目の天皇賞(秋)制覇!』
『スプリントを制し、マイルを制し、そしてついに中距離の頂点へ! ノルデンセミラミス、3階級制覇達成です!』
サークルの中央。
歓声に包まれながら、ゼファーさんが私の胸元に新しい略綬をつけてくださる。
秋の天皇賞の優勝レイをイメージした紫のリボンが胸元を飾り、同じ色の優勝レイを肩から掛けてもらう。
心地よい、というにはあまりに重い疲労を抱えつつ、観客席の人だかりに手を振る。
その一番手前、紅白メンコの右耳に錨の飾りをつけたギザ歯のとねっこが盛んにこちらに手を振っているのが目に入り、そちらにも手を振ってやる。
私も、こんなふうに憧れられる立場になったのか。
ああ、ついに。
ついに、私の脚はここまで届いたんだ。
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締切からもギリ逃げ切りました(5時過ぎ)
あと15分で差し切られるとこでした。
最後のはまああいつです。母マエダレーナ(違)の。