驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”チームルーム。
天皇賞(秋)から一夜明けた月曜日。
「……なるほど。やはり、相当な負担がかかっていたようですね」
椿さんが、手元のタブレットに目を落としながら小さく息を吐いた。
隣にはトレーナーさん。その向かいに私が座っている。
昨日の激走から一夜。
私は朝から精密検査を受け、今はその結果について説明を受けていた。
「幸い、現時点で明らかな故障を示す所見はありません。脚部についても、局所的な損傷を疑わせる異常は認められませんでした」
「それは何よりです」
「ただし、筋肉への負荷は相当なものです。検査値にも強い運動の影響が出ていますし、疲労の程度は通常のレース後とは比較になりません。少なくとも数日は慎重に経過を見る必要があります」
そう言って、椿さんは私に視線を向けた。
「ご自身でも分かっているでしょう?」
「ええ。全身が鉛のようです。正直、階段を上るのも億劫なくらいでして」
「でしょうね」
呆れたような返事だった。
実際、昨日のゴール後は自分でも驚くほど身体が言うことを聞かなかった。
呼吸は整わず、脚は震え、何より全身を覆う倦怠感が凄まじい。
今朝になって幾分ましにはなったが、普段のレース後とは比べものにならない。
こうして椅子に座っている分にはまだよい。だが、少し姿勢を変えようとするだけで、あちこちの筋肉が重苦しく訴えてくる。
先ほどから座り直そうかと思っているのだが、それすら面倒で、結局同じ姿勢のままだった。
「当面は休養ですね。状態が落ち着くまでは強い負荷をかけないでください」
「承知しました」
「……随分と素直ですね」
「今回は私も懲りましたので」
椿さんが微妙な顔をした。
「それほどなら、最初からもう少し加減していただきたかったのですが」
「それでは勝てませんでしたから」
「……そうでしょうね」
少しの沈黙。椿さんは再びタブレットへ視線を落とした。
ああまでせねば、到底勝てはしなかった。
「ともかく、無事で何よりです。本当に」
その言葉に込められた安堵は、先ほどまでの事務的な口調とは少し違って聞こえた。
「ご心配をおかけしました」
「ええ。大変に」
否定はしていただけなかった。
「では、次走についてですが」
トレーナーさんが予定表を開いた。
「マイルチャンピオンシップまで中2週。今回の消耗を考えると、疲労を抜いて、最低限の最終調整を行うだけで精一杯でしょう」
「そうですね。通常の練習に戻す時期すら、現段階では断言できません」
「本番のコンディションも、最良には程遠いものになると思ってください」
「はい。覚悟しています」
もとより、天皇賞であの作戦を実行すると決めた時点で、次走への影響は織り込み済みだった。
3か月かけて準備した、たった1度の勝利のための走り。
それが身体にどれほどの負担をかけるか、理解していなかったわけではない。
ただ。
「……それを承知のうえで申し上げますが、二度と御免です」
「ふふ。そこまでですか」
「死ぬほど疲れました。勝てたことに後悔はありませんが、もう一度やれと言われたらお断りします」
「でしょうね。私も二度と指示するつもりはありませんよ」
トレーナーさんが微苦笑する。
「もっとも、回復が予定より遅れるようなら、マイルチャンピオンシップへの出走そのものを再検討します」
「……承知しました」
「そこは譲れませんからね」
釘を刺され、素直に頷いた。
さすがに今の身体では、強がりを言う気にもならない。
そこで椿さんの端末が短く鳴った。
「ああ、すみません。アルケスの方で少々用事がありまして」
「取材でしたか?」
「ええ。バクシンオーさんの件で確認があるそうです。まったく、あちらも随分と忙しくなってしまって」
椿さんはタブレットを閉じて立ち上がる。
「では、私はこれで。セミラミスさん、くれぐれも無理をしないように」
「はい。ありがとうございました」
「吉富トレーナーも、よろしくお願いします」
「ええ。お忙しいところ、ありがとうございました」
椿さんを見送ろうと腰を浮かしかけたところで、太腿に鈍い痛みが走った。
思わず動きを止める。
「……座っていてください。無理をしないようにと言ったばかりでしょう」
「……失礼しました」
椿さんは苦笑して、チームルームを後にした。
扉が閉まり、室内には私とトレーナーさんだけが残された。
机の上には検査結果と、マイルチャンピオンシップまでの予定表。
トレーナーさんはそれらを整理しながら、別の書類を取り出した。
「さて、あとは取材関係ですね。追加の依頼は基本的にお断りしています。祝勝会も次走の後に延期ということで」
「異存ありません。今は休養を優先したいですし」
「ええ。それと、昨日の件ですが……」
少しだけ、その手が止まった。あの件か。
「奈瀬文乃トレーナーのことですか?」
「はい。処分は謹慎1日で済むことになりました」
「そうですか……」
私は小さく息を吐いた。
「……申し訳ありません。あの作戦が、あの方にとってどういう意味を持つかは理解していました。ですが、まさかトレーナーさんにまで手を上げられるとは」
「あなたが気にすることではありませんよ」
「しかし、原因を作ったのは私ですし」
「私はあなたのトレーナーですから。あなたが走っている間、余計なことを考えずに済むようにするのも仕事ですよ」
何でもないことのように、トレーナーさんは答えた。
「処分についても、URA理事会には事情を考慮していただくようお願いしました。これで一件落着です」
「……そう、ですか」
その穏やかな微笑みを見つめる。
余計なことを考えずに済むようにする。
それは、つまり。……いや、まさか。
しかし、考えてみれば。
私の作戦を悪辣だと評したのは、ほかならぬトレーナーさんなのだ。
そして、そんな作戦を了承したうえで、最後まで平然と見守っていた。
……トレーナーさんも、大概なのではないだろうか。
「どうかしましたか?」
「……いえ、何でもありません」
「そうですか。では、今日はもうお休みなさい。しばらくは休むのも仕事ですよ」
「はい。失礼します」
私は机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
……ううむ。脚が重い。
軽く頭を下げ、どうにか普段どおりの足取りを装って扉へ向かう。
「セミラミスさん」
「はい?」
「無理に普通に歩こうとしなくて結構ですよ」
「……はい」
どうやら、お見通しだったらしい。
まだまだこの人には敵わない。学ぶことは多いようだ。
チーム棟を出ると、秋の風が頬を撫でた。
日差しはまだ暖かいが、吹き抜ける風には冬の気配が混じり始めている。
寮へ向かって歩き出す。
……普段なら何とも思わない距離なのだが、今日は妙に遠く感じる。
歩けないわけではない。ただ、いつもの歩幅で進もうとすると、脚のあちこちが抗議してくるのだ。
仕方なく歩調を落としたところで、見覚えのある大きなおさげの後ろ姿を見つけた。
「ゼファーさん」
「あら、セミラミスさん。……そよ風のような歩みですね」
「ええ。少々、身体が重くて」
振り返ったゼファーさんが、私の足元へ視線を落とす。
「検査は、いかがでしたか?」
「幸い、大きな異常はないそうです。ただ、しばらく休養するようにと」
「……そうですか。よかった」
ほっとしたように微笑むゼファーさん。
「昨日のあなたは、晴嵐そのものでした。あれほど激しい風を起こして、無事に帰ってきてくれたこと……何より嬉しく思います」
「ご心配をおかけしました」
「いいえ。あの走りは、あなたが長く追い求めてきたもの。私にも、その風を止めることはできませんでしたから」
そう言って、ゼファーさんは空を仰いだ。
「……改めて、おめでとうございます。ついに、3つの風をつかまえましたね」
「ありがとうございます。ゼファーさんのおかげです」
「ふふ。私はほんの少し、追い風を送っただけですよ」
その謙遜に、思わず微笑む。
「ですが、次は穏やかな風でお願いしたいところです」
「ご安心ください。私も二度とあんな走りはしたくありません」
「あら……」
ゼファーさんが目を丸くする。
「ふふっ。よほど大変だったのですね」
「ええ。文字どおり、身に沁みました」
珍しく声を立てて笑うゼファーさんにつられ、私も小さく笑った。
それから2人で寮まで歩く。
ゼファーさんは私の歩調に合わせて、いつもよりゆっくりと歩いてくださった。
こちらから頼んだわけではないし、彼女も何も言わない。
その心遣いが、ありがたかった。
美浦寮の玄関に着くと、ゼファーさんが足を止めた。
「では、私は少し庭へ。今日は風が気持ちよいので」
「そうですか。私は部屋に戻ります」
「ええ。どうか、ゆっくり羽を休めてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、玄関をくぐる。
さて、ここから自室までは階段がある。
……エレベーターを使おう。
昨日までなら考えもしなかった選択に、思わず苦笑する。
背後から吹き込んだ風が、そっと背中を押した。
美浦寮、自室。
エレベーターを降り、どうにか自室へ辿り着いた。
「ただいま戻りました」
「あ、お姉ちゃん! おかえり!」
机に向かっていたレヨが、ぱっと顔を上げた。
検査はどうだったのかと尋ねる妹に、大きな異常はなかったことを伝える。すると、あからさまにほっとした顔をされた。
「よかったぁ。昨日、すごいことになってたから……」
「ええ。私も少々驚きました」
鞄を置き、ベッドへ腰を下ろす。
……ようやく座れた。
背中を丸めて息を吐くと、レヨが心配そうに覗き込んできた。
「……本当に大丈夫?」
「故障はありません。ただ、しばらく休養が必要だそうです」
それでも疑わしそうな妹に苦笑する。
確かに、今の私は随分と情けない姿を晒していることだろう。
「そうそう。レヨには、先にお伝えしておくことがありまして」
「なあに?」
私は姿勢を正そうとして、思い直した。
……このままでよいだろう。
「次のマイルチャンピオンシップを最後に、引退することにしました」
「……そっか」
レヨは目を伏せ、少しの間黙っていた。
「驚かないのですね」
「うん。なんとなく、そんな気はしてたから」
隣に腰を下ろした妹が、私の顔を見上げる。
「今年は香港にも行かないし、お姉ちゃん、ずっと天皇賞のことばっかりだったでしょ? だから、もしかしたらって」
「なるほど。よく見ていますね」
感心していると、レヨは少し寂しそうに笑った。
「……もう、走りたいレースはないの?」
「そうですね。やりたいことは、もう大体やりましたから」
短距離も、マイルも、そして中距離も。
随分と欲張ったものだが、とうとう手が届いた。
もちろん、勝ちたいレースを挙げればきりがない。しかし、いつまでも現役でいるわけにもいかないだろう。
「それで、お姉ちゃん。引退したらどうするの?」
「ひとまず、指導ウマ娘を目指すのもよいかと考えています」
「へえ! もう決めてるんだ!」
「いえ、まだ考えているだけですよ。勉強も必要でしょうし、海外を見て回るのも面白そうですしね」
レヨがきょとんとする。
「……それだけ?」
「それだけ、と申しますと?」
「もっと色々、予定立ててるのかと思ってた」
む。そう言われても、まだ引退すらしていないのだ。
「これから考えればよいでしょう。時間はたっぷりあるのですから」
「……お姉ちゃんって、そういうところは意外と適当だよね」
失礼な。
とはいえ、否定するほど具体的な計画があるわけでもない。
レヨは少し考え込むと、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「じゃあ、マイルチャンピオンシップが最後なんだね」
「ええ。そうなります」
妹は私を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やはり、寂しいのだろうか。
そう思った次の瞬間。
「そっか! じゃあ、ラストランを勝利で飾れないなんて残念だね、お姉ちゃん!!」
「……ほう?」
思わず耳が立った。
「だって、バクシンオーさんも、フライトさんも、メジャーさんも最後は勝ったんでしょ? メジャーさんなんて有馬記念だよ!」
「……ええ。そうですね」
レヨは満面の笑みを浮かべている。
「なのに、お姉ちゃんだけ負けちゃうんだね! かわいそう!」
……この
そういえば、かつてメジャーさんの引退に際して、私も似たようなことを申し上げた覚えがある。
まさか、今度は自分が言われる側になるとは。
「ふふ。随分と大きく出ましたね、レヨ」
「だって、今のお姉ちゃん、立つのも大変そうだもん!」
言い返そうと、思わず腰を浮かせる。
「……っ」
太腿が悲鳴を上げ、私はそのままベッドに沈んだ。
「あははっ! ほら、やっぱり!」
楽しそうに笑いながらも、レヨは私の肩に手を添えてくれる。
「もう、無理しないでよ。ちゃんと元気になってから勝負しようね」
「……ええ。もちろんです」
もっとも、万全には戻せないだろう。
それでも。
「覚悟しておきなさい。最後の最後まで、そう簡単に勝たせてあげるつもりはありませんよ」
「望むところだよ、お姉ちゃん!」
妹が、にっと笑った。
まったく。
引退すると聞いて、もう少し寂しがるものかと思っていたのだが。
……いや。
この子が、そんな遠慮をするはずもないか。
思わず笑みがこぼれる。
最後のレースで妹と競えることを、嬉しく思う。
もちろん、勝利を譲るつもりなど毛頭ない。それはきっと、この子も同じなのだから。