驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで   作:八幡悠

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221 3階級の女主人と秋天の後始末

 トレセン学園、チーム棟、チーム“アダフェラ”チームルーム。

 

 

 天皇賞(秋)から一夜明けた月曜日。

 

「……なるほど。やはり、相当な負担がかかっていたようですね」

 

 椿さんが、手元のタブレットに目を落としながら小さく息を吐いた。

 隣にはトレーナーさん。その向かいに私が座っている。

 

 昨日の激走から一夜。

 私は朝から精密検査を受け、今はその結果について説明を受けていた。

 

「幸い、現時点で明らかな故障を示す所見はありません。脚部についても、局所的な損傷を疑わせる異常は認められませんでした」

「それは何よりです」

「ただし、筋肉への負荷は相当なものです。検査値にも強い運動の影響が出ていますし、疲労の程度は通常のレース後とは比較になりません。少なくとも数日は慎重に経過を見る必要があります」

 

 そう言って、椿さんは私に視線を向けた。

 

「ご自身でも分かっているでしょう?」

「ええ。全身が鉛のようです。正直、階段を上るのも億劫なくらいでして」

「でしょうね」

 

 呆れたような返事だった。

 

 実際、昨日のゴール後は自分でも驚くほど身体が言うことを聞かなかった。

 

 呼吸は整わず、脚は震え、何より全身を覆う倦怠感が凄まじい。

 今朝になって幾分ましにはなったが、普段のレース後とは比べものにならない。

 

 こうして椅子に座っている分にはまだよい。だが、少し姿勢を変えようとするだけで、あちこちの筋肉が重苦しく訴えてくる。

 先ほどから座り直そうかと思っているのだが、それすら面倒で、結局同じ姿勢のままだった。

 

「当面は休養ですね。状態が落ち着くまでは強い負荷をかけないでください」

「承知しました」

「……随分と素直ですね」

「今回は私も懲りましたので」

 

 椿さんが微妙な顔をした。

 

「それほどなら、最初からもう少し加減していただきたかったのですが」

「それでは勝てませんでしたから」

「……そうでしょうね」

 

 少しの沈黙。椿さんは再びタブレットへ視線を落とした。

 

 ああまでせねば、到底勝てはしなかった。

 

「ともかく、無事で何よりです。本当に」

 

 その言葉に込められた安堵は、先ほどまでの事務的な口調とは少し違って聞こえた。

 

「ご心配をおかけしました」

「ええ。大変に」

 

 否定はしていただけなかった。

 

「では、次走についてですが」

 

 トレーナーさんが予定表を開いた。

 

「マイルチャンピオンシップまで中2週。今回の消耗を考えると、疲労を抜いて、最低限の最終調整を行うだけで精一杯でしょう」

「そうですね。通常の練習に戻す時期すら、現段階では断言できません」

「本番のコンディションも、最良には程遠いものになると思ってください」

「はい。覚悟しています」

 

 もとより、天皇賞であの作戦を実行すると決めた時点で、次走への影響は織り込み済みだった。

 3か月かけて準備した、たった1度の勝利のための走り。

 それが身体にどれほどの負担をかけるか、理解していなかったわけではない。

 

 ただ。

 

「……それを承知のうえで申し上げますが、二度と御免です」

「ふふ。そこまでですか」

「死ぬほど疲れました。勝てたことに後悔はありませんが、もう一度やれと言われたらお断りします」

「でしょうね。私も二度と指示するつもりはありませんよ」

 

 トレーナーさんが微苦笑する。

 

「もっとも、回復が予定より遅れるようなら、マイルチャンピオンシップへの出走そのものを再検討します」

「……承知しました」

「そこは譲れませんからね」

 

 釘を刺され、素直に頷いた。

 さすがに今の身体では、強がりを言う気にもならない。

 

 そこで椿さんの端末が短く鳴った。

 

「ああ、すみません。アルケスの方で少々用事がありまして」

「取材でしたか?」

「ええ。バクシンオーさんの件で確認があるそうです。まったく、あちらも随分と忙しくなってしまって」

 

 椿さんはタブレットを閉じて立ち上がる。

 

「では、私はこれで。セミラミスさん、くれぐれも無理をしないように」

「はい。ありがとうございました」

「吉富トレーナーも、よろしくお願いします」

「ええ。お忙しいところ、ありがとうございました」

 

 椿さんを見送ろうと腰を浮かしかけたところで、太腿に鈍い痛みが走った。

 思わず動きを止める。

 

「……座っていてください。無理をしないようにと言ったばかりでしょう」

「……失礼しました」

 

 椿さんは苦笑して、チームルームを後にした。

 

 扉が閉まり、室内には私とトレーナーさんだけが残された。

 机の上には検査結果と、マイルチャンピオンシップまでの予定表。

 トレーナーさんはそれらを整理しながら、別の書類を取り出した。

 

「さて、あとは取材関係ですね。追加の依頼は基本的にお断りしています。祝勝会も次走の後に延期ということで」

「異存ありません。今は休養を優先したいですし」

「ええ。それと、昨日の件ですが……」

 

 少しだけ、その手が止まった。あの件か。

 

「奈瀬文乃トレーナーのことですか?」

「はい。処分は謹慎1日で済むことになりました」

「そうですか……」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

「……申し訳ありません。あの作戦が、あの方にとってどういう意味を持つかは理解していました。ですが、まさかトレーナーさんにまで手を上げられるとは」

「あなたが気にすることではありませんよ」

「しかし、原因を作ったのは私ですし」

「私はあなたのトレーナーですから。あなたが走っている間、余計なことを考えずに済むようにするのも仕事ですよ」

 

 何でもないことのように、トレーナーさんは答えた。

 

「処分についても、URA理事会には事情を考慮していただくようお願いしました。これで一件落着です」

「……そう、ですか」

 

 その穏やかな微笑みを見つめる。

 余計なことを考えずに済むようにする。

 

 それは、つまり。……いや、まさか。

 しかし、考えてみれば。

 

 私の作戦を悪辣だと評したのは、ほかならぬトレーナーさんなのだ。

 そして、そんな作戦を了承したうえで、最後まで平然と見守っていた。

 

 ……トレーナーさんも、大概なのではないだろうか。

 

「どうかしましたか?」

「……いえ、何でもありません」

「そうですか。では、今日はもうお休みなさい。しばらくは休むのも仕事ですよ」

「はい。失礼します」

 

 私は机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ……ううむ。脚が重い。

 

 軽く頭を下げ、どうにか普段どおりの足取りを装って扉へ向かう。

 

「セミラミスさん」

「はい?」

「無理に普通に歩こうとしなくて結構ですよ」

「……はい」

 

 どうやら、お見通しだったらしい。

 まだまだこの人には敵わない。学ぶことは多いようだ。

 

 


 

 

 チーム棟を出ると、秋の風が頬を撫でた。

 日差しはまだ暖かいが、吹き抜ける風には冬の気配が混じり始めている。

 

 寮へ向かって歩き出す。

 

 ……普段なら何とも思わない距離なのだが、今日は妙に遠く感じる。

 歩けないわけではない。ただ、いつもの歩幅で進もうとすると、脚のあちこちが抗議してくるのだ。

 

 仕方なく歩調を落としたところで、見覚えのある大きなおさげの後ろ姿を見つけた。

 

「ゼファーさん」

「あら、セミラミスさん。……そよ風のような歩みですね」

「ええ。少々、身体が重くて」

 

 振り返ったゼファーさんが、私の足元へ視線を落とす。

 

「検査は、いかがでしたか?」

「幸い、大きな異常はないそうです。ただ、しばらく休養するようにと」

「……そうですか。よかった」

 

 ほっとしたように微笑むゼファーさん。

 

「昨日のあなたは、晴嵐そのものでした。あれほど激しい風を起こして、無事に帰ってきてくれたこと……何より嬉しく思います」

「ご心配をおかけしました」

「いいえ。あの走りは、あなたが長く追い求めてきたもの。私にも、その風を止めることはできませんでしたから」

 

 そう言って、ゼファーさんは空を仰いだ。

 

「……改めて、おめでとうございます。ついに、3つの風をつかまえましたね」

「ありがとうございます。ゼファーさんのおかげです」

「ふふ。私はほんの少し、追い風を送っただけですよ」

 

 その謙遜に、思わず微笑む。

 

「ですが、次は穏やかな風でお願いしたいところです」

「ご安心ください。私も二度とあんな走りはしたくありません」

「あら……」

 

 ゼファーさんが目を丸くする。

 

「ふふっ。よほど大変だったのですね」

「ええ。文字どおり、身に沁みました」

 

 珍しく声を立てて笑うゼファーさんにつられ、私も小さく笑った。

 

 それから2人で寮まで歩く。

 

 ゼファーさんは私の歩調に合わせて、いつもよりゆっくりと歩いてくださった。

 こちらから頼んだわけではないし、彼女も何も言わない。

 その心遣いが、ありがたかった。

 

 美浦寮の玄関に着くと、ゼファーさんが足を止めた。

 

「では、私は少し庭へ。今日は風が気持ちよいので」

「そうですか。私は部屋に戻ります」

「ええ。どうか、ゆっくり羽を休めてくださいね」

「はい。ありがとうございます」

 

 軽く頭を下げ、玄関をくぐる。

 

 さて、ここから自室までは階段がある。

 

 ……エレベーターを使おう。

 

 昨日までなら考えもしなかった選択に、思わず苦笑する。

 背後から吹き込んだ風が、そっと背中を押した。

 

 


 

 

 美浦寮、自室。

 

 エレベーターを降り、どうにか自室へ辿り着いた。

 

「ただいま戻りました」

「あ、お姉ちゃん! おかえり!」

 

 机に向かっていたレヨが、ぱっと顔を上げた。

 検査はどうだったのかと尋ねる妹に、大きな異常はなかったことを伝える。すると、あからさまにほっとした顔をされた。

 

「よかったぁ。昨日、すごいことになってたから……」

「ええ。私も少々驚きました」

 

 鞄を置き、ベッドへ腰を下ろす。

 

 ……ようやく座れた。

 

 背中を丸めて息を吐くと、レヨが心配そうに覗き込んできた。

 

「……本当に大丈夫?」

「故障はありません。ただ、しばらく休養が必要だそうです」

 

 それでも疑わしそうな妹に苦笑する。

 確かに、今の私は随分と情けない姿を晒していることだろう。

 

「そうそう。レヨには、先にお伝えしておくことがありまして」

「なあに?」

 

 私は姿勢を正そうとして、思い直した。

 ……このままでよいだろう。

 

「次のマイルチャンピオンシップを最後に、引退することにしました」

「……そっか」

 

 レヨは目を伏せ、少しの間黙っていた。

 

「驚かないのですね」

「うん。なんとなく、そんな気はしてたから」

 

 隣に腰を下ろした妹が、私の顔を見上げる。

 

「今年は香港にも行かないし、お姉ちゃん、ずっと天皇賞のことばっかりだったでしょ? だから、もしかしたらって」

「なるほど。よく見ていますね」

 

 感心していると、レヨは少し寂しそうに笑った。

 

「……もう、走りたいレースはないの?」

「そうですね。やりたいことは、もう大体やりましたから」

 

 短距離も、マイルも、そして中距離も。

 随分と欲張ったものだが、とうとう手が届いた。

 もちろん、勝ちたいレースを挙げればきりがない。しかし、いつまでも現役でいるわけにもいかないだろう。

 

「それで、お姉ちゃん。引退したらどうするの?」

「ひとまず、指導ウマ娘を目指すのもよいかと考えています」

「へえ! もう決めてるんだ!」

 

「いえ、まだ考えているだけですよ。勉強も必要でしょうし、海外を見て回るのも面白そうですしね」

 

 レヨがきょとんとする。

 

「……それだけ?」

「それだけ、と申しますと?」

「もっと色々、予定立ててるのかと思ってた」

 

 む。そう言われても、まだ引退すらしていないのだ。

 

「これから考えればよいでしょう。時間はたっぷりあるのですから」

「……お姉ちゃんって、そういうところは意外と適当だよね」

 

 失礼な。

 とはいえ、否定するほど具体的な計画があるわけでもない。

 

 レヨは少し考え込むと、ふと何かに気づいたように顔を上げた。

 

「じゃあ、マイルチャンピオンシップが最後なんだね」

「ええ。そうなります」

 

 妹は私を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 

 やはり、寂しいのだろうか。

 

 そう思った次の瞬間。

 

「そっか! じゃあ、ラストランを勝利で飾れないなんて残念だね、お姉ちゃん!!」

「……ほう?」

 

 思わず耳が立った。

 

「だって、バクシンオーさんも、フライトさんも、メジャーさんも最後は勝ったんでしょ? メジャーさんなんて有馬記念だよ!」

「……ええ。そうですね」

 

 レヨは満面の笑みを浮かべている。

 

「なのに、お姉ちゃんだけ負けちゃうんだね! かわいそう!」

 

 ……この小娘(クソガキ)。

 

 そういえば、かつてメジャーさんの引退に際して、私も似たようなことを申し上げた覚えがある。

 まさか、今度は自分が言われる側になるとは。

 

「ふふ。随分と大きく出ましたね、レヨ」

「だって、今のお姉ちゃん、立つのも大変そうだもん!」

 

 言い返そうと、思わず腰を浮かせる。

 

「……っ」

 

 太腿が悲鳴を上げ、私はそのままベッドに沈んだ。

 

「あははっ! ほら、やっぱり!」

 

 楽しそうに笑いながらも、レヨは私の肩に手を添えてくれる。

 

「もう、無理しないでよ。ちゃんと元気になってから勝負しようね」

「……ええ。もちろんです」

 

 もっとも、万全には戻せないだろう。

 

 それでも。

 

「覚悟しておきなさい。最後の最後まで、そう簡単に勝たせてあげるつもりはありませんよ」

「望むところだよ、お姉ちゃん!」

 

 妹が、にっと笑った。

 

 まったく。

 引退すると聞いて、もう少し寂しがるものかと思っていたのだが。

 

 ……いや。

 この子が、そんな遠慮をするはずもないか。

 

 思わず笑みがこぼれる。

 最後のレースで妹と競えることを、嬉しく思う。

 もちろん、勝利を譲るつもりなど毛頭ない。それはきっと、この子も同じなのだから。




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晴嵐はいちおう帰ってくるやつだからね。
こんだけズタボロなら勝てると無礼無礼(なめなめ)してるレヨちかわいい。G1・16勝やぞ相手は。
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