驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
トレセン学園、練習コース。
傾いてきた午後の日差しが目を焼く。
夏の名残を引きずる風、鳴りやまない蝉の声が耳を打つ。
残暑、まとわりつく空気を切り裂いて私は走っていた。
右回りのコーナーを曲がる。
4コーナー半ばで左脚を蹴り込み加速、一気にトップスピードへ。
冬枯れの中山レース場を練習コースに重ね合わせながら、前をゆく
ゴール板を抜け、減速して息を整えながらラチをくぐった。
トレーナーさんはストップウォッチを片手にクリップボードにタイムを書き込んでいる。
「いかがでしたか」
「……ええ。フォームも崩れていませんし、加速の立ち上がりも理想的です」
──このままでいいでしょう。
トレーナーさんの声は穏やかだった。
なのに、胸の奥に何か冷たいものが落ちる音がした。
これで、いい。……本当に?
理想に近づけたはずなのに、なぜか風が止まったように感じた。
動けないまま、口だけが勝手に動いた。
「……このままで」
思わず小さく繰り返す。
そんな私にトレーナーさんは何も言わず頷くだけだった。
練習後、タオルを首にかけてベンチに座る。
眼前のコースでは次の組が並走練習を行っている。同じくスプリンターズステークスに出走する先輩の追いきりだろう。
ぼんやりと空を見上げながら独りごちる。
勝ったのに、なぜ……こんなに静かなんだろう。
少しでも考える取っ掛かりが欲しくて、私はセントウルステークス直後に思いを馳せた。
レース終了直後、まず私を出迎えてくれたのはバクシンオーさんだった。
「素晴らしいッ! まさに理想的ッ! 花丸を差し上げましょうッ!」
嬉しかった。心のどこかが、確かに震えた。
こうして褒めていただける日を、どれだけ夢見てきたことだろう。
身に余る光栄だった。
だがその爛漫な笑顔を素直に直視できない私がいる。
レース運びはバクシンオーさんの言うとおり完璧だったはずだ。
だというのに何だというのだろうか。このなにかが足りないという焦燥感は。
理想に届いたはずなのに、どうしてだろう。
心の中に、風が吹かない。
そんな私を、バクシンオーさんは笑顔を崩さないまま続ける。
「……次も、期待しておりますよ」
その言葉にはっと目線をあげる。
目の前にはいつも通り笑うバクシンオーさんがいたが、私はなにかその声に陰りのようなものを感じた気がした。
ウイニングライブを含めてその日のスケジュールを終え、控室へ戻る。
そんな私を出迎えてくれたのはフライトさんだった。
「お疲れさま。……少し顔がこわばってるよ。はやくシャワーを浴びてきたら」
そう言われて思わず頬に触れる。
いけない、理想の私でいなければ。
フライトさんに促され控室の簡易シャワーで身ぎれいにする。
そんな私に、なにくれなく世話を焼きながらフライトさんは静かに続けた。
「完璧なレースだったって、みんな言ってたけど……あまり嬉しそうじゃないのね」
なにか答えようとして、口を開いて、何もいえず閉じた。
この心を言葉にするすべを、私は持たない。
そんな私の髪に櫛を入れながらフライトさんは続けた。
「いいの。ベストコーデだと思っていたのに決まらない、そういう日もあるよ。そういう時は自分自身と向き合ってみるのもいいかもね」
フライトさんのあの言葉はどういう意味だったのだろうか。
そう考え込んでいるとトレーナーさんから声をかけられた。
「おや、もう上がってもよろしかったのに」
他のウマ娘を指導してきたのか、思ったより陰っていた陽の光を背にトレーナーさんがやってくる。
ゼファーさんも一緒だ。
思わずトレーナーさんに問いかける。
「……このままで、いいんですか?」
「ええ。十分に仕上がっています。今は焦らず、整えることに集中を」
その言葉に俯いてしまう。
“整える”。勝てる。完璧。理想的。
……なのに、心のどこかで何かが空回りしてる。
トレーナーさんは一瞬だけ私を見て、ゼファーさんの方を振り返った。
「今日はここまで。切り上げましょう。私はこの後取材がありますので、ゼファー、後は頼みましたよ」
「はい、万事お任せください」
その言葉に従い、私は美浦寮へと歩き出した。
どこか満たされないものを抱えたまま。
夜、美浦寮、自室。
部屋に帰り着いてベッドの端に腰を下ろした瞬間、足の奥からじりじりとした熱が這い上がってきた。
心臓の拍動がうるさい。喉が渇く。
──じっとしていられない。
頭ではわかっている。本当は良くないことだ。
トレーナーさんも、今日は切り上げろと言っていた。それでも、身体のどこかが叫んでいる。
まだ終われない。
私は立ち上がる。
ジャージのチャックを上げる音が、部屋の静けさを裂いた。
──トレーナーさんは“ダメ”とは言っていない。
そう小さく呟いて、自分への言い訳を口にする。
あまりに稚拙な詭弁だ。でも、到底抑えきれそうにない。
廊下に出る。
ドアを開けたところで、メジャーさんと鉢合わせた。
ジャージ姿、肩にタオルを掛けている。
どうやら練習を終えて帰ってきたところらしい。
「なんだ、自主練か? 暗くなってきたから気をつけろよ」
いつも通りの声。
それだけの言葉なのに、妙に遠くから聞こえる気がした。
私は、はい、とだけ答える。
幸いメジャーさんは、この手のことにいちいち口を出すタイプではない。
そのことにほんの少し感謝しながら、私は寮の玄関ドアを押し開けた。
「──ああ、今部屋を出るとこをすれ違いましたよ。──ええ、また思い詰めてるんでしょうね。じゃあゼファーさん、よろしく頼みます」
寮を出てしばらくしたところで後ろから声をかけられる。
「セミラミスさんも夜風に吹かれにですか」
振り向くとそこに居たのはジャージ姿のゼファーさん。
無断での自主練に出ようとしていたところで、あまり会いたくない人と遭遇してしまった。
ばつの悪い思いをするが、ゼファーさんは私の明らかに自主練の恰好には触れずゆったりと私に合わせて並走してくる。
「私もかつては天つ風を追って走っていました」
ヒトの歩くのよりは幾分速い
この場合の天つ風とは“マイルの皇帝”ことニホンピロウィナーのことだろう。
バクシンオーさんよりさらに前、短距離路線そのものの開拓者。
ゼファーさんの憧れの人だと聞いたことがある。
ゼファーさんも、きっと私と同じだったのだろう。
「……完璧な走りではありましたが、理想の再演が望みでしたか?」
そうだ。いや違う。
相反する言葉が頭の中で響く。
そんなつもりじゃないのに。違う……違うはずなのに。
「同じ風が二度吹くことはないのですよ」
わかってる……そんなこと、もうとっくに。私は、バクシンオーさんじゃない。
でも、じゃあ私はどうすれば……。
歩調が乱れ、止まってしまいそうになる。
ゼファーさんは何も言わず歩調を緩めて止まった私に寄り添う。
「このまま夜風に吹かれるのも一興ですが、今は戻りましょう」
私は言葉を返さず一歩踏み出す。
……なら、もう一度探さなきゃ。自分の風を。
スプリンターズステークスは間近に迫っている。
当日の関東地方はは未明から日中にかけて雨の予報だった。