驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
同時刻、中山レース場、重賞用控室。
集合がかかるまであと1時間弱。
私は更衣スペースの姿見の前で、いつものように勝負服を身に着けていた。
……調子は、悪くない。むしろ上々だ。
月始めのセントウルステークスでの走りから、ピークを早く持ってきてしまったかと心配していたがそんなことはなかった。
トレーナーさんの調整は理想的だ。
インナーの上に身につけるボディアーマーを手に持ち上げ身に着ける。
万が一の際に私の命を護るポリカーボネートと
その側面のスロットには標準より2本少ない重りが収められ、検量委員の検印が押された封印が施されている。
いつもと同じフィット感、練習の時と同じ重さ。
だというのにどこか違和感を覚える。
聞こえるはずのない雨音が耳を打つ。
昼休みに見に行った芝コースはたっぷりと水を含んでいて、重バ場どころか完全に不良だった。
発表も昼前まで重バ場だったが不良と更新された。
良バ場なら、怖いものなんてなかった。
理想をなぞればいい。脚が勝手に前へ出て、弾むターフが身体を押し上げてくれる。
いつも通り、その一言で、すべてが約束されていたはずだった。
けれど今日は違う。
脚を踏み出すたびに地面が沈む。跳ね返してくるはずの感触がない。
わかっている。理想の後追いでは理想に届かないことくらい。
それでも、いまさら理想を捨てたら、どう走ればいいのか。
目線を上げる。
紙のような顔色の赤服に着られたウマ娘が、鏡越しにこちらを不安げに見つめていた。
勝てるはずなのに、そう思えない。信じた瞬間に、何かが崩れそうで。
今の私は、この勝負服に、相応しくない。思わず震える手で
──良バ場なら、迷わず信じられたのに。
手にサッシュを持ったまま、私はカーテンをくぐった。
目をタブレットに落としていたトレーナーさんが手元からこちらを向き、目線があった。
「……怖い、ですか?」
穏やかな、主語のない問い。
走るのがだろうか、負けるのがだろうか。いや違う。
手元に目線を落とす。
理想が、誓いが、その象徴たるこの純白の襷が。
怖い。でも、それでも。
「それは、いまのあなたを縛るものですか?」
その言葉が耳に刺さった瞬間、空気が止まったような気がした。
返そうとした声は、喉の奥で音にもならない。
視線を落とす。
手のひらにつややかな布の感触。
理想の象徴たる白襷が、静かに光を吸っている。
返事の代わりに、ゆっくりと握っていた手のひらを開き、サッシュの皴を伸ばす。
そのまま襷を身に着け、背中に通して脇で結ぶ。
結び目を整えるたびに、胸の奥のざらつきがほどけていく気がした。
トレーナーさんはなにも言わず見守ってくれている。
──あたしは、バクシンオーさんを超えるウマ娘に、ぜったいなります!
それは、始まりの記憶。
心のどこかで、幼い声が聞こえた気がした。
なる、んじゃない。超えるんだ。
壁の姿見を振り返る。
かつて理想としていた強さの象徴。
譽高き赤い軍服、必勝を誓う白襷。
そうありたいという思いをこめた勝負服。
そのウマ娘は、もはや服に着られてはいなかった。
トレーナーさんが立ち上がり、私の正面に立った。
肩章や襷を整えたあと、いつものように私の肩に手を置き、腕までなでおろす。
「行ってきなさい」
「──はい!」
そう返事をして、踵を返す。
ちょうど控室のドアを開けたタイミングで、パドックへの集合を知らせる放送が流れ始めた。
栗毛のウマ娘が角を曲がって行ってしまった後の廊下。
控室からは死角となる曲がり角に鹿毛のテールヘアーと膨らんだ二つ結びが揺れる。
「声をかけないのですか?」
「ええッ! セミラミスさんはもう独りで立てるはずですからッ!」
「おや、スパルタですね」
「──冷たい北風に晒されてこそ、
「……ふふ、これは一本取られました」
中山レース場、パドック。
降り続いていた雨は小雨になり、ヒトミミでも雨具が必要ないほどに落ち着いていた。
パドック内の人工芝と
私を含めた出走ウマ娘16名が思い思いにストレッチや準備運動を行っている。
G1というだけあって、荒天にもかかわらず色とりどりの横断幕が掲示されているのがよく見えた。
その中でも結構な割合を私に対するものが占めている。
私の名前や二つ名に関するものを目で追いながら、笑顔を作って方々へ手を振る。
すると揃いの雨合羽を着た見覚えのある集団が目に入る。ユタカオーさんとシンゲキさんに引率されたヴィクトリー俱楽部の面々だった。
墨書されたようなフォントの『スピードこそ真理』『驀進娘』といった横断幕に思わず笑みがこぼれる。
私の順番が回ってきたので、ステージにのぼってアピールを始める。
「がんばってねー!」
「応援してるぞ!」
応援は嬉しい。
だけど、自分を応援されているというより“理想”を応援されている感覚がぬぐえない。
桜花賞、NHKマイル、安田記念。勝つたびに声援は増えた。だがそれと反比例するように、自分を見失っていくような気がしてならない。
アピールを終えてステージを降りると、次の順番のサンディアユさんとすれ違う。
星空のような夜会服を纏った彼女は、前を睨んで全身に火が灯ったような緊張を全身から立ち上らせている。
彼女も全力で仕上げてきているようだった。
これが、理想の舞台のはずだった。良バ場だったなら、きっと──。
白襷をしごいて広げなおす。濡れた布の重さが、理想の重さに重なって感じられる。
雨でやや滑る芝、蹄鉄がわずかに沈むたび反発が鈍く感じる。本バ場はきっとこんなものではないだろう。
……これが今日の現実、胸の奥で呟く。
パドックでのアピール時間を終え、係員の誘導に従って地下バ道へと進む。
通路にコンクリートの地面に打ち付けられる蹄音だけが響く。
私はゆっくりと歩みを進め、出口のところで前方に立つ小柄なウマ娘の背中を見つけた。
マーチャンは立ち止まり、少し振り返るようにして私に目をやる。
アイボリー色の胴とスカート、海老色の袖と襷。
気品のある王冠と襷につけられたリボンが全体のアクセントとなっている。
ラブリーなウルトラマスコットたるマーチャンのこだわりが詰まった勝負服が、曇り空の光に照らされる。
似ているようで、まったく違う。
深紅の服、純白のスカートと
輝く
誉と誓いと理想で固めた鎧としての勝負服が逆光にきらめく。
お互いに何も言わない。
いつかマーチャンは言っていた。純白は病院を連想するから好きじゃない、と。
ならば、鮮血を思わせる深紅もまた彼女にとっては好ましくないのだろう。
同じような色で、こんなにも違う。
思えば、あの子と私は似ているのかもしれない。
どちらも速さにすべてを賭けて、ただ真っ直ぐに前を見てきた。
だけど、向いている先が違う。
私は“理想”になろうとして走ってきた。
彼女は“世界”に残るため走っている。
同じ速さでも、意味が違う。
私が掴もうとしているのは過去で、彼女が求めているのは未来だ。
……認められない。
もし、彼女のように誰かに刻まれることでしか“速さ”を証明できないのなら、私が信じてきた“理想”は何だったのか。
その問いが、胸の奥で冷たい雨のように落ちる。
マーチャンが軽くこちらを見上げて、笑った。
計算され尽くしたラブリーな笑顔で。
──マーちゃんは、永遠の、世界的スーパーマスコットになる予定なので。
いつだか彼女の言っていた言葉が思い出される。
やっぱり私と彼女は違う。
私は、理想に届かないことが怖い。彼女は、忘れられることが怖い。
同じ“速さ”を追いながら、見ているものはまるで違う。
……認めたくない。
そんな私に、彼女は微笑みを崩さず言った。
「覚えていてくださいね。マーちゃんのことを」
うまく表情を作れているだろうか。
きっとできていないだろう。
それでもいい。ターフの上に、笑顔は必要ない。
「……私のことも、覚えていてください。見ていてください、私の“理想”が──本当に届くかどうかを」
言い終えて、私は無意識に白襷をしごきなおした。
指先に伝わる布の冷たさが、胸の奥のざらつきを少しだけ鎮めてくれたような気がする。
彼女の返事を待たずそのまま床を蹴り、曇り空のもとへと飛び出す。
『3枠5番ノルデンセミラミス、1番人気です。マイルを制した女王が短距離へと侵攻、重いバ場でその速度を発揮できるか』
歓声が降りしきる中、不良のターフを蹴った瞬間泥が弾けた。