驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで 作:八幡悠
──どうにもあの瞬間以降、世界は少しだけ変わってしまったらしい。
放課後、チームアダフェラ、チームルーム。
私はこの日、トレーナーさんのそばで書類作成に精を出しながらここ数日のことを思い返していた。
手元にあるのはウマ娘競走勝負服一部変更申請書、いわゆる一変書だ。G1で着用する勝負服の作成後、何らかの改造を施す際に必要となる書類である。
改造とは
というのも、最高時速70kmで走るウマ娘の勝負服から勝負服の部品が脱落すれば大事故に繋がりかねず、特に初めて使用される素材や機構には安全性試験が義務付けられているためだ。
……ほとんどのウマ娘が基本的に制作費がURA持ちの最初の1着以外勝負服を持たず、年度代表の表彰で新勝負服の授与が褒章になる理由がわかるというものだ。個人で新規に作ったら諸々で4桁万円行きかねない代物と聞いてビビるのが毎年の入学すぐのレース座学の風物詩となっているぐらいなのだから。
「とはいっても毎回何枚書類にサインすればいいんですか」
「費用はURA持ちなんですから文句言わないでください」
トレーナーさんの言う通り、年度代表たる私への報奨は無制限かつURA費用負担での勝負服改造許可である。
本来なら略綬や勲章を1つ追加するたびに費用が発生するところ、既存勝負服からの流用や既に認可済みの素材や構造である限り
そういうわけで、今私は高松宮記念で得た優勝レイ色のリボンを金具に取り付ける申請書類の束にサインをしている。
さて、無心でサインをしながら私の意識は過去へと遡る。
たしかに世界が変わったあの日、スプリンターズステークスの出走表は記憶のとおりに戻った。
だが記憶どおりでない部分もあった。時系列を遡ってもう一度確認してみよう。
記憶どおりの事項がこれだ。
まず、4月6日。ダイワスカーレットの大阪杯勝利。これは先日のことだからあまり関係ない。
次に、3月30日の高松宮記念。私自身の勝利を含む結果は記憶通りで、このレースにはアストンマーチャンは出走していない。
そして、3月9日のレヨネット弥生賞5着、これも記憶通りだが今回の件には関係ないだろう。
最後に、2月10日シルクロードSマーチャン10着。2桁着順? と思った覚えがあるのでこれも間違いない。
ここまでの時系列で、明らかに記憶にない事件が起こっている。
それは、3月3日のニュース記事。およそ1ヶ月前にアストンマーチャンが体調不良で高松宮記念回避を発表していることだ。
メッセージアプリを確認すると、何度かマーチャンへメッセージを送っていたようだが既読がついていない。
マーチャンの同室のフライトさんをそれとなく訪ねてみると、先月始めから自宅療養しておりその後はなにも知らないことがわかった。
余談だが、マーチャンのスペースはあの生活感が無かった部屋ではなく、彼女のマスコットで埋め尽くされた見覚えのあるものだった。フライトさんが時々手入れをしているらしい。
しかし自宅療養か……。
確か彼女の実家は開業医、母親が医者だったと記憶している。前に、似ているね、と話題にしたことがあった。
だがこれだけでは彼女の様子は確定しない……。
……いや、なにを言っているのだ。1ヶ月、既読がつかない時点で相当な──。
──ザザッ──ピン、ポン、パン、ポーン。
その思考に楔を打ち込むように呼び出しのチャイムがスピーカーから響く。
思わず耳を向けたスピーカーから流れてきたのはフジキセキさんの声。
『高等部1年美浦寮、ノルデンセミラミスさん。ノルデンセミラミスさん。至急、栗東寮管理棟応接室まで来てください。繰り返します──』
それはあまりにも不可解だった。
呼び出されるような心当たりがないのもそうだし、そもそも美浦所属の私がなぜ栗東に呼び出されるのか。しかも緊急ときた。
トレーナーさんを見やると、怪訝そうに眉をひそめ、次いで眉間にシワが寄った。
そして腰を浮かせかけた私を手で制すると、時を同じくして鳴った携帯端末を取る。
「はい、吉富です。──今の呼び出しはどういうことですか、駿川理事長秘書」
電話の相手はたづなさんのようだ。こころなしか言葉に棘がある。
一応、礼儀として電話の内容を聞かないように耳を伏せた。
何事か2人の間で会話が進み、トレーナーさんの眉間のシワが解かれて一つ息を吐いた。
「──なるほど……そこまでですか。……分かりました。ただし、私の同席が絶対条件です」
何事かたづなさんと話がまとまったらしい。
トレーナーさんは電話を切ると、ペンを置いて立ち上がりドアの横に掛けられたトレンチコートを手に取った。
「……行きましょう。あまり時間もないようです」
背負っていきましょうか、と提案するも断られ、1輪タイプのセグウェイに飛び乗ったトレーナーさんとともに原付ほどの速度で栗東寮へと向かう。
フジキセキさんの案内で寮の応接室に通されると、緑の制服のたづなさんと共に見知らぬ大人のウマ娘が座っていた。
ソファから立ち上がった女性を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
顔立ちは違う。年齢も、纏う空気もまるで違う。
それでも、視線の向け方と、ほんのわずかな目尻の下がり方に、見覚えがあった。
一礼し何事か話そうとする彼女を制して、たづなさんが代わりに口を開く。
「本日は急な呼び出しとなり、申し訳ありません」
「話の前に確認させてください。面会は、私が同席する形でのみ検討します」
「はい、承知しています」
トレーナーさんが半歩前に出てのそんなやり取りの後、一同着席して話が始まる。
私の直感通り、彼女はアストンマーチャンの母親であった。
そして彼女の口から語られた言葉は、あまりに受け入れがたいものだった。
「突然お時間をいただいて、申し訳ありません」
彼女はそう言って、深く頭を下げた。
「娘の状態については……詳しくは、ここでは申し上げられません」
耳がヘタるのを感じる。可能ならその先を聞きたくはなかった。
「ただ、競技を続けることは、もう難しいと判断されています」
彼女は一拍置いて、視線を上げる。
……なんということだろう。こんなことが、こんなことがあって良いのだろうか。
「それでも本人が、どうしても一度だけ……貴女に、会いたいと申しました」
そして、少しだけ声を落とす。
「勝手なお願いだとは承知しています。それでも、できることなら……勝負服で、会っていただけませんか」
私はすぐには答えられなかった。
──道半ばでの引退。
そういうことがある、ということは知っていた。だがあくまでも知識としてだ。
まさか、私の友人に、ライバルに、そのようなことが起ころうとは。
「……少し、お時間をいただいても……よろしいですか」
それだけを、絞り出すように答えるのがやっとだった。
「……ありがとうございます」
彼女はもう一度、深く頭を下げた。
都内某所、大学病院。
トレーナーさんの運転でトレセン学園から30分あまり、マーチャンが入院しているという病院へと到着した。
たづなさんと彼女は私が勝負服へと着替えている間に彼女の車で先にこちらへと向かっているはずだ。
チャリ、と腰の金具が鳴り、沈みそうになっていた思考を現実へと引き戻す。
正直言って心の準備なんて全くできていないし、できるようになることもないだろうが。
ロビーで待っていた彼女に従って病棟を歩く。
周囲の視線が私に集まる。
無理もない。だが幸い、話しかけてくるものは居なかった。
トレーナーさんがスッと壁になってくれる。
エレベーターに乗り込んだ。
密室でのの沈黙に耐えきれず、思わず口を開く。
「……私にとっては、勝つか負けるか最後までわからない相手でした」
……言ってしまった。
まだ、走ると思っていたのに。でした、と。
「一緒にいつか英国で走ろう、と話していたのに──」
その言葉の続きを、見つけられなかった。
ただ、視線を正面に向けたままトレーナーさんは、何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、彼女は目を伏せた。
エレベーターを降りてしばらく行くと、彼女はある部屋の前で立ち止まる。
その部屋の表には面談室との札がかかっている。
「あまり長くは話せません。5分ほどでお願いします」
彼女はそう私に言う。
そんなに悪いのか、という私の思いを読み取ったのか、安心させるように続けた。
「幸い容態は安定しています。今日は調子が良さそうですが、少し疲れやすいので」
そう促され、意を決してドアをノックする。
すぐにドアが開く。
中からドアを開けて、私と入れ替わるように出ていったのはたづなさん。いないと思ったらここにいたらしい。
ドアが閉まる音。
そこはさして大きくない面会室。簡素なテーブルと4脚の椅子が置かれた個室だった。
その奥側に、勝負服姿のアストンマーチャンが座っていた。
視線は合った。
けれど、マーチャンは立ち上がらなかった。
「久しぶり、なのです」
その少し掠れた声がマーチャンの声だと気づくのに、半拍ほどの時間を要した。
その背後、壁際に病院の車椅子が1台置かれているのが目に入る。
──ああ。
座らないのですか、とマーチャンに促されるままに椅子を引く。
マーチャンのふくよかだった頬の丸みは、すっかり失われている。
袖から覗く手首も、スカートの下の脚も見る影もなく細い。
もはやマーチャンは競技に戻れる状態ではないことが一目でわかった。
……わかってしまった。
椅子に座る彼女は思っていたよりも小さく見えた。
それでも、勝負服だけはきちんと整えられている。
それが矜持だと示すかのように。
息を吸って、吐く。
何かを言うべきだと分かっているのに、口は開いてもその先が続かない。
「……来てくれて、ありがとうございますです」
「……うん」
マーチャンはそう頷くと、彼女の拘りがつまった勝負服、その襷を手繰り寄せた。
ちょうど私の白襷と対になるような赤い海老色の襷。
芝の上で彼女の存在を最大限引き立てるのだというそれには、王冠やリボンにも使われている濃いグリーンを真鍮で縁取ったメダルが輝いている。
マーチャンはそのメダルをたどたどしい手つきで外すと、私へと差し出してきた。
「……連れて行って、欲しいのです」
「わかった」
嫌も応も、ありはしなかった。
そしてどこへ、という目的語も、私たちの間には必要なかった。
──マーちゃんもアスコットレース場には一度行ってみたいので、機会があったらご一緒しましょう。
英国、ロイヤルアスコットレース場。近代レース発祥の地にして、2人で走ろうと約束した場所。
もはや叶うことはない、あの日のカフェテリアでの約束。
ひんやりと冷たいその手からメダルを受け取り、自らの白襷へと取り付ける。
手を離すとその重みでするりと襷が下がり、あるべき位置で止まった。
それ以上、言葉が続くことはなかった。
私たちの間に、それ以上の会話は要らなかったからだ。
沈黙の中に控えめなノックの音が響く。
「そろそろ……」
どうやら、決められていた時間のようだった。
ドアから入ってきた母親とマーチャンに一礼する。
軽く手を振るマーチャンに見送られ、面談室を後にした。
こうして今日この日から、私の勝負服には新たなパーツが追加されることとなった。
……そして4月21日、アストンマーチャンのトゥインクルシリーズ引退が公式に発表された。