第四章:1 幻のような世界
今この時ほど世界五分前仮説という言葉が、脳裏を鰯の魚群の如く過ぎった事は無い。
だってそうだろ? そろそろ還暦間近の俺が、気が付けば高校生時代の制服を着ているんだ。
そして、俺が経験した事が無い高校生活の記憶が頭に焼き付いている。そこにアキナとヒカリちゃんはいなかった。いや、正確に言えば俺とアキナは親友ではなかった。
何せクラスが違う。そして生徒の中には俺の知らない人間がいくらか混ざっていたのだ。
「藍川クオン、石川クルミ……?」
マジで誰だよお前ら。知らねえよこんなやつら。俺の高校時代にこんな名前のやつらなんざいなかったはずだ。
だけどこの二人に呼続スオウを加えた中にアキナは居る。生きているんだ。
スマホを取り出して日時を確認する。やはり俺の中にいつの間にか刻まれた記憶に間違いはない。今の俺は高校三年生だ。
「何がどうなっている?」
アキナ達の教室を横目に見ながら通り過ぎ、自分のクラスへ向かう間考える。
そもそも、俺は死んだのか? ここは天国が何かか? 確かに不摂生な毎日を過ごしていたが、とはいえ急死するほどバカな生活は送っていない。
じゃあこれは夢か? 会った事もない人間が出てくるのはまぁアレだが、無くはない可能性だろう。
ふと思い立ち俺は息を止める。一分程度止めても世界に変化が無いのでそのまま呼吸を再開する。窒息する夢を見ると大体目が覚めるものなんだが、どうにもこれは現実らしい。
「まるで誰かの妄想の世界に土足で入り込んだみたいだな」
俺の知っている人間と知らない人間が、アキナと笑って高校生活を過ごしている。傍から見たらただの日常だろう。だけど俺から見れば異常事態だ。
何せこの時期は既にアキナは失踪している。ヒカリちゃんを残してどこかへ消えてしまった。その絶望は未だに俺を蝕んでいる。
アキナを失ったヒカリちゃんは目に見えて意気消沈していた。
そんな彼女を見ていられなくて。助けたくて。でも俺じゃ何の助けにもならなくて。
結局失踪したアキナを探す手伝いをしていた矢先に、ヒカリちゃんも同じように失踪した。
もしも神やら悪魔やら運命やらが世界に在ったなら、その横面を思い切りぶん殴ってやりたい。どうしてアキナだったんだ。どうしてヒカリちゃんだったんだ。あの二人が、いったい何をしたと言うんだ。
「……そうだ、ヒカリちゃん。ヒカリちゃんはどうなっているんだ?」
一度考え出すと俺の胸中を焦燥感が支配する。この世界で彼女はいったいどのように生きているのか。存在していない、という可能性は考えない。もしヒカリちゃんがここにいないと言うのなら。あぁ、ならばヒカリちゃんを探す旅に出ても構わない。この世界で生きる目標にしてもいい。
「だがそれは、この街を全て探し終わってからだ」
気になった俺は先生に早退する旨を伝えて、病院に向かって走り出す。もしかしたら家や学校にいるかも知れないが、一先ず可能性の高い場所を探す。
しかし──。
「おかしい。どうして病院に人の気配が無いんだ?」
病院は奇妙な静寂に包まれていた。人間の気配を感じない。
あえて言うのなら停滞。何と言うか、思い出のまま止まっているような感覚がここにはある。
どうやら誰かの妄想の世界というのはあながち間違いでも無いらしい。どうせなら俺も完全にこの世界の住人にしてくれれば良かったのに。
そうであればこんな俺でも不自由なく暮らせただろうに。こんなにアキナやヒカリちゃんに心を乱される事も無かっただろうに。
「……まぁ、そんな俺はもう俺じゃねえよな」
それは前世の。
何となく流されて生きて、そのまま死ぬ。代り映えの無い安定した、生きながら死んでいるような灰色の毎日。確かにそれは一種の幸福でもあるのだろう。
もし俺がアキナと出会わなかったら。もし俺がヒカリちゃんと出会わなかったら。あぁ、確かにそれなら前世の生き方を繰り返していただろうさ。ぬるま湯に浸ったような人生は、逆に言えば波乱の無い平和な人生と同義であるのだから。
だが俺は知ってしまった。アキナとヒカリちゃんと共に生きる幸福を。親友と恋をした女の子と過ごす温かさを。知ってしまった以上、それを捨てるなどという選択肢を選ぶつもりはない。
「病院がこの状況な以上、ヒカリちゃんはいないか。……ならこの世界では病気になっていないのか?」
念の為、ヒカリちゃんがいた病室も覗いてみたがやはりいない。なら次は街の様子を確認してみるか。俺が成人まで過ごした記憶と偽りの高校生活記憶。その中の景色と照らし合わせて、違いを確認おかないとな。
病院から外に出ると既に日が傾こうとしていた。どうやらここで時間を潰しすぎたようだ。さてどこから見て回ろうかと考えを巡らせたところで、誰かがこちらを見ている事に気付いた。
黒髪で青いメッシュの入った女子。というか高校で見た事がある。アキナと一緒に居た、この世界での友人枠なのだろう。確か名前は……。
「石川クルミ、だな? 確かアキナと同じクラスだったか。 誰かのお見舞いか?」
まぁ、ここには誰もいないが。俺がそう問うと石川クルミはただ首を傾げるだけだ。
「う~ん、おかしいなぁ。もしかしてと思ったけど、あなたは違うみたいだね」
いったい何が違うのか。石川クルミの中で何を腑に落としたのか。明らかに肩を落として去って行った。どうやら俺は勝手に失望されたらしい。
おいおい、そりゃあ何ともふざけた話じゃねえか。だがまぁ、いい。知らない人間に構っている暇など俺には無い。失望するならもう勝手にしてりゃあいいのさ。俺の知った事じゃない。
俺はヒカリちゃんを見つけ出す。待っててくれヒカリちゃん。たとえこの街にいなくても、この世界を総浚いにしてでも探し出す。もう二度と失ったりするものかよ。