俺の報告に、インカムの向こうで牧原先輩が息を呑むのが分かった。数秒の沈黙の後、彼の声は、これまでにないほどの冷徹な響きを帯びていた。
『愁也、聞こえるか! 方法は一つしかない。世界シミュレーターを、強制終了させる。そこにある異世界と接続されているメインフレームを破壊すれば、いったんは世界シミュレーターは止まることで、ゲートは維持できなくなり接続は解除されるはずだ』
その言葉は、あまりにも重い響きを持って、破壊されたサーバーフロアの静寂に突き刺さった。
「……ですが、それをすれば」
俺の言葉の先を、先輩は静かに肯定した。
『ああ。リュナ君は、二度と故郷には帰れなくなるだろう。少なくとも、我々の……今現在の技術では、再接続は不可能だ』
その非情な会話を、すぐ隣にいたリュナは黙って聞いていた。彼女の視線は、揺らめくオーロラの向こう、時折幻のように映し出される故郷の森へと注がれている。やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……待ってください、愁也さん」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「その……牧原さん、でしたか。その人の言う通りにしても、ダメです。たとえ、こちらのゲートを破壊しても、向こうの世界には『魔導書』が残っています。
あれは、二つの世界を繋ぐ『鍵』。それを持つ者がいる限り、彼らは何度でも、こちらの世界への侵攻を試みるでしょう。」
彼女の言う通りだった。俺たちは、あまりにも大きな問題を見落としていた。目の前のサーバーを破壊しても、それは対症療法でしかない。
根本原因は、向こうの世界に残されたままなのだ。
「それに……」
リュナは、目の前で揺らめく故郷への扉を、愛おしむような、そして悲しげな目で見つめた。
「今、私がこのゲートを通って帰ったとしても、待っているのは、私を追っていた敵だけです。私は、また追われ、逃げることになる。そして、また別のどこかで、誰かを巻き込んでしまうかもしれない」
彼女の碧眼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。だが、すぐにその涙を手の甲で乱暴に拭うと、彼女は俺に向き直った。その瞳には、もう迷いはなかった。
「この戦いは、私を追ってきた者たちが原因です。私のせいではないのかもしれない。でも、私がここにいるせいで、この世界の人たちが傷ついています。
逃げて、またどこかで誰かを巻き込むのは、もう嫌なんです。だから……ここで、私が終わらせます」
その言葉を合図にしたかのように、ゲートの奥から漆黒の影がゆっくりと姿を現した。
それは、俺たちがこの戦いの始まりで遭遇した、あの黒い獣。ゲートの守護者にして、因縁の仇敵。
その赤い瞳が、嘲笑うかのように俺たちを射抜いた。
リュナが、憎悪と絶望に顔を歪めて呟いた。
「……あいつ……! 間違いない……私の仲間たちを殺した、あの時の……!」
その姿を認め、俺たちの背後で最後の防衛線を築いていた第二小隊の兵士たちが、怒りに震えた。
「……あの化け物が……!」
「隊長の……かたきぃぃぃっ!」
一人の兵士の絶叫が引き金だった。彼らは、命令を待つことなく、残された最後の弾倉を手に、一斉に獣へと向かっていく。
「撃てえええええっ!」
満身創痍のヴァンガードたちが、最後の力を振り絞ってプラズマ砲を放つ。だが、その光は獣の黒い体表にはじかれながらも霧散し、わずかなダメージしか与えられていないように見える。
「私の専門は、対象の力を封じ込める『特殊魔法』。―――このゲートを、完全に封印します。そのためにも、まずはあの獣を…! あの時、私を庇ってくれた仲間たちの…その仇を討ちます!」
「愁也さん! バッテリーを!」
リュナは、『魔法少女の杖』を手に取った。俺は、震える手で、バッテリーパックを、その杖に接続する。
「―――インフェルノ・バースト!!」
リュナの叫びと共に、純白の光の奔流が放たれる。それは一直線に黒い獣へと向かい、その巨体を飲み込んだ。凄まじい爆音と閃光が、サーバーフロアを揺るがす。
かろうじてその形を保っていたサーバーラックや今も動いているコンソールも巻き込んで光に包まれる。
だが、光が収まった時、そこにいたのは黒い煙を上げながらも、健在な黒い獣だった。融解した甲殻が、まるで生き物のように蠢き、みるみるうちに再生していく。
「くそっ……! 再生能力まであるのか!」
( だが、どんなシステムにも限界はあるはずだ。
過剰な負荷をかければ……あるいは、想定外の入力を与えれば……!)
獣は、報復とばかりに口を大きく開くと、凝縮された瘴気のブレスを吐き出した。
「危ない!」
俺は咄嗟にリュナの前に飛び出し、暴徒鎮圧用のシールドを構える。シールドに直撃したブレスが、ジュウウウッと音を立てて分厚い装甲を溶かしていく。長くはもたない!
「和泉さん!」
第二小隊の兵士の一人が、俺たちの前に躍り出た。彼のヴァンガードは片腕を失い、装甲はボロボロだ。
「ここは俺たちが! あんたたちは、あのお嬢さんを!」
彼はそう叫ぶと、残った仲間たちと共に、獣の前に立ちはだかった。彼らのプラズマ砲は、もうエネルギー切れ寸前だ。
それでも、彼らは退かなかった。隊長の、そして仲間たちの無念を晴らすために。
「愁也さん!」
「心配するな! だが、このままじゃジリ貧だ!」
俺はシールドで耐えながら、必死に周囲を見回した。何か、何か利用できるものは……! 視線の先に、火花を散らしながら垂れ下がっている、切断された極太の送電ケーブルが目に入った。
(あれだ……! あのケーブル……! あれだけの高圧電流を流し込まれたら、どんな自己修復機能だってショートするはずだ! システムそのものを、物理的に破壊するんだ!)
「リュナさん! あのケーブル…火花が散っている線の近くに誘導してくれ!あの怪物を ショートさせれば、動きが止まるかもしれない!」
「分かりました!」
リュナは即座に俺の意図を理解し、立て続けに魔法を放ち始めた。
「フレイムアロー!」
『きゅぴーん☆』
「フレイムアロー!」
『らぱん・あたっく!』
炎の矢は、獣に致命傷を与えるには至らない。だが、その射線は巧みにコントロールされ、獣を苛立たせながら、少しずつ、少しずつ、送電ケーブルのある方向へと追い詰めていく。
その間にも、第二小隊のヴァンガードが、次々と獣の爪の餌食になっていく。
『……ばってりーが、ありません……』
ついに杖が沈黙し、俺たちの弾は残り1回分。だが、獣は完全に俺たちの罠にかかっていた。最後の炎を避けようとした獣の巨体が、火花を散らすケーブルに触れた、その瞬間。
凄まじい放電が、獣の全身を駆け巡った。獣は甲高い悲鳴を上げ、全身を激しく痙攣させながら、その場に崩れ落ちる。再生能力も、もはや機能していない。
だが、その禍々しい赤い瞳から光が失われてはいない。
「これで…最後です!」
最後のバッテリーを取り換えながらリュナは叫ぶ。
『ふぁいなる! みらくる! ふらーっしゅ!』
「―――インフェルノ・バースト!!」
爆炎の後にはもはや何も残ってはいなかった。
世界シミュレーターの生き残っていたコンソールも含めて全部吹き飛ばしたようだ…。
「……やった……のか?」
俺は、溶けかけたシールドを投げ捨て、呆然と呟いた。
だが、安堵も束の間だった。目の前のゲートは、依然として半透明のオーロラを揺めかせ、脈動を続けている。
世界シミュレーターのメインコンソールも吹き飛んでいるのに……。
「……いいえ」
リュナは、静かに言った。
「―――ここからです」
彼女は、震える手で、懐からあの黒いマナストーンを取り出した。
「封印の儀式には、膨大な魔力が必要です。もうバッテリーは残っていないですが、ここまでの戦いで、この石が十分に力を蓄えてくれました」
リュナが石を強く握りしめると、石はこれまで見たこともないほど強く、まばゆい光を放ち始めた。
リュナは、足元に転がっていた、かろうじて原型を留めている最後の『魔法少女の杖』を拾い上げた。熱で歪み、ひび割れている。
彼女は杖をゲートに向け、攻撃魔法とは全く違う、静かで、荘厳な詠唱を始めた。
その時、ゲートの向こう側に、一瞬だけ、リュナの故郷の美しい森の風景が、幻のように映し出された。
(帰りたい……でも、今このゲートを閉じなければ、黄昏の旅団がこの世界にまでやってくる。ここも、もっと戦場になってしまう……!)
リュナの頬を、一筋の涙が伝う。
(ごめん。お母さん、お父さん、ヴィオラ、セレス、アンナ、エリー……。今は、まだ、帰れない……!)
故郷への訣別ではない。目の前の世界を守るため、帰る道を自ら断つ。それが、彼女の覚悟だった。
「―――古き門は閉ざされん。二つの世界を分かつ、聖域の楔よ。我が声に応え、永遠の静寂をもたらせ! ディメンジョン・ロック!」
杖から放たれたのは、破壊の光ではなかった。
ゲートを包み込むように広がっていく、無数の光の鎖。
ゲートは、まるで断末魔の叫びを上げるかのように激しく脈動し、抵抗する。リュナの身体が、その凄まじい反動に大きく揺らいだ。
「リュナさん!」
俺は、背後から彼女の華奢な身体を抱きしめるように支えた。
「俺が…俺らがいる! 一人じゃない!」
俺の言葉に、リュナはこくりと頷く。
光の鎖は、ゲートの抵抗をねじ伏せるように、さらに強く、固く絡みついていく。
音はなかった。
ただ、空間が静かに閉じていった。オーロラがその輝きを失い、揺めきが止まる。
最後に、中心で輝いていた魔法陣が小さな光の粒となり、キラキラと舞い散って、そして、静かに消えていく。それは、二つの世界の境界が、完全に断ち切られたことを告げる、静かで、しかし確かな封印の儀式だった。
後に残されたのは、破壊されたサーバーフロアの、完全な静寂だけだった。
「……終わった……」
最後の力を使い果たし、リュナの身体が、糸の切れた人形のように俺の腕の中へともたれかかる。
俺は、その華奢な身体を、壊れ物を抱きしめるように、強く、強く抱きとめた。
「ああ……終わったんだ」
俺たちの周りに、静かに横たわる、鉄の棺桶と化したヴァンガードの残骸を。
開いたままのコクピットハッチから、力なく投げ出された、誰かの腕を。
最後の瞬間まで獣に立ち向かっていた、機体は、胸部を完全に食い破られ、内部の計器が、まだ赤い火花を散らしていた。
彼らは、俺の指示で、ここに残った。
俺が「時間を稼いでほしい」と、そう言ったからだ。
世界の歪みは、ひとまず正された。
だが、その代償として、俺の世界は、もう二度と元には戻らないほど、歪んでしまった。
俺は、そのおびただしい数の死体を前に、ただ、腕の中の少女を抱きしめることしかできなかった。