システムエンジニアと迷いし少女の物語   作:書との契約者

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幕間第3話:AIが匙を投げた言語と、好奇心旺盛な言語学者

 あの脳波スキャン事件から数日。

 俺とリュナの間には、以前のような遠慮がちな空気の代わりに、少し気まずくも、どこか通じ合っているような不思議な連帯感が生まれていた。

 言葉はまだ拙い。

 だが、互いの視線や仕草に込められた感情を、以前よりずっと正確に読み取れるようになっていた。

 

 そんなある日の午後、牧原先輩が、一人の少女を連れてラウンジにやってきた。

「紹介しよう。今日からチームに協力してくれる、大学で言語学を専攻している天野 響(あまの ひびき)さんだ」

 

「どうもー! 天野響です! よろしくお願いします!」

 快活な声と共に、彼女はぺこりと頭を下げた。

 ……若いな。

 

 ラフなパーカーにスカートという出で立ちで、大きなタブレットPCを小脇に抱えている。歳は俺よりいくつか下、大学生くらいだろうか。

 その瞳だけが、年齢にそぐわないほどの知性と、抑えきれない好奇心で獣のように輝いていた。

 

「異世界が存在し、AI翻訳不能な言語があるなんて……。牧原さんからお話を聞いたときは、正直、信じられないくらい興奮しました! AI翻訳が当たり前のこの時代に、まさかこんなにワクワクするフィールドが残ってたなんて!」

 

 彼女の言葉通り、この世界では言語の壁は限りなく低い。

 生まれた時から高性能なAIと共に育つのが当たり前で、未知の言語を解き明かす「言語学」は、歴史や考古学に近い、アカデミックな趣味の学問と見なされがちだ。

 そんな逆風の中で、彼女は自らこの未知の領域に飛び込んできたというわけか。

 

「あなたがリュナさんですね!? お会いできて光栄です!

 あの、もし、もしよかったらでいいんですけど、何か少しだけ、お国の言葉で喋ってみてもらえませんか? あっ、もちろん無理にとは言いません! ただ、どんな響きなのか、純粋に聞いてみたくて……!」

 

 目を輝かせつつも、どこか遠慮がちに尋ねる響さん。その真摯な勢いに、リュナは戸惑いながらも頷いた。

 

「え、ええと……」

 リュナがおそるおそる故郷の言葉で何かを唱えると、響さんはすかさずタブレットを向け、その発音を録音し始めた。画面には、即座に複雑な音声波形が表示される。

 

「すごい……! 今の、喉を鳴らすような音……地球上の言語で言うと、アフリカの一部で使われる『入破音』に近いですけど、もっと複雑……! これ、どうやって発音してるんですか!?」

 

「ほう! 君が天野君か! 君の論文、読んだよ!」

 いつの間にか現れた如月博士が、興奮した様子で会話に割って入ってきた。

 

「『AI翻訳における概念置換の構造的欠陥』! 実に興味深い内容だった! 君の言う通り、AIは結局、既存のデータベースとの照合でしかないからな!」

「如月博士ですよね!? 論文、拝読してます! まさしく博士がおっしゃる通りで、どんなに優れたAIでも、データベースにない『文化』や『世界観』そのものは永遠に翻訳できないんですよ!」

 

 二人の学者は、まるで旧知の仲のように、常人には理解不能な早口の専門用語を交わし始めた。

 俺とリュナは、完全に置いてけぼりだ。

 

 しばらくして、ようやく落ち着いた響さんは、俺に向き直った。

「それで、愁也さんが作ったというマニュアル、見せてもらってもいいですか?」

 

 俺は、ぼこぼこに言われるんだろうなぁ……と思いながら恥を忍んで例の分厚いファイルを言語学の専門家へと手渡した。

 響さんは、それをパラパラと数秒めくっただけで、にっこりと悪戯っぽく笑って言った。

 

「なるほど……! ありがとうございます。うん、これは……そうですね、発想の転換が必要かもしれません!」

 あまりにも清々しい笑顔での宣告に、俺はぐうの音も出ない。

 

「愁也さんのアプローチは『答え』を先に教えるトップダウン型です。目的がはっきりしているビジネスの場なら完璧なんです。でも、未知の言語を学ぶときや、教えるときは、赤ちゃんが言葉を覚えるのと同じ。具体的な『モノ』と『音』を結びつける、ボトムアップ型じゃないと」

 彼女はそう言うと、一枚のカードにリンゴの絵を描いて、リュナに見せた。

 

「リュナさん。これは、あなたの言葉で何と言いますか?」

 リュナが答える。響さんはそれを復唱し、次に日本語で「リンゴ」だと教える。

 

「これが『概念』の共有です。このリンゴが『美味しい』という体験をして、初めて『美味しい』という言葉が意味を持つ。この地道な積み重ねが、いずれ『精霊』のような複雑な概念を理解するための土台になるんですよ」

 

 その日から、響さんの言語セッションが始まった。

 彼女の指導は、まるでゲームのようだった。

 絵カードやジェスチャー、時には身振り手振りを交えながら、一つ一つの単語が持つ「体験」を、リュナと共有していく。

 俺の無機質なマニュアルを前に固まっていたリュナが、楽しそうに笑いながら、新しい言葉をスポンジのように吸収していく。

 

「みず」

「パン」

「ありがとう」

 

 数日後、リュナがたどたどしくも、正確な発音でそう言ったのを聞いた時、俺は心から安堵すると同時に、胸の奥にチクリとした小さな痛みを感じた。

 リエゾンとしての自分の役割が、また一つ、専門家に奪われてしまったような、そんな寂しさだった。

 

 セッションの帰り際、そんな俺の心を見透かしたように、響さんが声をかけてきた。

 

「愁也さんの役割、なくなりませんよ。むしろ、これからが本番です」

「え?」

「私は、言葉のことは分かりますけど、リュナさんが本当に心を開いてくれるかとか、この世界に馴染むためのサポートとか、そういうのは全然専門外なので。それに、博士が暴走した時に止められるの、愁也さんしかいなそうですし。私たちは、それぞれの専門分野を持つ、対等なチームですよ」

 

 彼女はにっと笑って、自分の胸を叩いた。

 その冗談めかした真っ直ぐな言葉に、俺の中の小さな寂しさは、すうっと消えていった。

 そうだ、俺にしかできないこともある。

 それにしても、見透かされているなんてな……。俺より周りを見ているな。

 

 ラウンジに戻ると、リュナが俺たちのために、覚えたての日本語を使ってお茶の準備をしてくれていた。

 彼女は、俺と響さんに、それぞれカップを手渡しながら、はにかんで言った。

 

「ひびきさん、しゅうやさん……ありがとう」

 

 その笑顔は、脳波スキャン事件の時とはまた違う、新しい仲間を迎えた喜びに満ちていた。

 天才言語学者という、頼もしい仲間が加わった俺たちのチーム。

 この分厚い言語の壁に、今度こそ、大きな風穴を開けることができるかもしれない。

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