評価室の扉を蹴破るようにして、俺たちは廊下へ転がり出た。
そこは、すでに地獄絵図だった。
「きゃあああ!」
「逃げろ!」
スプリンクラーの水で床が滑る中を、他の部署の社員たちがパニックに陥って逃げ惑っている。
床にはおびただしい数の書類が散乱し、持ち主を失ったオフィスチェアが、誰かに蹴飛ばされたように虚しく回転を続けていた。
背後からは、サーバーラックが引き裂かれる甲高い金属音。
そして前方からは、この混乱を鎮圧するかのように響く、規則正しい重い足音。
「止まれ!」
その声と共に、人波をかき分けるようにして現れたのは、屈強な兵士たちだった。
彼らの中心には、SF映画から飛び出してきたような、二足歩行の強化装甲『ヴァンガード』が一体、鎮座している。
ずんぐりとした濃緑色の機体は、俺の身長を遥かに超えていた。
その周囲を固めるのは、同じデザインラインの強化スーツを身に着けた8人ほどの兵士たちだ。
手には物々しいライフルを構え、腰にはSFアニメで見たような、ブレードを装備している。
「リーダー!」
田中君と鈴木さんが、俺の後ろで息を呑む。
絶体絶命。
そう思った瞬間、部隊のリーダーらしき兵士が、ヘルメットの通信機に何かを話した後、俺たちに向かって叫んだ。
「SPトレンドシュア社の和泉チームか! 我々は時空間物理学部門、第一種封じ込めチームだ! 君たちは保護対象となった! 我々の後ろへ!」
(封じ込めチーム……? 都市防衛部隊とは、違うのか……?)
訳が分からないまま、俺たちは言われた通り、兵士たちが作った壁の後ろへと駆け込んだ。
プロフェッショナルな彼らの姿に、俺だけでなく、田中君と鈴木さんも安堵の息を漏らした。
「すげえ……! あれ、都市防衛部隊の最新鋭機、『ヴァンガード』じゃないですか! マジでかっけえ……!」
田中君が、少年のような目で興奮気味に呟く。その横で、鈴木さんは兵士の一人に駆け寄っていた。
「あの、この子が酷い怪我で……! 何か応急処置できるものは……!」
彼女の言葉に、兵士は無言で頷き、腰のポーチから医療キットを取り出した。
彼は少女の傷口を見ると、慣れた手つきでバイオフォームを吹き付け始める。
ジュッ、という音と共に、泡が傷口を覆い、出血がみるみるうちに止まっていく。
その治療が始まった、まさにその瞬間だった。
評価室の暗闇から、あの巨大な怪物が姿を現した。
「くそっ、このタイミングで……!」
リーダーが吐き捨てる。
「だが、後退はできん! 何としても対象をここで食い止めるぞ!非戦闘員は射線から離れろ!」
「対象は未確認生命体! 全員、実弾による制圧射撃! 奴の注意をこちらに引きつけろ!」
リーダーの冷静な指示が飛ぶ。
ヴァンガードが前面に立ち、歩兵たちがその周囲に即座に陣形を組む。
一切の無駄がなく、整然とした動き。
ガガガガガガガッ!
歩兵たちのライフルから、物理的な弾丸が嵐のように放たれた。まさしく数の暴力。
急にビル内で発砲音が響き、回りからは悲鳴が上がる。
大抵の都市に仇なす相手ならば即座に鎮圧されるだろう。
だが、硬化タングステン製の弾丸は、怪物の黒い体表に当たると、甲高い音を立てて弾かれ、火花となって砕け散る。
装甲を貫くどころか、その表面に僅かな傷さえ付けられていない。
「なっ……!? 実弾が全く効かないだと!?」
「怯むな! 奴の装甲は異常だ! ヴァンガード、プラズマ砲に切り替えろ! 最大出力で溶解させる!」
リーダーの檄に応え、ヴァンガードが肩部の武装を展開し、凝縮されたプラズマの奔流を放った。凄まじい閃光が廊下を白く染め上げ、ついに怪物の体表を焼き、黒い体液を飛散させる。
「グギィアアアアッ!」
怪物は、明らかに苦痛の声を上げ、数歩後ずさった。
「やったか!?」
誰かの希望に満ちた声が響く。
だが、リーダーは厳しい声でそれを制した。
「いや、待て! 様子がおかしい。ダメージは受けているが、致命傷じゃない。まるで……こちらの戦力を分析しているような動きだ。全員、警戒を怠るな!」
その言葉が正しかったことは、さらに深い絶望によって証明された。
後ずさった巨大な怪物の背後、評価室の暗闇から、新たな影が、まるで堰を切ったように溢れ出してきたのだ。
それは、先ほどの怪物よりずっと小さい、犬ほどの大きさの、昆虫と爬虫類を混ぜ合わせたような異形の群れだった。
「なっ……! 後続がいたのか!?」
その群れは、巨大な怪物を盾にするようにして、一斉に兵士たちへと襲いかかった。
「撃て、撃て! 近づけるな!」
兵士たちがライフルを乱射するが、実弾は小型の怪物にも効果が薄い。弾幕をものともせず、数体が兵士の一人に飛びかかった。
「うわっ!」
兵士は強化スーツのパワーで一体を殴り飛ばすが、別の個体がその隙に腕に食らいつく。
そして、三人目の兵士が、腰の電磁ブレードを起動させ、青白い科学の光を煌めかせながら、その化け物に斬りかかった。
「うおおおおっ!」
甲高い金属音にも似た不快な音が響き、青い軌跡を描いたブレードが小型の怪物に叩きつけられる。
しかし、刃は硬い黒色の表皮を深く斬り裂くには至らず、火花を散らしながら滑るように軌道が逸れてしまった。
それでも、叩きつけられた衝撃で、小型の怪物はくぐもった悲鳴を上げて評価室の奥の壁まで吹き飛んだ。
だが、稼げたのはほんの一瞬。
その隙を埋めるように、さらに多くの怪物が彼に殺到し、押し倒した。
『ぐ、あああああああああっ!』
悲鳴が響き渡り、日常が音を立てて崩れていく。
俺たちのそばで治療を続けていた兵士が、最後の応急処置用シートを貼り終えると、俺の肩を強く掴んだ。
「これ以上はすまん! その子を……頼んだぞ! 急いでここを出ろ!」
彼はそう叫ぶと、ライフルを構え、迫りくる怪物の群れに向かって走り出した。
ヴァンガードも、その巨体を持て余し、群れに張り付かれていた。
パイロットの悲鳴が通信から漏れ聞こえる。
『離れろ、クソっ……! システム制御不能! 腹が、腹を……!』
次の瞬間、ヴァンガードの腹部装甲が、内側からの爆発のように弾け飛んだ。小型の怪物たちが、内部に侵入し、破壊したのだ。
機体は力なく膝をつき、やがて前のめりに倒れ、動かなくなった。
(嘘だろ……)
俺が…俺たちが抱いた一瞬の安心感は、1分も経たずに木っ端微塵に砕け散った。
俺たちの世界の「最強」が、赤子のように蹂躙されていく。
(ここにいたら、死ぬ……!)
脳裏に、先ほどの戦闘が焼き付いている。
警察や軍隊が来たって同じだ。
物理兵器じゃ、傷一つつけられない。
最新鋭のプラズマ砲ですら、あのデカいのを一時的に退けるのがやっとだった。
こいつは、俺たちの世界の『兵器』という常識が通用する相手じゃない……!
その時、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
白衣を着た、変わり者の研究者。
いつも楽しそうに、この世界の「常識」を疑っていた、俺の恩師。
(牧原先輩……!)
あの人なら。時空間物理学を専門にしていたあの人なら、この「常識外」の事態を理解できるかもしれない。
「逃げるぞ!」
俺は叫びながら、気を失いかけている少女を腕に抱え直した。思ったよりもずっと軽い。
「リーダー!?」
「田中! 鈴木! こっちだ! 生きて帰りたかったら走れ!」
俺は二人の背中を押し、次々と倒れていく兵士たちを置き去りにして、評価室とは反対方向の廊下へと走り出した。
背後で、断末魔の叫びと、怪物の咆哮が響いていた。
俺は走りながら、耳元のインカムに触れた。
「フローラ!」
「牧原先輩に緊急通信! 最優先で!」
『……回線、繋がります』
数回のコールの後、聞き慣れた呑気な声がインカムから直接、頭蓋に響いた。
『もしもし、愁也か? 久しぶりだな。月曜の朝から何の騒ぎだ……って、なんだその爆音と警報は!?』
「先輩! 助けて! 何か、何かヤバいのが……! システムが、本物を吐き出しやがった!」
俺は必死に、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「封じ込めチームが……でも、一瞬で……! 全然、効かないんです! プラズマ砲ですら、少ししか……!」
数秒の沈黙。
そして、インカムの向こうで、牧原先輩の空気が変わったのが分かった。
『……落ち着け、状況は理解した。今すぐそこから離れろ。
第3ブロックにある、俺の部門の第7サテライトラボに向かえ。緊急用のセーフハウスだ。
ルート上のセキュリティは、俺がこっちからオーバーライドしてやる。何としてでも、生き延びろ!』
その言葉を最後に、通信は切れた。
俺は、ただ前だけを見て、走り続けた。
絶対的な「死」から逃れるため、俺たちは、壊れかけた日常の中から必死に這い出そうとしていた。