先日、リュナの携帯端末を契約しようとして、俺たちは根本的な問題にぶち当たった。
彼女には、この世界での身分を証明するものが何一つないのだ。
結局、その場は俺の名義で契約することで乗り切ったが、これは放置できない問題だ。異世界から来た彼女の存在は、この世界の法体系にとって「ありえないもの」なのだから。
一応この施設で働くことについては、予算なども時空間物理学部門として出ているから問題はないが、施設から一歩出たらまた別問題だ。
俺はリエゾンとして、この件を牧原先輩に報告することにした。
「―――なるほどな。携帯の契約で、か。もっと早く手を打つべきだった。すまない」
モニターの中で、先輩は厳しい表情で俺に謝罪した。
「いえ、俺も考えが至りませんでした。それで、彼女の身分はどうすれば……?」
「『特別管轄市民』として、一時的な市民権を申請する。平たく言えば、法的な保護を与えるための難民登録のようなものだ。君が保護者となり、彼女の元を保証するんだ。リエゾン研究員である君の、任務だ。頼んだぞ」
一方的に通信が切られ、俺はモニターに映る自分の顔を見つめた。ずっしりと、しかしどこか現実感のない責任が、肩にのしかかっていた。
その日の午後、俺がラウンジでリュナに事情を説明していると、大学の授業を終えた響がやってきた。
「え、リュナさんの身分登録ですか? それって、この間の携帯の件ですよね? やっぱりちゃんとしたものが必要なんだ。……よし、私も行きます! それに、総合庁舎なんて、なかなか行く機会ないですし!」
「いや、天野さんまで来なくても……」
「ダメですよ! 大事な手続きじゃないですか。それに、リュナさん一人じゃ心細いだろうし。ね?」
響はリュナの隣に座り、その手をそっと握る。その力強い眼差しに、不安げだったリュナの表情が、少しだけほぐれるのが分かった。
先日と同じように、俺たちは施設の管理区域を出て、都市の行政機能が集まる第四地区の総合庁舎へと向かった。
「私、ここに来るの、本当に初めてです」と、響はまるで観光地に来たかのように少しだけ声を弾ませた。
俺も、仕事で忙しくしているから、この建物の内部に足を踏み入れるのは初めてだった。
庁舎の内部は、ガラスと金属でできた、巨大で静謐な吹き抜け空間だった。磨き上げられた床には人影が鏡のように映り込み、感情のない合成音声のアナウンスだけが、聖堂のように高く、冷たく響き渡る。清掃ドローンが音もなく滑るように移動していく、そこには生命の気配が希薄だった。
「わ……すごい……。がらんとしてるんですね」
「ああ。ほとんどの手続きはオンラインで済むからな。わざわざここまで来るのは、外から来たばかりの人や特別な案件とかくらいだろうな。」
『ご用件のカテゴリを音声でどうぞ』
「ええと、特別管轄市民の登録申請を……」
『カテゴリを認識。整理番号3452番を発行します。窓口C-7でお待ちください。現在の待ち時間は、53秒です』
あまりの効率性に気圧されながら窓口へ向かう。その途中、待合スペースの巨大なホログラムディスプレイに、リュナが足を止めた。
『ワークライフバランス推進キャンペーン実施中!』という文字と共に、楽しげに旅行に出かける家族の映像が、立体的に浮かび上がっている。彼女のいた世界には存在しない、光の幻だ。
「ゆうきゅう……きゅうか?」
「ああ、『有給休暇』。バイトとかしてるともらえるお休みのことで、休んでもお給料がもらえる、めっちゃ嬉しいやつですよ!」
響が携帯をいじりながら、大学生らしい解説をする。その、彼女の世界には存在しない概念に、リュナは興味深そうに目を輝かせていた。その瞳には、未来への漠然とした希望のような光が宿っているように見えた。
窓口には、会社員時代にどこかで見たような、やる気のない中年男性が一人、デスクに置かれた小さなテラリウムの苔を、ピンセットでつついていた。
その名札を見て、響が「えっ」と息を呑んだ。
「あの人、もしかして……ムラサメ教授……?」
ムラサメ教授。古代言語学の権威だったが、例によって予算削減の煽りで大学を追われ、その専門知識を買われてこの部署に天下りしたと聞いている。響にとっては、雲の上の存在だ。
「私、この先生の授業が受けたくて今の大学に入ったんです! なのに、私が入学する直前に大学を辞めちゃって……。論文、全部読んでます!」
少女のように目を輝かせる響に、俺は少し呆れつつも声をかけた。
「ムラサメ教授……」
「ん? おお、君は……たしか和泉君じゃないか。以前のプロジェクトでは世話になったな。あのシステムのおかげで、研究が進んだよ。それよりも見てくれ、このヒノキゴケが……おや、そちらの学生さんは?」
苔の話を遮られたのが不満そうだった教授の目が、隣で直立不動になっている響を捉えた。
「先生の論文を拝読しております! 天野響と申します!」
響の自己紹介に、教授は少しだけ目を見開いた。
「ほう、天野君ね。君のことも聞いているよ。面白い学生がいるってね」
俺が事情を説明すると、教授は心底面倒くさそうにため息をついた。
「ああ、『特別案件』ね。これ、手続きが異常に面倒なんだよな……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、教授は手元のパネルを操作し始めた。だが、最後のプロセスで、問題は起きた。
「はい、じゃあ最後に、そこの電子サインパッドにご自身の名前をどうぞ」
教授に促され、リュナは渡された電子ペンを手に取った。俺と響が、固唾を飲んで見守る。
そして、パッドの上に、流れるような、美しい筆記体で自らの名を記した。
『Λιούνα=διακο=Λύκοφως』
その瞬間、庁舎の静寂を切り裂くように、パッドから無機質なエラー音が鳴り響き、画面に赤い文字が点滅した。
【ERROR: UNKNOWN_CHARACTER_CODE】
「あ……」
リュナの手から、ぺんが滑り落ちる。彼女の美しい名前は、この世界では意味をなさないノイズでしかなかった。存在そのものを否定されたような絶望が、彼女の表情から色を奪っていく。
その横で、ムラサメ教授が「おお……!」と、エラー画面の文字列を食い入るように見つめ、苔をいじっていた時とは別人のように目を爛々と輝かせた。
「……この文字体系は素晴らしい! 見たまえ、これは失われた古代アルメニア文字の系譜に似ている……だと?異世界なのにか?偶然なのかそれとも何か関係があるのか!」
教授の言葉に、響もまた、ハッと我に返ったように画面を覗き込んだ。
「先生、それだけじゃないです! この文字、すごい……。真ん中の『διακο』は彼女の家系や出身を示す『属性』や『概念』を付与する接尾辞のような働きをしているのかもしれません。一つの名前に、個人と所属の両方の情報が圧縮されているんじゃ……?だって音だけだったら『=』記号で2つのリュナとルオフィスに分かれるはずなのに……」
「ほう、天野君、面白い視点だ!」
教授のテンションがさらに上がる。二人はもう、俺たちのことなど目に入っていない。
「君の言う通りなら、この『=』記号は単なる区切りではなく、データベースにおける『代入』や『定義』に近い演算子としての機能を持っていることになる……。素晴らしい!実に素晴らしいぞ!」
「あの、リュナさん」
響が、興奮冷めやらぬ様子でリュナに尋ねた。
「そのお名前の『所属』って、何か特別な意味があるんですか?」
響の問いに、リュナは少し考えてから、消え入りそうな声で答えた。
「特別な……? いいえ、私はただの平民ですから……。でも、そういえば、父が昔、貴族のお屋敷で働いていたことがある、と話してくれたのを思い出しましたので、その時にいただいたものかもしれないです。」
「お二人が盛り上がっているところ申し訳ないんですが!」
完全に自分の世界に入っている学者二人に向かって、俺は叫んだ。
「処理が止まってるんで……私が、代筆します」
パニックになりかけた頭を必死で抑え、俺はリュナからペンを借りると、この世界の文字で、彼女の名前を書き込んだ。
【リュナ=ルオフィス】
その瞬間、耳障りだったエラー音は消え、パッドの表示が承認を示す緑色に変わった。手続きは、完了した。
「ちぇっ、つまらない。せっかく面白い研究対象を見つけたというのに」
教授は心底がっかりした様子で、しかし仕事は仕事とばかりに、数秒で発行されたカードをリュナに手渡した。
「はい、仮の市民ID。じゃ、私はこの文字のログが消去される前に、複写を取らないと……」
教授は、もう俺たちには目もくれず、パネルの操作に没頭し始めた。
リュナは、渡された一枚のカードを、ただ黙って見つめていた。
そこには、俺が書いた、彼女のものではない文字で彼女の名前と、「所属:学術研究技術都市(暫定)」と記されている。
エルドリアから来た自分が、この世界の一時的なデータとして登録された。それは、身の安全が保障されるという安堵であると同時に、故郷との繋がりがまた一つ薄れてしまったような、言いようのない寂しさを伴うものだった。自分の名前さえ、この世界では偽りの姿でしかいられないのだ。
庁舎を出ると、空は皮肉なほど青く澄み渡っていた。
リュナの沈んだ横顔を見て、俺も響も、かけるべき言葉を見つけられずにいた。
これが、彼女をこの世界で守るための、必要不可欠な一歩なのだと、自分に言い聞かせるように。
「あの、愁也さん」
しばらくして、リュナがぽつりと言った。
「これで私も、この街の『しみん』に、なれたんでしょうか」
「ああ、まあ、仮だけどな」
「それなら……」
リュナは、手に持ったカードをぎゅっと握りしめると、先ほどの憂いを微塵も感じさせない真剣な顔で、俺を見上げた。
「私にも、『有給休暇』は、もらえますか?」
「…………え?」
隣で、響が盛大に噴き出すのが聞こえた。
数分前のシリアスな感傷はどこへ行ったんだ。
俺は、あまりに現実的で、予想の斜め上を行く質問に返す言葉を失った。
どうやら、彼女の異世界適応能力と精神的なたくましさは、俺の想像を遥かに超えているらしい。