破壊された廊下を抜け、火災報知器が鳴り響く中を、俺たちは必死に走っていた。
「こっちだ!」
俺は社員端末をセキュリティドアにかざし、一般社員用の避難経路である非常階段へと飛び込む。
だが、そこもすでに人でごった返していた。
パニックになった社員たちが、我先にと階段を駆け下りていく。怒号と、女性の悲鳴が狭い空間に反響していた。
「進めない……!」
田中君が焦りの声を上げる。
ガアンッ!という衝撃音と共に、数階上のフロアから壁が崩れるような轟音が響き、新たな絶叫が聞こえてきた。一体だけじゃない。奴らは、もうビルの中に溢れ出しているんだ。
その恐怖が伝播し、群衆の動きがさらに乱れる。
その時、俺たちの数メートル先で、防火シャッターが轟音と共に下降を始めた。システムが、被害拡大を防ぐために区画を封鎖し始めたのだ。
「まずい、閉じ込められる!」
俺は舌打ちし、人の波に逆らうようにして、近くのメンテナンス用通路へと駆け込んだ。
分厚い鉄の扉が閉まると、フロアの喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに配管を流れる低い駆動音と、俺たちの荒い息遣いだけが支配する、薄暗い静寂が訪れた。
「リーダー、ここ……どこです? 行き止まりだったら……」
田中君が、不安を隠せない声で尋ねる。
「ビルのメンテナンス用通路だ。大丈夫、普段から業者さんとかが使ってる道だし、ここからなら下に降りれるはずだ。見ろ、同じことを考えてる社員も何人かいる」
俺が指さす先では、同じようにパニックから逃れてきたらしい数人の社員が、足早に通路の奥へと駆け込んでいくのが見えた。
俺たちは、壁から突き出たパイプを避けながら、薄暗い通路を先へと進む。
その時、天井裏からゴオオッという轟音と、何かが引き裂かれるような金属音が響き渡った。
振動で、天井からパラパラと埃が落ちてくる。
「今の音……まさか、すぐ近くに……?」
鈴木さんの声が震える。
その言葉を肯定するように、俺たちが通り過ぎたばかりの通路の天井で、換気口の鉄格子が、内側から凄まじい力で引きちぎられ、床に叩きつけられた。ガンッ!という耳障りな金属音が、狭い通路に反響する。
「嘘だろ……ダクトの中を移動してるのか!?」
田中君が悲鳴を上げた。
「急げ!」
俺は二人を促し、足を速めた。
背後から、換気口の暗闇の中で何かが蠢く気配がする。壁一枚、天井一枚を隔てたすぐ向こうに、奴がいる。
やがて、通路の先に、非常口を示す緑色の誘導灯の光が見えた。
光に吸い寄せられるようにしてたどり着き、扉を押し開ける。
ようやくビルの外へと続く非常口までたどり着いた時、俺は息も絶え絶えの二人に告げた。
「二人とも、よくここまで来れた。もう大丈夫だ」
「俺は、この子を連れて、牧原先輩のところへ行く。だが、これ以上二人を危険な目に遭わせるわけにはいかない。ここからは別行動だ。二人とも、正規の避難所へ向かってくれ。いいね?」
「……リーダーは」
「俺は大丈夫だ。なんとかする」
本当は、全く大丈夫じゃない。だが、リーダーとして、彼らを安心させるのが最後の仕事だ。
二人は一瞬ためらったが、こくりと頷いた。
「……分かりました。リーダーも、どうかご無事で」
「ああ。またな」
短い別れを告げ、二人は避難する人々の波に混ざって走り去っていった。
俺は一人、少女を抱え直し、彼らとは逆方向、社用車を借りるために地下駐車場へと続くメインエントランスの方へと足を向けた。
―――外は、いつも通りの日常だった。
ビルの正面広場に出た瞬間、俺は思わず目を細めた。
何事もなかったかのようにリニアトレインが走り、人々が行き交い、ホログラム広告が青い空に映えている。
俺たちの会社ビルから避難してくる人々の小さな混乱は、この巨大な都市の日常に飲み込まれ、さざ波すら立てていない。
(そうだ、世界は、まだ終わってなかったんだ……)
安堵のため息が、自然と漏れた。
腕の中の少女は、ぐったりとしたままだ。
俺はそっと彼女の顔を覗き込んだ。血の気はまだないが、呼吸は少しだけ安定しているようだ。あの兵士の応急処置のおかげだろう。
その、安堵と希望が胸に広がりかけた、まさにその瞬間だった。
―――ドゴオオオオオオオオオオオンッ!
背後で、ビルが爆発した。
凄まじい衝撃波と熱風が、俺の背中を叩く。
「うわっ!?」
俺は少女を庇うようにして、地面に倒れ込んだ。
アスファルトに叩きつけられた肩が痛む。
だが、それどころではなかった。
振り返ると、信じられない光景が広がっていた。
俺たちがついさっきまでいた、ビルの側面。
その壁が、内側からの爆発によって巨大な穴が穿たれ、黒煙と炎を噴き出している。
ガラスの破片が、太陽の光を乱反射させながら、キラキラと死の雨のように降り注いでいた。
そして、その穴から。
黒い影が、瓦礫を撒き散らしながら、地上へと飛び降りてきた。
あの巨大な怪物だ。それは黒豹のようなしなやかな体躯を持ちながら、その体表はひび割れた黒曜石のようで、関節はありえない方向に曲がっている。
爛々と光る赤い複眼が、無機質な殺意を放っていた。そして、その首元には、明らかに異質な、鈍い金属光沢を放つ首輪のようなものが埋め込まれていた。
(なんだ、あの首輪……?)
俺の思考は、一瞬だけそれに引っかかる。だが、そんな疑問はすぐに吹き飛んだ。
巨大な怪物は、周囲の混乱には一切目もくれず、その赤い複眼で、まっすぐに俺を捉えた……気がした。
それと同時に、ビルの穴からは、犬ほどの大きさの小型モンスターが次々と溢れ出し、逃げ惑う人々や乗り捨てられた車に、無差別に襲いかかり始めた。
(見つかった……! 大物は俺を、小さいのは周りを……役割分担までしているのか!?)
全身の血が凍りつくような恐怖の中で、俺の思考は必死に活路を探していた。
こいつの目的は、無差別な破壊じゃない。
初めから、この腕の中にいる、少女だけを狙っていたんだ。
その結論に至った瞬間、絶望的な事実が、鉛のように重くのしかかった。
腕の中で、少女がうめき声を上げた。
「……dfs……」
彼女が、ゆっくりと目を開ける。その碧眼が、不安げに俺の顔を映した。
「……gh……de……?」
言葉が、通じない。
俺は、この絶望的な状況で、どうやって彼女を守ればいいのか。
背後からは、怪物が地を揺らしながら、こちらへ向かってくる足音が聞こえていた。