腹の底を直接揺さぶるような、ガラスを引っ掻くような不快な咆哮が、平和な広場の空気を音の暴力で満たした。
衝撃で、近くのビルの窓ガラスがビリビリと震え、数枚が甲高い音を立てて砕け散る。
俺は衝撃波に吹き飛ばされ、アスファルトの上を転がった。
咄嗟に庇おうとした少女は、腕から投げ出されてしまう。
「ぐっ……!」
全身を打った痛みよりも先に、俺は彼女に駆け寄った。
幸い、彼女はすぐに身を起こしたが、その碧眼は目の前の地獄を映し、完全に恐怖に支配されていた。
「……ぁ……」
彼女の唇から、意味をなさない喘ぎが漏れる。
遠巻きに見ていた広場の人々から、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「うわ、今の音ヤバ! スピーカーどこだよ」
「すげえ、着ぐるみか? 特殊メイクのレベルじゃねえぞ」
「最新の3Dホログラムじゃないか?」
数人が、物珍しそうに携帯端末を怪物に向け始めた。
この非現実的な光景を、まだどこか他人事として捉えている。
だが、その日常感は、怪物が地を蹴った瞬間に粉々に砕け散った。
ゴッ! という鈍い音と共に、巨体が、信じられない俊敏さで俺たちとの距離を詰めてくる。
怪物が起こした風圧でカフェのパラソルが吹き飛び、乗り捨てられた車が横転する。
そこでようやく、人々はこれが撮影ではないことを悟った。
「「「ぎゃああああああ!」」」
悲鳴が、広場全体を支配した。
人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
俺は、震える少女の腕を掴むと、無理やりその身体を背中に担ぎ上げた。
ぐったりとした重みが、絶望的な現実となってのしかかる。
人の波に飲み込まれ、右も左も、恐怖に歪んだ顔、顔、顔。押され、突き飛ばされ、前に進むことすらままならない。
(くそっ、どけ! どいてくれ!)
心の中で叫びながら、半ば強引に人をかき分ける。その間にも、背後からは地を揺るがすような足音が迫ってくる。
怪物は、俺だけを狙って、群衆をかき乱しながら猛進していた。
リニアトレインの高架を支える柱に肩がぶつかったのか、凄まじい轟音と共に柱がひしゃげ、火花が散る。人々の悲鳴が、さらに甲高くなった。
「フローラ!」
俺は耳元のインカムに叫ぶ。
「牧原先輩に繋がってるか!?」
『回線は維持しています』
AIの冷静な声が、地獄の中の唯一の命綱だった。
「先輩! 追われてます! ビルの外まで……!」
『分かっている! 聞こえているぞ! だが、このまま大通りを走るのは危険すぎる! 追いつかれるぞ!』
牧原先輩の切羽詰まった声が、混乱した思考に警鐘を鳴らす。
さらに、ビルの穴から溢れ出した小型の怪物たちが、逃げ遅れた人々に牙を剥いていた。
携帯端末を向けていた若者が、足をもつらせて転倒した瞬間、数匹の怪物がハイエナのように群がり、肉を食い破る生々しい音が響き渡った。
平和な日常が、暴力によって一方的に蹂躙されていく。
(くそっ、このままじゃ追いつかれる! どこか隠れる場所は……!)
俺は必死に周囲を見回す。カフェのテラス席、その奥。
普段なら気にも留めない無機質な金属製のシャッターに、都市のメンテナンス部門を示す歯車の形をした小さなマークが描かれているのが目に入った。
「先輩! あそこにメンテナンス用の搬入口がある! あれを開けられないか!?」
『よく見つけた! よし、今からそのシャッターのロックを一時的に解除する! 3、2、1……今だ!』
ガコン、と重い音を立てて、分厚いシャッターが腰の高さまで一気に持ち上がる。
俺は迷わず、その隙間に向かって頭から滑り込んだ。
「ぐっ……!」
コンクリートの床を転がり、背中の少女を庇う。すぐに背後で、シャッターが閉まる轟音が響いた。
一瞬の静寂。そして、
―――ガアンッ! ドゴッ!
今まさに閉まったシャッターが、外側から凄まじい力で殴りつけられる音がした。
分厚い金属が大きくへこみ、ビリビリと空気が震える。
だが、まだ持ちこたえている。怪物の、いらだたしげな咆哮が聞こえた。
『愁也、そのシャッターも長くは持たんぞ! その通路は公共の地下駐車場に繋がっているはずだ! 急げ!』
俺は再び少女を背負い直し、地下の薄暗い通路を走る。
カビと埃の混じった、ひんやりとした空気が肺を刺す。
やがて、だだっ広い空間に出た。
非常灯だけが点滅する、不気味な地下駐車場だ。
『駐車場に着いたか! 区画番号D-32の車両を探せ! それに乗って第3ブロックまで来い!』
「了解!」
息も絶え絶えになりながら、俺は区画表示を頼りに走る。
だが、その行く手を阻むように、駐車場の暗がりから、複数の影が姿を現した。
大型の怪物ではない。
犬ほどの大きさの、小型のモンスターだ。
奴らは、別の入り口から、すでにここに侵入していたのだろう。
「ちくしょう……! こっちにもいるのか!」
俺は車の陰に隠れながら、D-32を探す。
……あった。
ごく普通の、流線形の電気自動車だ。
俺は後部座席のドアを開け、少女を放り込むように乗せると、すぐに運転席に滑り込んだ。
息を殺し、パワーボタンを押す。
静かな起動音と共に、ダッシュボードに明かりが灯った。
その音と光に、近くを徘徊していた数体の小型モンスターが、一斉にこちらを向いた。
パニック映画の主人公じゃないんだぞ……。
「ちくしょう……!」
奴らが一斉に車に殺到する。
一体がボンネットに飛び乗り、フロントガラスを爪で引っ掻き始めた。
このままぶっ壊されてたまるか!
俺は本来の起動手順を無視して、躊躇なくアクセルを床まで踏み込んだ。
タイヤが甲高い音を立てて空転し、車体が急発進する。
ボンネットの怪物を振り落とし、行く手を阻む他の怪物たちを、文字通り轢き潰しながら、駐車場の出口スロープを駆け上がった。
車体に何かがぶつかる鈍い感触が、何度も、何度も伝わってきた。
地上への出口が見えた。
光が差し込んでくる。
俺は、ただ、生き延びることだけを考えて、アクセルを踏み続けた。