システムエンジニアと迷いし少女の物語   作:書との契約者

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第5話:セーフハウスへの道

 腹の底を直接揺さぶるような、ガラスを引っ掻くような不快な咆哮が、平和な広場の空気を音の暴力で満たした。

 衝撃で、近くのビルの窓ガラスがビリビリと震え、数枚が甲高い音を立てて砕け散る。

 俺は衝撃波に吹き飛ばされ、アスファルトの上を転がった。

 咄嗟に庇おうとした少女は、腕から投げ出されてしまう。

 

「ぐっ……!」

 

 全身を打った痛みよりも先に、俺は彼女に駆け寄った。

 幸い、彼女はすぐに身を起こしたが、その碧眼は目の前の地獄を映し、完全に恐怖に支配されていた。

「……ぁ……」

 彼女の唇から、意味をなさない喘ぎが漏れる。

 

 遠巻きに見ていた広場の人々から、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。

「うわ、今の音ヤバ! スピーカーどこだよ」

「すげえ、着ぐるみか? 特殊メイクのレベルじゃねえぞ」

「最新の3Dホログラムじゃないか?」

 数人が、物珍しそうに携帯端末を怪物に向け始めた。

 この非現実的な光景を、まだどこか他人事として捉えている。

 

 だが、その日常感は、怪物が地を蹴った瞬間に粉々に砕け散った。

 ゴッ! という鈍い音と共に、巨体が、信じられない俊敏さで俺たちとの距離を詰めてくる。

 怪物が起こした風圧でカフェのパラソルが吹き飛び、乗り捨てられた車が横転する。

 そこでようやく、人々はこれが撮影ではないことを悟った。

 

「「「ぎゃああああああ!」」」

 

 悲鳴が、広場全体を支配した。

 人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 俺は、震える少女の腕を掴むと、無理やりその身体を背中に担ぎ上げた。

 ぐったりとした重みが、絶望的な現実となってのしかかる。

 

 人の波に飲み込まれ、右も左も、恐怖に歪んだ顔、顔、顔。押され、突き飛ばされ、前に進むことすらままならない。

 

(くそっ、どけ! どいてくれ!)

 

 心の中で叫びながら、半ば強引に人をかき分ける。その間にも、背後からは地を揺るがすような足音が迫ってくる。

 怪物は、俺だけを狙って、群衆をかき乱しながら猛進していた。

 リニアトレインの高架を支える柱に肩がぶつかったのか、凄まじい轟音と共に柱がひしゃげ、火花が散る。人々の悲鳴が、さらに甲高くなった。

 

「フローラ!」

 俺は耳元のインカムに叫ぶ。

「牧原先輩に繋がってるか!?」

『回線は維持しています』

 AIの冷静な声が、地獄の中の唯一の命綱だった。

 

「先輩! 追われてます! ビルの外まで……!」

『分かっている! 聞こえているぞ! だが、このまま大通りを走るのは危険すぎる! 追いつかれるぞ!』

 

 牧原先輩の切羽詰まった声が、混乱した思考に警鐘を鳴らす。

 さらに、ビルの穴から溢れ出した小型の怪物たちが、逃げ遅れた人々に牙を剥いていた。

 携帯端末を向けていた若者が、足をもつらせて転倒した瞬間、数匹の怪物がハイエナのように群がり、肉を食い破る生々しい音が響き渡った。

 平和な日常が、暴力によって一方的に蹂躙されていく。

 

(くそっ、このままじゃ追いつかれる! どこか隠れる場所は……!)

 俺は必死に周囲を見回す。カフェのテラス席、その奥。

 普段なら気にも留めない無機質な金属製のシャッターに、都市のメンテナンス部門を示す歯車の形をした小さなマークが描かれているのが目に入った。

 

「先輩! あそこにメンテナンス用の搬入口がある! あれを開けられないか!?」

 

『よく見つけた! よし、今からそのシャッターのロックを一時的に解除する! 3、2、1……今だ!』

 

 ガコン、と重い音を立てて、分厚いシャッターが腰の高さまで一気に持ち上がる。

 俺は迷わず、その隙間に向かって頭から滑り込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 コンクリートの床を転がり、背中の少女を庇う。すぐに背後で、シャッターが閉まる轟音が響いた。

 一瞬の静寂。そして、

 

 ―――ガアンッ! ドゴッ!

 

 今まさに閉まったシャッターが、外側から凄まじい力で殴りつけられる音がした。

 分厚い金属が大きくへこみ、ビリビリと空気が震える。

 だが、まだ持ちこたえている。怪物の、いらだたしげな咆哮が聞こえた。

 

『愁也、そのシャッターも長くは持たんぞ! その通路は公共の地下駐車場に繋がっているはずだ! 急げ!』

 

 俺は再び少女を背負い直し、地下の薄暗い通路を走る。

 カビと埃の混じった、ひんやりとした空気が肺を刺す。

 やがて、だだっ広い空間に出た。

 非常灯だけが点滅する、不気味な地下駐車場だ。

 

『駐車場に着いたか! 区画番号D-32の車両を探せ! それに乗って第3ブロックまで来い!』

「了解!」

 

 息も絶え絶えになりながら、俺は区画表示を頼りに走る。

 だが、その行く手を阻むように、駐車場の暗がりから、複数の影が姿を現した。

 大型の怪物ではない。

 犬ほどの大きさの、小型のモンスターだ。

 奴らは、別の入り口から、すでにここに侵入していたのだろう。

 

「ちくしょう……! こっちにもいるのか!」

 

 俺は車の陰に隠れながら、D-32を探す。

 ……あった。

 ごく普通の、流線形の電気自動車だ。

 

 俺は後部座席のドアを開け、少女を放り込むように乗せると、すぐに運転席に滑り込んだ。

 息を殺し、パワーボタンを押す。

 静かな起動音と共に、ダッシュボードに明かりが灯った。

 その音と光に、近くを徘徊していた数体の小型モンスターが、一斉にこちらを向いた。

 パニック映画の主人公じゃないんだぞ……。

 

「ちくしょう……!」

 奴らが一斉に車に殺到する。

 一体がボンネットに飛び乗り、フロントガラスを爪で引っ掻き始めた。

 

 このままぶっ壊されてたまるか!

 俺は本来の起動手順を無視して、躊躇なくアクセルを床まで踏み込んだ。

 タイヤが甲高い音を立てて空転し、車体が急発進する。

 ボンネットの怪物を振り落とし、行く手を阻む他の怪物たちを、文字通り轢き潰しながら、駐車場の出口スロープを駆け上がった。

 車体に何かがぶつかる鈍い感触が、何度も、何度も伝わってきた。

 

 地上への出口が見えた。

 光が差し込んでくる。

 俺は、ただ、生き延びることだけを考えて、アクセルを踏み続けた。

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