タイヤがアスファルトを削る耳障りな音を立てながら、俺は必死にハンドルを操作していた。
この都市では高度に管理されたシステムによって、ほとんどの車が自動運転だ。
一部の懐古主義のマニアだけが日常的にマニュアル運転をしているくらい自動運転がデフォルトだ。
俺自身、教習所以来、まともに運転なんてしていなかった。
『愁也、正面の交差点に突っ込むぞ!』
耳元のインカムから、牧原先輩の怒鳴り声に近い指示が飛ぶ。
「無茶ですよ! 赤信号です! しかも後ろから……!」
バックミラーには、依然としてあの巨大な怪物が、他の車を蹴散らしながら猛追してくる姿が映っていた。
『いいから行け! 今、こっちで都市交通システムに介入した! お前以外の信号は、全て赤に変わる!』
(交通システムに、介入……!?)
その言葉に、俺の背筋をこれまでとは質の違う冷たい汗が伝った。
さっきのシャッターの緊急開錠だけでも、相当な権限だ。
だが、都市交通システムは違う。
この都市の根幹をなす、最高レベルのセキュリティで守られた公共インフラだ。
一企業の、一研究者が、リアルタイムで外部から干渉するなど、ハッキングというレベルを遥かに超えている。
考える時間はなかった。
俺の目の前の信号だけが青に変わり、他の車線の信号が一斉に赤に変わる。
俺は言われるがままにアクセルを踏み込み、交差点に突っ込んだ。
俺の下手なテクニックで動く車だけがこの世界で動いている。
その直後、バックミラーの中で地獄が生まれた。
俺を追ってきた巨大な怪物が、赤信号で停止していた車列に、減速することなく突っ込んだのだ。
金属が紙のように引き裂かれ、ガソリンやバッテリーに引火したのか、数台の車が派手な爆発を起こす。
ついさっきまで日常の中にいたはずの人々の絶叫が、ここまで聞こえてくるようだった。
『そのまま第3ブロックの工業区画に入れ!』
俺は、ただ前だけを見て、無我夢中でハンドルを切った。
ボロボロになった俺たちの車を見て、何事かと携帯端末を向けてくる野次馬がいたが、彼らの日常も、数秒後には地獄に変わるのだろう。
工業区画へつながる、コンクリートの壁が続く薄暗いトンネル。
ここでようやく、怪物の姿は見えなくなった。
俺は、震える手でアクセルを少し緩める。
「はぁ……はぁ……っ……」
全身が汗でぐっしょりだ。
後部座席では、少女が苦しげな息を漏らしている。
『そのまま直進しろ。行き止まりに、第7サテライトラボのゲートがある』
先輩の指示通りに進むと、道の突き当たりに、巨大な金属製の壁がそびえ立っていた。
(なんだ……これ……)
倉庫か何かのシャッターかと思ったが、違う。
その表面には、無数のセンサーやカメラ、そして威嚇するように設置された自動迎撃用の銃塔まで備え付けられていた。
そもそも、このトンネルに入ってから、対向車一台とすれ違っていない。
まるで、この場所だけが都市のマップから意図的に消されているかのようだ。
国家承認された半独立都市とはいえ、ここは平和な研究都市のはずだ。
こんな、誰と戦うことを想定しているのかも分からない物々しい施設が、噂一つなく存在している。
その事実が、背筋を凍らせた。
俺が車に乗ったまま呆然としていると、壁の中央が静かに、左右に分かれて開いていく。
「……入れ」
先輩の短い指示。
俺は、まるで巨大な獣の口に吸い込まれるように、車をゲートの中へと進めた。
背後でゲートが閉まると、外の喧騒が嘘のように消え、完全な静寂が訪れた。
そこは、真っ白な空間だった。
壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない白い素材で出来ている。
俺が車を止めると、すぐに防護服に身を包んだ数人の男女が駆け寄ってきた。
彼らは一言も発さず、後部座席から少女を運び出し、ストレッチャーに乗せてどこかへ連れて行ってしまう。
「おい、待ってくれ!」
俺が声をかけるが、彼らは振り返りもしない。
その時、空間の奥から、一人の男が歩いてきた。
「……無事で何よりだ、愁也」
白衣を着た、無精髭の男。牧原先輩だった。
しかし、その表情は、俺が知っている大学時代の呑気なそれとは全く違っていた。
研究者のそれではなく、まるで百戦錬磨の指揮官のような、鋭い目をしている。
「先輩……一体、何が……」
「説明は後だ。まずは君もだ」
牧原先輩に促されるまま、俺は別の部屋に通され、汚れた服を脱ぎ、シャワーを浴びさせられた。
用意された清潔な白衣に着替えると、少しだけ現実感が戻ってきた。
「……落ち着いたか?」
俺が通されたのは、壁一面がディスプレイになっている、司令室のような部屋だった。
牧原先輩は、中央の椅子に座り、俺を見つめていた。
「先輩、教えてください。あの少女は、あの怪物は、一体何なんですか。それに、封じ込めチームって……」
「……これから話すことは、我々が断片的な情報を繋ぎ合わせて立てた、現時点での仮説だ。君が見たものの全てを説明できるわけじゃない」
牧原先輩は、そう前置きすると、静かに続けた。
「単刀直入に言おう。君が今日遭遇したものは、我々が『下位世界』と呼んでいる、異世界からの来訪者だ」
「……は?」
俺は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、完全に思考が停止した。
この人は何を言っているんだ?疲労と混乱で、幻聴でも聞こえているのか?
俺の表情を読み取ったのか、牧原先輩は、壁のメインディスプレイに一つの映像を映し出した。
「これは、君のチームがメンテナンス中にシステム暴走が発生した、その直前にゲートウェイが記録した、向こう側のログデータを再構成したものだ。だが、見ての通りノイズが酷く、断片的にしか解析できていない」
―――それは、鬱蒼とした森の中だった。
月明かりだけが頼りの暗い森を、一人の少女が必死に走っていた。俺が助けた、あの金髪の少女だ。
しかし、その制服はまだ綺麗で、血も流れていない。彼女は何か、古ぼけた分厚い本のようなものを胸に抱きしめている。
映像の中の少女の後ろから、黒い影が猛スピードで追いかけてくる。その影は、やがて三人の人型になり、少女を追い詰めた。
映像の音声はほとんどノイズに消されていたが、かろうじて、低い男の声で「……bufas……」という音だけが聞き取れた。
「奴らの目的は、彼女が持っていた、あの本のようなものらしい」
牧原先輩が、苦々しい顔で呟いた。
映像の中で、少女は首を横に振ると、何かを叫んでいる。だが、その声もノイズに消されて聞こえない。
すると、男たちの一人が地面に手をつき、地面からあの獣型の怪物が這い出てくるのが見えた。
「俺たちを襲ってきた怪物は、彼らが使役する尖兵……ということですか」
「そのようだ。我々も、こんな形で実物を見ることになるとは思わなかったがな」
先輩が別のウィンドウを開く。
そこには、俺が見たあのエラーログが、より詳細な形で表示されていた。
「だが、見れるのはここまでだ。世界シミュレーターは、外部からの操作を一切受け付けないように設計されている。いわば、鉄壁のブラックボックスだ。本当の意味で何が起きているかを解析し、干渉するには、もう一度あの場所に戻るしかない。我々のアクセスも実際のところ評価室経由だったが、今会社ごとシステムダウンしている。」
(戻る……? あの地獄に……)
俺の思考を読んだように、先輩はコンソールの表示を指し示した。
【未定義オブジェクト "Ljuna=Luoffice" の強制排出を確認。】
【付随オブジェクト:[DATA_CORRUPTED] の転送に失敗。】
【解析可能キーワード:"G****ire"】
【接続プロトコルが異常終了しました。】
「リュナ……ルオフィス、か? これが彼女の名前だろう。そして、見ての通り、彼女が持っていたオブジェクト……我々が『本』だと推測しているものの転送には失敗している」
「"G****ire"……?」
「ああ。解析できたのはこのキーワードだけだ。映像の状況から考えるに、おそらく『魔導書(Grimoire)』のことだろう。二つの世界を繋ぐ、何らかの『鍵』だと我々は考えている」
その言葉は、あまりにも重かった。
俺は、ただのシステムエンジニアとして、いつもの月曜日を過ごしていたはずだった。
それが、どうして。
「……彼女は、どうなるんですか」
俺は、かろうじてそれだけを尋ねた。
「奴らが何者で、何を企んでいるのか。その『鍵』とは何なのか……。その答えを知る唯一の手がかりだ。最重要保護対象として、我々が責任を持って保護する。君もだ。事件の当事者であり、唯一の目撃者として、我々に協力してもらう」
牧原先輩は、一つのディスプレイを指し示した。
そこには、医療カプセルの中で静かに眠る、異世界からの訪問者の姿が映し出されていた。
「君の新しい仕事だ、愁也。彼女のそばで、我々の調査に手を貸してもらう。それが、この世界を守ることに繋がる」
俺は、ディスプレイに映るその寝顔から、目が離せなかった。
彼女が目覚めない限り、真実は何も分からない。
俺の平凡な日常は、もうどこにもない。
俺は、どうやら、世界そのもののバグと向き合うことになってしまったらしい。