俺たちが牧原先輩のサテライトラボに保護されてから、三日が過ぎた。
清潔な白衣に着替えさせられ、未知のウイルスや寄生虫に感染していないか、全身をスキャンするメディカルチェックを受けたのは初日のこと。結果はシロ。
どうやら俺は、異世界からの厄介なお土産は持ち帰らずに済んだらしい。
司令室は、静かな戦争の最前線だった。
壁一面が湾曲したパノラマディスプレイになっており、そこには第7ブロックの惨状が、複数のドローン視点からリアルタイムで映し出されている。
床から立ち上る半透明のホログラフィック・スクリーンには、無数のデータストリームと戦術マップが絶え間なく流れ、数人のオペレーター――俺と同じような、白衣を着た時空間物理学部門の職員たちが、静かにそれを監視していた。
だが、彼らの間に漂う空気は、普段の研究室のそれとは全く違う。
時折、都市防衛部隊の現場指揮官から、リアルタイムの損害報告が音声で割り込んでくるからだ。
その度に、室内の緊張が一段と高まる。
「……相変わらず、元気だな」
俺は、メインスクリーンに映し出された光景に、思わず乾いた笑みを漏らした。
ガラスと金属でできた未来的なビル群。その中心で、俺が数日前まで通勤していた超高層ビルが、まるで巨大な墓標のように黒煙を上げ続けている。
あの日、工業地帯のトンネルで巨大な怪物を振り切った後、奴は俺たちを追うのをやめた。
だが、それは脅威の終わりを意味してはいなかった。
奴はSPトレンドシュア社ビルそのものを「巣」とし、そこから新たな脅威を吐き出し始めたのだ。
上空を旋回する無人ドローンと、路上に展開した自動迎撃タレットが、休むことなくレーザーと実弾をばら撒き、戦線を維持している。
だが、それはあくまで対症療法でしかない。
根本原因――評価室3と異世界との「接続」を断たない限り、この悪夢は終わらない。
俺は手元の社員端末に視線を落とす。
ニュースアプリのトップには、もちろんSPトレンドシュア社の事件が表示されていたが、その下に、一見すると無関係なニュースが並んでいた。
『気象コントロールシステムに原因不明のエラー。降水確率の精度が一時的に低下』
『大人気MMORPG『エルダー・クロニクル』、断続的なサーバーダウン。運営は緊急メンテナンスを発表』
他のオペレーターたちは、戦術マップと損害報告に集中している。
だが、俺の目には、そのニュース欄に、全く別の、より深刻な「システム障害報告」が浮かび上がって見えた。
俺は、隣で全体の指揮を執っていた牧原先輩の袖を引いた。
「……先輩、ちょっといいですか」
「なんだ、今は……」
「スクリーンの、あのニュースを見てください。天気予報と、エルクロのサーバーダウン。これらがほぼ同時に起き始めたのは、俺たちの評価室で事故が起きた、まさにあの直後からです」
俺の言葉に、牧原先輩が面倒くさそうにスクリーンを見つめた。
「当たり前だ。世界シミュレーターの機能が一部停止しているんだからな。それに依存しているサブシステムに影響が出るのは当然だろう」
「ええ。ですが、問題はそこじゃない」
俺は続ける。
「もし、評価室のシステムが、ただ単純に『ダウン』しているだけなら、他のシステムは予備系に切り替わるか、エラーを吐いて止まるはずです。でも、現状は違う。『精度が落ちる』『断続的にダウンする』……これは、シミュレーターが死んでいるんじゃなくて、『異常なデータを吐き出しながら、動き続けている』証拠です」
俺の指摘に、牧原先輩の表情がはっと変わった。
彼の目は、俺が提示した仮説の、その先にある最悪の可能性を見据えていた。
「……評価室のシステムが、異世界と接続されたまま、中途半端に生きている。そして、その『汚染された』演算結果が、シミュレーターの基幹システム全体に流れ込み、他のサブシステムまで不安定にさせていると……? まるで、システム全体が癌に侵されているようなものじゃないか……!」
「癌」とまでは考えていなかったが、その言葉の重さに、俺は息を呑んだ。
そうだ。これは、ただの籠城戦じゃない。
俺たちの世界の根幹を支えるシステムが、内側から、静かに、しかし確実に崩壊を始めているのだ。
「……本当の意味で何が起きているかを知るには、やはり彼女から話を聞くしかないだろうな。」
牧原先輩は、一枚の写真を俺に見せた。医療ポッドの中で眠る、リュナの姿だった。
その時だった。
司令室の片隅で、医療モニターのアラームが静かに鳴った。
俺と牧原先輩は、弾かれたようにそちらを向く。
モニターには「覚醒兆候」の文字が点滅していた。
「……行くぞ」
先輩の短い言葉に、俺は頷く。
俺たちは司令室を出て、継ぎ目のない白い壁が続く無機質な廊下を進む。
やがて、分厚い気密扉が音もなく左右にスライドし、俺たちはガラス張りの医療区画へと足を踏み入れた。
部屋の中央には、流線形の白い医療ポッドが一つ、静かに鎮座していた。
プシュー、と圧縮空気が抜ける音と共にキャノピーがゆっくりと開くと、白い冷却ミストが流れ出した。
現れたのは、医療ポッドと一体化したバイオベッドに横たわる少女の姿だった。
「……ん……」
金色の髪が、わずかに揺れる。
ゆっくりと、少女の瞼が持ち上がった。
現れた碧眼が、見知らぬ天井、無機質な機械音、そして白衣を着た俺たちの姿を捉え、怯えたように揺れた。
「……!」
少女は、何かを言おうとして、乾いた唇を動かす。
だが、そこから発せられたのは、意味のある言葉にはならなかった。
牧原先輩が、冷静な声で耳元のデバイスに指示を出す。
「フローラ、対話モードを起動。対象の音声パターンを記録し、リアルタイムで翻訳を試みろ」
『―――了解。……音声パターン照合……データベースに該当なし。文法構造の解析……サンプル不足により失敗。翻訳は実行不可能です』
AIの無慈悲な宣告に、牧原先輩は「……だよな」と短く吐き捨てた。
「ダメだ、愁也。語彙のサンプルが絶対的に足りない。翻訳は諦めろ。身振り手振りで、なんとか敵意がないことだけでも伝えるんだ」
先輩の言葉に、俺は頷く。
ここからが、本当の始まりだ。
俺は、目の前の少女に、どうにか伝わるように、ゆっくりと両手を上げて、手のひらを彼女に見せた。武器を持っていない、という意思表示だ。
そして、できるだけ穏やかな表情を作り、自分の胸を指さして、もう一度、はっきりと名乗った。
「イズミ・シュウヤ」
少女は、俺の意図が分からず、ただ怯えた目で俺を見つめている。
俺は諦めずに、もう一度、自分の胸を指し、「シュウヤ」と繰り返す。
そして、彼女の方をそっと指し、首を小さく傾げて、問いかけるような仕草をした。
その、拙いジェスチャーを見て、少女の瞳がわずかに揺れた。
彼女は、俺の顔と、自分の胸を交互に見た後、おずおずと、震える指で、自分自身を指さした。
そして、か細く、しかしはっきりと、こう言った。
「……リュナ」
その一言が、俺たちの間に架かった、最初の橋だった。