蝋色のアスファルトを歩いていた。ここが埼玉の田舎とはいえ、陽炎が立ちそうな暑さだった。でもそういえば、埼玉は確か日本最高気温を記録したことがあると、いつか聞いた気がする。それにしても暑いものだと思った。
皇紀2685年7月21日、正確にいえば今日からが夏休みらしい。
だのに
友達がいないわけじゃないけれど、どうも誘う気にはなれない。一人はいいけど独りは嫌い、みたいなそんな自分に酔っている。
こんな日常が続いていくのなら、私はなんのために生まれたのだろうか。そもそも生まれたことに意味なんてないんじゃないか、なんてふと思ってしまう。
いつの間にか閉館間際になった図書館に人影は少なく、
雨が、降っていた。
天気予報にそんなことは書いてなかったと思うが、どうやらお天道様の機嫌が悪いみたいだ。
傘が入っていないトートバッグを恨みつつ、仕方ないと一歩踏み出した。
雨が傘に弾ける音がして、はっと後ろを振り返る。
「傘、ないんでしょ?」
「えっ?」
見ると、紫暮と同じくらいの身長の少女が立っていた。
「いいよいいよ、遠慮しなくて、」
知らない人についていかない、とはよく言われたものだが、傘の押し付けは初めてだった。この場合、防犯の観点からは断った方がよいのだろう。
「えっと、あの、大丈夫です… 申し訳ないですし、 家、近いので…」
この場合、家が近い、というのは嘘だ。家まで歩いたら、20分はかかる。でも、そんなことを言ったら強引に傘を押し付けられかねない。
「いやいや、もう一本持ってるから大丈夫だよ〜。」
そう言った彼女の手には折り畳み傘が握られていた。何か、もう逃げ場を失ったような気がした。
「あ、えっと、じゃあ… ありがとうございます…」
そう言って紫暮は、なくなく傘を受け取った。
「じゃあ、LINE交換してもいい?」
「え?」
「いや、傘は明日返してくれればいいんだけどさ、まあもしもの時のために、どうかな?」
どうかな、といわれたらもちろんNoと答えたい。というか、もしもというのは、どんな時のことなのだろうか。ただそう思っても、紫暮には断る勇気も逃げる勇気もなかった。渋々スマホを取り出す。
「あ、これです、どうぞ…」
「え〜、ありがと〜、こんな不審者に付き合ってくれて〜。」
不審者の自覚があったのか、と不覚にも面白いと思ってしまった。友達追加が済んだのか、試しに送ったであろうメッセージが届く。
『れのん :
爾今、という漢字を紫暮は初めて見た。おそらく「今後」、の意味なのだろうが、初対面の相手にこんな文章を送る人の気が知れない。
なるべく当たり障りのないような返信を考える。
『時雨 : こちらこそどうぞ宜しくお願い致します。』
「時雨」というのは見ての通り、紫暮のLINEでの名前だ。彼女は紫暮から受け取ったメッセージを読んでいるようだったが、何かを考えているようにも見えた。何かおかしな文を送ってしまったのかと少し戸惑った。
「ねえ、紫暮さん、」
「あっ、はい……、」
「あの、急なお誘いですみません、無理なお願いとわかっていますが、でもお願いなんです、あの、一緒に音楽を作ってくれませんか!」
彼女は、ばっと頭を下げた。紫暮は、奇妙な人や不可解なこと、予想の範疇を越えたモノに少しは出会ってきたが、彼女が何を言っているのかは理解できなかった。一緒に音楽を作る、ということはユニットを組むということなのだろうか。そもそも、初対面の相手にこんなことを言う人間がいるのだろうか。まさか彼女は私を知っているのだろうか。それとも、どこかで会ったことがあるっただろうか。
「えっと、あの、頭を上げて下さい……その、どこかで会ったりしたことはありましたっけ…」
「いいや、ないよ。」
頭を上げた彼女はケロッと答えた。ますますよく分からなくなる。
「曲を作るって、どういうこと、ですか…?」
「あ、えっとね、歌詞を書いて欲しいんだ。」
「歌詞…?」
「そう、歌を、作りたいんだ。曲は作れるようになったんだけど、どうも歌詞が書けなくて…」
「そ、そうなんですね…」
「だからお願い!まずは一曲だけでいいから!」
何を言ってるのかよく分からなかったが、断った方がいいことは確かだ。
「えっと、すいませんが、その、「
「あの、なんで私なんですか…、他にもたくさんいるんじゃないですか……」
紫暮は小腹が立った。知りもしない人間からいきなりモノを押し付けられたのだから当然だろう。もし、相手が弟だったらもっと声を荒げていたところだ。でも、ここで自分が怒ってしまったら、まるで私まで悪いような感覚に囚われてしまうだろう。しかし、彼女はそんな私の言葉を意に介していないように見えた。なんとなくだが、この人から逃げるのは無理だ、という気がした。
ここで断った場合を考えてみる。彼女はもう一生私と会うことはなくなるだろうし、私は日常に押し流されてしまうだろう。そもそも、こんな機会はもう二度とこないものだ。それに、とにかく今の私に必要なのは非日常なのだ。まあ、一曲くらいなら付き合ってみるか、と思ってしまった。
「わかりました。一曲だけなら…」
「え、ほんと?ありがとぉ〜⁉︎」
彼女も喜んでいるようだし、これでいいのだ。もう言ってしまった手前、引き返すことはできない。でも、前に進むためには退路を断たなけばならない。そんなことを言っていたアニメがあった気がする。そういう意味では、今回の私の決断は肯定できるのではないか。
「じゃあ、もう遅いし、またLINEで送るね!」
そういうと彼女はもう振り向いて帰路についていた。まったく、つくづくよくわからない人だ、と思うが嫌いにはなれなかった。私もあんな風に、自由に生きていたかったからだろうか。でも今の私は、食う寝る処に住む処が確かにあり、家庭崩壊しているわけでも、金銭的に不自由なわけでもない。じゃあなんで自由を感じられないのだろうか、と考えたところで思考を止めようとした。このまま考えても向こう側は無いようと思えたからだ。ああそうだ、私もそろそろ帰らなくてはならないと思い歩き出す。大通りに出ると彼女が先を歩いていた。私はその背中を追って帰路につく。彼女は途中まで前を歩いていたが、いつの間にか視界からいなくなっていた。ただ、私と彼女とは家が近いということはわかった。
名前も知らない人に借りた傘は、この街と違う香りがした。知らないその人が、いつか「知っている人」になったなら私は幸せなのだろうか。
家に帰り着いて一番最初に母から訊かれたのは、もちろんその傘の出処だった。友達から借りたというと、また明日図書館に行くのだからそのついでにでも返しに行ったら、と言われた。
晩御飯を食べて風呂に入り布団に潜り込んでスマフォを見ると、彼女からの通知が2件来ていた。一瞬躊躇ったが、無視するわけにはいかないと思いメッセージを読んでみる。
「今日はどうもありがとう!こんな意味不明なことに付き合ってくれるなんて感謝しかないよ〜!下にお願いしたいこととか纏めたから、確認よろしくお願いします!」
「お願いしたいこと 作詞
自分が作った曲に詞をつけてほしいです。また、ニコニコ動画、Youtube等に投稿して得た収入は貴方と自分に三割ずつ、残り四割を機材の購入等活動のための資金にしようと思っています。
細かいことは貴方と後々決めていきたいです。
どうぞ宜しくお願い致します。」
前後の文章で文の印象がかなり違って不思議だったが、彼女が何を画策しているかはわかった。もう了承してしまったことであるし、今更断るのは気が引ける。
「わかりました。」
「そこで、他に決めたいことはどんなことでしょうか。お願いします。」
それだけ送って、もう寝ようと紫暮は布団を被った。それを察したかのように彼女からメッセージが届いた。
「ありがと〜!」
「それで、もう遅いし、どお、明日にする?」
なんか、自分の心の中を覗かれたような気がして背筋がスッとなった。でもこれが彼女なりの優しさなら、無碍にするわけにもいかないだろう。
「では、明日でお願いします。」
「おっけ〜!じゃあ、また決めたいこととか考えとくね!おやすみ〜!」
「おやすみなさい」
そこまで送って、もう寝ようとスマフォを置いた。もう通知は来ないようで、少しホッとして目を瞑る。なんとなくだが、今日はいい夢が見られるような気がした。そんな気が、初めてした。
山を
読んで下さりありがとうございました。