朝、というよりは昼に近い時間に起きた。スマフォを見ると、11時20分だとわかる。いつもなら
制汗剤ではどうしようもない
「やっほ〜」
彼女はひらひらと手を振った。近くだからいいのに、わざわざ手を振ってきたあたりさすが彼女というべきか。昨日出会ったばかりなのに、全く初頭効果とは恐ろしいものだ、と思う。
「傘、ありがとね〜。」
そう言われて、自分の手のうちに握られている傘をおもむろに彼女に差し出す。
「ありがとう、ございました…」
「いや〜、律儀だねえ、ありがと。」
そう言って、彼女は私の傘を受け取った。というか、借りた傘を返すのは律儀以前の問題だと思うが。
「てか、うち来る?」
「え?」
「いやなんかさ、作詞お願いした割にはなんかどんな風に〜とか決めてなかったし、お礼も兼ねてどお、みたいな?」
「えっと…」
そういえば昨日、LINEでそんな話をしていたと思い出す。ここで断るのは(私が人見知りだから)困難だろうし、おとなしく彼女に従った方がいいのだろうか。
「あ、じゃあ、お邪魔させていただきます。」
「え〜、ありがと〜。それじゃ、我が家までご案内します!」
そういうと、彼女は後ろを振り返った。私は彼女の隣に並んで歩く。外に出るとそこは灼熱で、扉一枚でこんなにも世界が変わるのだと痛感した。さっきまで冷風に当たっていたものだから、余計に辛く感じる。大通りに出て歩いていくと、昨日彼女の背中を追いかけたことを思い出した。そういえば、彼女の家は私の家と近かったと思い出す。
「そういえば、名前訊いていい?」
「えっ?」
「よかったらでいいんだけどさ、LINEの名前、時雨、だったじゃん?本名はどうなのかな〜って思ってさ。別に、聞き流してくれてもいいんだけど。」
聞き流してくれてもいい、といっても私はこの状況で聞き流せるほどの人間ではない。
「えっと、本名もしぐれ、なんですけど漢字が違って、紫に夕暮の暮で
「え〜ふつくしい名前だね、いいな〜。」
「あの、貴方のお名前は……」
「あ、れのんだよ、
「みかぐら?」
「御中の御に神楽だよ、珍しいでしょ、たぶん。」
自分で「たぶん」というんだから世話がない。それにしても御神楽とは、本当に珍しい名字だと思った。栂村さんレベルだろうか。そんなどうでもいいことを考えて、幾つかのしょうもない話をしながら歩いていった。
「着いたよ。」
「え?」
確かにそこは私の家の近くだったけれど、近くにこんな家があったなんて知らなかった。そういえば、ここは私と同じ学区だけれど、校内でこんな子を見た記憶はない。一年以上あの学校にいるけれど、名前も聞いたことがないとは、そんなこともあるものか。もしくは、転校生という可能性もなくはないか。
そんな私の様子を見たのか、彼女は私の心を見透かしたように言った。
「えっとね、夏休みの間だけここを借りてるんだよ〜。ぱぱの友達の親が住んでたらしいんだけど、もう亡くなっちゃったみたいで。で、処分する〜って時に友達がもったいないって言って譲ってくれたから、この時期だけ別荘として使わせてもらってるってわけ〜。」
「そう、なんですね…。」
それは、たぶんこの辺のニュータウンよりも倍ほど大きい和風の家だった。私もここに住んでみたいと思う、いわゆる貫禄のある日本家屋で、何やら松が立っていたり立派な家だった。
「ほら、入って入って〜。」
そう言って彼女は門扉を開けると、私を招き入れた。誘われるがまま玄関まで進んで内に入る。中は広く、うちとはまるで違った匂いがした。
「
「そう、なんですね…。」
まったく、渋柿とはなんだろうか。たぶん塗料か何かだろうが、知らないこともあるものだ、と思った。それはそうと、内装も随分侘び寂び(?)があり、時代劇か何かに出てきそうな様子だった。
「あ〜、こっちこっち〜。」
そういうと、彼女は私を居間らしいところへ連れていった。私の部屋より綺麗で羨ましい限りだ。いやでも、そもそも私の部屋には荷物が多いからしょうがない。(なんていうのは言い訳だが。)
「まあまあ、座って座って〜。」
「あっ、はい…。」
示されたそれは座椅子で、居間の部分だけ畳になっていた。居間の中央には飯台があって、卓上には一輪挿しとティーポットが置いてある。私は窓際の席に座ってスマフォを一瞥した。
「お待たせ〜、ささ、食べて食べて〜!」
「あ、ありがとうございます…。」
彼女が持ってきたのは牛乳と
「ジャボチカバだよ、それ。南米産の常緑高木で、確かフトモモ科だったと思うんだけど〜…。」
「へー、そう、なんですね…。」
「でさ、曲なんだけど、先ず引き受けてくれてありがとうね、ほんと。でね、あの、最初に詩を書いてほしいんだ。それ見て曲作りたいんだ。それでいいかな?」
「あ、私は大丈夫です、ただ……,ちゃんと詞が書けるか不安で」
でも、言われてみれば確かに美味しかった。独特な味だったが、不味いとも思わなかった。ただ、それはあまり他人の家では出てこないようなもので、いやそもそも我が家で出たこともないものだ。というか、そんなものをスーパーで見たこともないし日本で流通しているものなのだろうか。
「どお、おいし?それ、庭に生えてるんだよ。」
「あ、そうなんですね…」
「それでね、曲なんだけどさ、先ずは詞を書いてほしいんだ。それを見て曲を作りたくて。それで、お願いしていいかな?」
「はい…、ただ、詞なんて書いたことないんです…、だから……」
「だいじょうぶだよ、そんな心配しなくて。」
その自信はどこからくるのか疑問でしかなかったが、先ずは試してみようと思った。
「あ、そうだ、機材とかちょっと見てって〜。 二階にあるから〜。」
そう言って彼女は立ち上がった。私も立ち上がって後ろをついて歩く。彼女の部屋に入ると、そこは、その、なんというか……、混濁に満ちていた。確かに片付いた部屋なのだが、とにかく物が多かった。壁一面のプラモとその箱、フィギュア、本、漫画、恐らく何かの祭壇であろうもの、額縁に入った絵、布団、それから机、椅子、パソコン(たぶんMac)、スピーカー、iPad、文房具、用途不明の黒い機器……壁が見えなかった。
「あ、そうそうこれこれ〜」
「え、それって…」
「そう、初音ミクちゃん!」
「せっかくお迎えしたんだけど、どうも歌詞が書けなくて、だからほんとありがとね!」
「いえいえ、別に…」
確かに紫暮はボカロが好きで、延いては音楽を聴くことも好きだがどうも楽譜が読めない。だから何かの一瞬の気の迷いで曲をつくってみたいと、つくれたらいいなと思ったこともあった気がする。でもそれは私に分不相応なことで、そもそも機材購入費も小遣いでは足りないし諦めた。まあこういう一瞬の気の迷いはたぶん他の人にもあるだろうし、私だけではないだろう。
その後部屋を一通り見て下に降り、しょうもない話をして、時計の針は4時54分を指す。
「あ、もう時間が…」
「あ〜もうこんな時間か〜、ありがとね、今日は付き合ってくれて〜。」
そう言って彼女は立ち上がり、私を門まで送ってくれた。
「ばいば〜い。ありがとね〜。」
「あ、さようなら……。」
家はこの近所で、帰路は短い。十字路の向こうの地平線に夕陽が沈んでいた。美しいと思ってスマフォを向ける。家に帰り着き、色々やって布団に入り意味もないスクロールを繰り返す。
気づけば24時、もう寝ようとスマフォを置いて布団を被る。
でも、眠れなかった。ずいぶん長い時間、
あ、そうだ、歌詞を書きたい。
ただ、そう思った。なんとなくだが、書けるかもしれないと思った。根拠はないけれど、そんな気がした。紙を広げて鉛筆をもつ。もうすぐ25時、久し振りにこんな遅くまで起きていた。
氷だけが守る私貴方にだけは解かされて
*初音ミクは、クリプトン・フューチャー・メディア株式会社の登録商標です。
読んで下さりありがとうございました。