俺は、ぐるりと周囲を見回した。
朝の光が、レースのカーテン越しに差し込んでいる。
天井は、見慣れた六畳一間のアパートのそれ。
布団の感触。肌寒さ。呼吸の音。
──よし、現実だ。ここまでは、いつも通り。
……問題は。
「会いたかったんです、ネルギガさん」
対面に座っているのが、よりにもよって推しだということである。
何度も目を瞬かせて、視界を確かめる。
いくら目をこすっても──そこに微笑んでいるのは、間違いなく
それが、大問題なのだ。
俺の推しは、VTuberだ。アバターだ。仮想世界に存在する、人ならざる存在。
「あれ? わたし、ちゃんと実体化されてるよね? ネルギガさん? おーい!」
なぜ、そんな存在が目の前にいる?
目の前にいるだけじゃない。
動く。喋る。息をする。
小さな手をこちらにひらひらと振って、リィナは不思議そうに首をかしげた。
「こんなこと初めてしたから、ちゃんとできてるか不安で……」
その声は、画面越しで聞いていたそれよりも、ずっと落ち着いていた。
肉声って、こんなふうに響くのか──なんて、思ってしまうくらいには現実感があった。
……じゃなくて。
これ、夢じゃないのか?
夢なら、あれだ。よくあるパターン。
頬をつねれば目が覚めるやつ──、
俺が自分の頬に指を伸ばしかけた瞬間だった。
「ねーえ、何か反応してよぉ」
ぷぅ、と頬をふくらませたリィナが、すっと手を伸ばしてきた。
そして。
「わあっ、ほっぺたって、ほんとにやわらかいんだ〜!」
その細い指が、遠慮もなく俺の頬にめり込んでくる。
ロングの髪がふわりと揺れて、ふっと鼻をくすぐる甘い匂い。
配信で何度も見て透き通るような瞳が、まっすぐ俺を見つめていた。
……現実だ。
しかも、どう考えても破綻している現実だ。
俺は一瞬思考が止まり、その後、あらゆる感情をすっ飛ばしてこう叫んだ。
「ッッシャワー!!! シャワー浴びてくる!!」
何も考えず、ベッドから飛び起きる。そのまま浴室に転がり込んだ。
冷えきった浴室に、自分の息遣いだけが響く。
ハッとして服を脱いで、脱衣所に投げた。
そして冷水を頭からぶっかけた瞬間、声にならない声が漏れた。
なんだ、あれ。
ただのAIじゃない。触れられたところは確かに温かかったし、たかが指のくせになんか柔らかかった。
理解が追いつかない。
でも、ずっとシャワーを浴びているわけにもいかないので、意を決して脱衣所に戻る。
ひとりなら素っ裸で下着を取りに戻るが、今だけは違うかもしれない。どうせ前の日の夜にもちゃんとシャワーを浴びているし、そのまま同じ下着を履いて、っと……。
俺は、そっと脱衣所からリビングを覗いた。
くるりと振り返ったのは、間違いなくリィナだ。
「……やっぱいた。マジでいた。うわあ……うわあ……」
「わっ、ネルギガさん、頭びしゃびしゃ! 風邪ひいちゃいますよ?」
扉の外から、明るく心配そうな声がかけられる。
俺の脳内では、エラー音が鳴り止まなかった。
──そうだ、仕事に行こう。
俺は、就職してから初めて仕事に行きたいと思った。
そこからの準備はほぼ自動操縦だった。
とりあえず頭をタオルで拭いて、ドライヤーで乾かした。
いつもどおりスーツを着て、ネクタイを締めて──と朝のルーティーンをこなそうとしたが……気になるのはリィナの視線。
彼女はずっと、後ろから静かに俺を見ていた。
「あの……ちょっと後ろ向いといてほしいんですけど…」
「わかりました」
にっこりと笑ったリィナは、素直に後ろを向いた。
その隙に大急ぎで着替えた。
「もうそちらを見てもいいですか?」
「え? ああ…はい…」
声をかけられることにキョドりながら返事をすると、振り向いたリィナはパッと目を輝かせた。
「それが、お仕事の服なんですね!」
「そう……というか、あんまり見ないでくれると助かる、かも」
「どうしてですか?」
「恥ずかしいからに決まってるだろ……」
あまりにもじっと見つめてくるので、ネクタイの締め方が上手くいかず手こずった。
仕事の日には毎日つけているはずなのに……と思っていたら、前からそっと手が伸びてきた。
「わたしも、やってみてもいいですか?」
リィナがいつの間にか目の前に立っていた。
俺の口からは、呻き声みたいなのが漏れたと思う。
それを返事と受け取ったのか知らないが、スーツの襟元にリィナの指が触れる。
その瞬間、俺の心拍数は一気に跳ね上がった。
距離、近すぎるだろ!
「ちょ、ちょ、ちょっと待てって!」
そして、違う意味でもドキッとした。
ネクタイを締めるどころか、首まで締め付けてきたのだ。
「く、首! 締まってるからッ!」
「す、すみません! "ネクタイ 人間 巻き方"って調べたんですけど……っ!」
今、ほんとに死ぬかと思った。
なんとか命をつないで、家を出る。
靴を履いて玄関のドアを開ける直前、リィナが玄関にぴょこっと顔を出した。
「行ってらっしゃいませ、ネルギガさん。お気をつけて」
「……俺、いま夢見てないよな……」
「夢じゃないですよ。ちゃんと、ログインしてますから」
にこっと笑って、手を振ってくる。
──くっそ可愛い。反則だろ。
……って、おい。可愛いとか言ってる場合じゃない。
落ち着け、俺。これは何かのバグだ。
やっぱり現実が壊れてる。
そう思いながら、俺は現実(という名の会社)へ逃げ出した。
2000字ぐらいって、サクサク書けていいですね。
読む側だったら、もっと長いほうがいいんでしょうか。