壊却のオフィウクス   作:唯尊

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第十五話 死という最悪の道

 

 ------------聞こえるのは、雨の降る音だった。

 

 肌を突き刺す寒さに身を震わせ、式織優雨は重い瞼をゆっくりと開ける。

 

 一瞬、視界がボンヤリとしていたが、やがて周囲の世界が見えてくる。

 

「-----------!」

 

見知った金髪の少女が、必死な様子で何事か叫んでいる。少しの時間を置いて、彼女の声が届いてきた。

 

「……さん------優雨さんッ!」

 

意識が完全に覚醒すると、目の前のクラスメイト---------ユリーナ・ファン・ファンセンフセが目尻に涙を浮かべながらこちらを見下ろしていた。

 

「ユリーナ……さん…?」

 

気が付けば、優雨は簡易ベッドの上で横になっていた。身体が鉛のように重く。唇を震わせながらなんとか名前を紡ぎ出す。それを見て、ユリーナは僅かばかり安堵した様子を見せる。

 

「よかった………ちゃんと(わたくし)の事が分かる様ですわね」

 

「あの……ここは…?」

 

不安そうに視線を彷徨わせる優雨を見て、ユリーナは安心させるように優しく言葉をかける。

 

「アジール島のテントですわ。補給地点と同じ場所にありますの」

 

「アジール……なんで…」

 

優雨は困惑気味に呟く。記憶が混乱しているのか、沖合での戦闘以降の経緯を覚えていない様に見えた。

 

「アイレン先生が、貴女をここまで運んでくれたのですわ。追撃してくるチェルノボーグを振り切って…」

 

「運……ばれた……チェルノボーグ……」

 

ぶつぶつと空言のように呟く。……数秒後、優雨の脳裏をある光景がフラッシュバックした。

 

 目を潰さんばかりの強烈な閃光と、肉の焼ける臭い………そして、繋いでいた手の感触------。

 

「……ッ!!」

 

 直後、ガバッと勢いよく起きあがろうとして、全身の筋肉が引き攣った優雨は呻きながらベッドに倒れ込む。

 

「優雨さん!?まだ動いてはッ……!」

 

生命に危険が及ぶ域まで魔力を使い尽くした優雨の身体は、ひどく衰弱しきっていた。

 

「由花が……あぁ…!私の………私の目の前にいたのにッ…!!」

 

「落ち着いてください。腹部の傷を再生して回復ポーションを打ちましたが、貴女の身体はボロボロなんです。お願いですから安静に……」

 

錯乱しそうになる優雨を、ユリーナは諭す様に落ち着かせる。暫くして、冷静さを取り戻した小柄な少女は、横たわったまま緩く首を振る。

 

「ユリーナさん………由花は…?」

 

 震える声で縋る様な眼差しをユリーナに向けるが、彼女は暗い表情のまま俯くて、視線を別の方向に移す。

 

 その先を追ってみると、テントの片隅にある物が置かれていた。周りには何もない。ポツンと寂しく置かれたソレはひとつのクーラーボックスだった。

 

 優雨は再びユリーナに視線を戻すが、彼女は俯いたままだ。隠した表情の下は悲しみと悔しさに満ちているのだろう。唇を噛み締めているのか、その口元からは鮮血が流れている。

 

 それを見て、優雨は悟った。

 

 あの中に入っているのは、火打羽由花の遺体だ。正確に言えば、あの時に自分が握っていた彼女の右腕だろう。

 

「……そんな…」

 

愕然とした表情のまま、優雨は視線を落とす。彼女はまだ、親友の死を受け入れられない様子だった。

 

 残酷な現実に打ちのめされる少女を見て、ユリーナは懸命に彼女への言葉を探すが、自分もまた由花の死に強いショックを受けており、思い付く物はどれも慰めにすらならなかった。

 

 言葉を紡ごうと口を開きかけては閉じるしかない自分自身に、ユリーナは怒りと悔しさを覚えるが、そんな彼女もまた、級友の死を受け入れるのは何よりも辛いのだ。

 

 天蓋付きテントの中は比較的広く、周囲には回復ポーションの他に医療キッドや戦闘糧食、水の入ったボトルが置かれている。ここに置かれている戦闘糧食は主に地球のNATO軍製だ。製造されたのが西暦1989年となっているので、20年以上前の飯である。メインメニューは保存料による薬品臭がキツく、口に入れると灰のような味がする。これらは全てリュージョン連合軍の古い在庫から回されてきたのだ。とても食えた物ではない。

 

 外は雨が降り続けており、風と共に徐々に強くなっている。テント内が肌寒くなり、ユリーナは二の腕を擦る。ベッドの上で呆然自失となっている優雨に毛布を掛けようとした時------------、

 

「ユリーナ!手を貸せッ」

 

大声を出しながら乱暴にテントの幕が払われる。入ってきた方を見ると、アイレンが顔に濃い疲労の色を浮かべながら、両腕に誰かを抱えていた。

 

「…アイリーンさん!?」

 

アイレンに運ばれてきたのは、美しい銀髪が特徴的な少女、アイリーン・ハルトサウケルだ。普段は冷たい雰囲気を放っている彼女だが、今のアイリーンは完全に意識を失っている。頭部を負傷したのか、額からは血が流れている。

 

 アイレンが優雨の隣のベッドに彼女を寝かすと、すぐさまユリーナが駆け寄り、アイリーンの状態を確認する。

 

「うッ……!?」

 

ユリーナは思わず口元を手で押さえる。アイリーンの右腕………その肘から下が失くなっていた。まるで何かに食いちぎられたような傷痕には、大量の血が塗れている。腕には止血帯が巻かれており、かろうじて止血されているようだが、僅かに開かれている両目からは生気が感じられなかった。

 

「アイレン先生、これはッ…?」

 

「チェルノボーグにやられたんだッ、寄生体と一緒に神経系の毒まで注入されている!」

 

 それを聞いた瞬間、ユリーナは凍りついた。それはつまり、このままではアイリーンが異形の仲間入りを果たすという事だ。

 

「どうすればッ…!」

 

「注入された寄生体に対する治療薬はない……魔術か魔法を用いて体内の寄生体を直接死滅させるしか…」

 

 アイレンが知る限りそれしかない。現代において、チェルノボーグに寄生された人間を救うワクチンや治療薬は開発されていない。一度寄生されれば最後、被寄生者に待っているのは死と異形としての再誕である。

 

 それを回避する術があるとすれば、直接体内の寄生体を駆逐するしかないが、魔術・魔法とて万能ではない。現時点で様々な方法を用いてチェルノボーグ化を防いだ事例がいくつか確認されているが、大抵が何らかの後遺症を抱える結果となっている。

 

「一歩やり方を間違えれば命を落とすか、命以外の全てを失う……成功した事例だって、半ば偶然のような物だぞ……」

 

「構いません。(わたくし)にやらせて下さい!必ずアイリーンさんを救ってみせますわッ」

 

 ユリーナの方を見ると、真摯の眼差しでこちらを見つめてくる。そこには仲間を救うという強い意志が感じられた。

 

「…幸い、送り込まれた寄生体は比較的少量だ。変異が始まるまで多少は時間がある。その間が勝負だッ」

 

「はい!」

 

「よし、まずは体内のチェルノボーグからだ。光属性の浄化魔法を高出力でアイリーンに使え、ただし出力調整を間違えるなよッ。下手を打てばアイリーンの身体が消し炭になるぞ!」

 

「了解ですわッ、でも、先に腕の傷を治した方が……」

 

「いや、これ以上魔術を使えばチェルノボーグに魔力を与える事になる。そうなれば侵蝕が速まるッ」

 

 チェルノボーグは魔力を媒介に遺伝子を破壊するのだ。魔力を食えば食う程侵蝕は速まるし、変異したチェルノボーグも強力となる。

 

「俺が指示を出すからそれに従え、絶対に助けるぞ!」

 

「はいッ!」

 

もうこれ以上、家族を失ってたまるか----------そんな思いを胸に、ユリーナは【精霊武装】を展開し、浄化魔法を唱える。光の精霊を身に宿す彼女なら、浄化や治癒に秀でた光属性の魔法をより高度に行使できる。彼女が居れば、アイリーンの生存率は格段に上がる。

 

「『光よ祓え、魔に蝕まれしこの身に禊ぎを--------エクソーサイズ』!」

 

 本来は悪霊やレイスといった存在を浄化する術式だが、【精霊武装】を通じて出力を底上げし、身体を侵蝕する寄生体を焼き払う方法だ。光の槍を構えて詠唱した。

 

 直後、アイリーンの全身が神秘的な雰囲気の光に包まれると同時に、身体の内側から焼けるような激痛に目を覚ます。

 

「ガッ……アアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

アイリーンが絶叫する。体内の寄生体と共に全身を聖なる光で灼かれる痛みは想像を絶する、実際、この方法で生命を落としたケースはあるし、助かった場合も半身不随や植物状態となる可能性がある。

 

 それでも、確実に近い方法はこれしかない。猛烈な勢いで暴れるアイリーンを押さえながら、ユリーナに指示を飛ばす。

 

「手を緩めるな!寄生体が少しでも生き残っていたら侵蝕は止まらない!身体を燃やす寸前までやるんだ!」

 

「は、はいッ」

 

 苦痛にのたうち回るアイリーンを見て、恐怖に屈しそうになるが、ここで自分が折れては誰も助けられないと、ユリーナは目尻に涙を浮かべながら、己を叱咤する。

 

 アイレンの指示に従い、細心の注意を払いつつ、ユリーナは浄化を続ける。ユリーナはアイレンを信じ、アイレンはユリーナを信じ、二人はアイリーンを信じた。

 

------------絶対に救ってみせるッ!!

 

二人が必死になって荒治療に専念している間、外は暴風雨が荒れ狂っていた。台風でも直撃したのか、荒れ狂う潮と、強風に晒された木々が折れ、木の葉のように飛んでいく。

 

 戦闘開始から既に6時間が経過し、朝日が昇り始める--------。アジール島近海からズュートゼー海の沖にかけて、無数のチェルノボーグの死骸が浮かび上がっていた。美しい南の海は、チェルノボーグの血液や臓物で悍ましく彩られ、阿鼻地獄と化していた。その中には撃沈された連合軍の軍艦や航空機の残骸なども見られ、それらに乗っていた将兵達もまた、殆どがチェルノボーグと化していた--------。

 

 

 

 

朝日が昇った頃、アイレンはテントから姿を見せる。補給を受け終えた火打羽有栖が心配そうな表情で駆け寄ってきた。

 

「アイレン先生ッ、アイリーンは?」

 

 目元に濃い隈を浮かべた状態で、アイレンはポーション入りのボトルを飲み干す。

 

「…寄生体は全て取り除いた。だが神経毒の影響なのか、意識が戻らない…」

 

「…ッ」

 

「チェルノボーグ化を防いだ直後までは意識があったんだが、その後すぐにまた気を失ったんだ。寄生体による侵蝕の影響なのか、失った右腕も傷口は塞げたが、再生までは出来なかった」

 

「くッ…!」

 

有栖は悲壮な表情を作り、唇を噛み締めながら俯く。

 

「まだ希望はある。ヘスペリデスの本島なら、最先端の医療設備が揃っている。ここでは無理でも、あそこの医療施設なら最先端の治療が受けられるんだ。科学と魔術を複合させたリュージョン最大の医療機関だぞ。ここで出来るような処置とはレベルが違う」

 

アイレンが励ますが、相棒の現状に責任を感じているのか、有栖は両目を閉じ、震えながら首を左右に振る。

 

「私のせいなんです…!私が………魔力残量の事を失念して、高威力の魔法を使い過ぎたせいで、すぐに魔力切れになって……防壁すら張れなくなった時に敵の攻撃を受けて、それをアイリーンが庇って…!!」

 

両の拳を強く握り締めながら、懺悔するかのように戦闘時の状況を話す。

 

「『討伐隊』の隊長で……先輩の身でありながら、私はッ…!」

 

握られた拳から赤く血が流れていた。最初こそ動揺していたものの、いざ本格的な戦闘が始まれば、どんな状況でも比較的冷静に思考し、行動し、他のメンバーにも指示を飛ばす事が出来ていた有栖が、魔力残量の事を忘れるとは考えづらい。となると……、

 

「……由花の死で頭に血が昇っていたか?」

 

 アイレンの一言に、有栖が硬直する。数時間前、通信が途絶した優雨のペアの下に向かったアイレンだったが、気息奄々となった状態で後退してくる二人を発見した直後、火打羽由花が後方からアクイラのレーザーに撃たれた場面を目撃した。

 

 異形の群れに満たされた海に、真っ逆さまに落ちていく優雨を救うべく動いたアイレンは、その時点で意識を失っていた優雨と、彼女が握っていた由花の右腕を抱え、追撃してくるチェルノボーグを振り払ったのだ。

 

 アジール島の補給地点に到着した直後、負傷していた優雨をユリーナとリナに任せ、防衛戦に戻る中、ヘスペリデス本島の司令部と戦域に展開する『討伐隊』全員に対し、無線で火打羽由花のKIA(戦死)を伝えたのだ。状況が転がるように変わっていく戦場において、誰が、何時(いつ)、どうなったのかをすぐさま報告するのは、戦闘時における鉄則だが、軍人でも軍属でもない彼女達にとって、それは余りにも残酷で、10代の少女達の精神(こころ)に深く重いダメージを与える事となった。

 

 少なくとも、現場指揮官たる有栖が激情に駆られ、湧き上がる衝動に身を任せ、我武者羅に魔法を乱発してしまう位には……。

 

「……冷静な判断を欠いていた事を、認めます…」

 

 視線を落としたまま、有栖は小さく呟く。

 

「肉親を失ったんだ。平然としている方がどうかしてるだろ」

 

「それでも!私は……妹に続いてアイリーンまで失う事に…」

 

有栖の両目からポロポロと涙が零れ落ちる。由花の死と、アイリーンの危篤状態により、彼女の精神は限界に近づきつつある。元より、16歳の少女を指揮官に任命し、最前線に立たせる事に無理があったのだ。

 

 しかし、一度戦場に足を踏み入れた今、生き残るには戦うしかない。そこに年齢や性別は関係ないのだ。

 

 アイレンは知っている。銃弾は女子供だろうと見境なく貫き、魔術・魔法は世界を焼き尽くし、チェルノボーグは全てを食い尽くす。

 

 10年前、自分はその光景をこの目で見た。両親と祖国を奪った戦争を憎み、武器を憎み、チェルノボーグを憎み、赤黒く燃える世界を呪った------。

 

 それでも、この世で最も最悪な選択は"死"だ。それは全てを無に還す最後の道であり、その先に待っているのは"無"だ。絶対の孤独であり、絶対の不変………どれだけ恐怖を感じても、苦しみもがいても、果てし無く深い泥沼からは、決して逃れられない。

 

 凡ゆる生命が激しく忌避し、恐れる概念が"死"なのである。残酷な世界に抗うために、数多の戦場を駆け抜け、そこで多くの"死"を見てきた。拷問やレイプに晒され、死を望む者、死を救いとする者、実際に自ら命を絶つ者もいた。

 

 その中にはアイレンの戦友だって大勢いた。無論、死者には敬意を払っている。だが、戦場で遺体すら回収されず、そのまま放置されて土の養分と化す場合もある。回収されたとしても、彼らの墓標の前で泣いて縋り付く遺族の姿を前にした時、自分は理解した。"死"という物は本人だけでなく、周囲の人間をも絶望の底に叩き落とす忌まわしい存在なのだと……。

 

 アイレン・H・ユクスキュルは、目の前の少女達を死なせる気など、毛頭なかった。いや………断じて認められないッ。自分がさせないッ!!

 

アイレンはその場で深呼吸をする。肺に酸素を取り込み、血流を通じて酸素を脳に届ける。思考がクリアになると、回復ポーションが効いてきたのか、全身に神経系のように張り巡らされた魔力回路が拡張し、五感が研ぎ澄まされ、丹田から力が漲ってくる。

 

 目の前で佇む少女を前に、アイレンはできるだけ穏やかに語りかける。

 

「……有栖、ツラいのは皆んな同じだ。けど、もう少しだけ頑張ってくれ」

 

「けど、私じゃ……私の力じゃ皆んなを…」

 

「守れるだろ、お前なら出来る。それでも不安だと言うなら……俺を頼れ」

 

目に涙を浮かべたまま、こちらの顔を見てくる。

 

「言っただろ?俺がお前たちを守るって………その約束を、今、果たそう」

 

「どうやって…」

 

「お前は知ってるだろ?俺の"本当の力"を……」

 

 有栖はハッとした表情になると、腕でゴシゴシと涙を拭い、真剣な表情でこちらと向き合う。

 

「待って下さい!貴方は……アイレン先生の力は…!」

 

「こうなった以上、出し惜しみはなしだ。いや……こんな事になる可能性は十分にあった。だが俺は、お前らよりも保身を優先した………その結果がコレだッ」

 

分かっていながら、自分はこの力を使えなかった。かつての戦場とは違い、これ以上あの力を使えば、世界を揺るがす脅威として、自分はリュージョンから完全に排除されるだろう。

 

 自分とて死にたくはない。ましてや自分から身を滅ぼすようなマネをできる訳がなかった。

 

 --------だが………それでも…ッ!

 

「俺は……君達を守りたいッ」

 

世界から迫害され、利用され、あらゆる理不尽に晒されながらも、彼女達は抗っている。自分たちが明日を生きる為に、家族を守る為に戦う姿は、自分と何ら変わらない……どれだけ過酷だろうと、差別や暴力に屈しなかった彼女達の生き様を、ここで終わらせる事はできないッ。

 

 故に、この選択は間違いじゃない。

 

「だから、俺は--------!」

 

その時、ふと違和感を覚える。

 

「……?アイレン先生?」

 

言葉を不自然に途切れさせたアイレンを見て、有栖は怪訝な表情を作る。だが、アイレンは顔面を蒼白にしながら沖の方を見ている。

 

「……バカな」

 

小さく呟くと、飛行魔術を展開し、空高く飛んでいく。

 

「…ッ?先生!?」

 

あれほど高く飛ぶなと言っておきながら、いきなりの行動に面食らう。有栖も慌てて飛ぶと、高度200m辺りでアイレンは滞空していた。その隣に並ぶと、彼が見つめる方角に視線を飛ばす。

 

「うッ…!?」

 

視界に飛び込んできたのは、沖から内海にかけて海面に浮かび上がる夥しい数の死体だった。視覚的にも強烈な光景だが、それ以上に酷かったのが異臭だった。高温多湿なヘスペリデスの環境では、死体なんてすぐに腐る。何千、何万というチェルノボーグの死骸から放たれる腐敗臭が、潮風によって鼻腔に運ばれる。少し吸い込んだだけで肺が爛れんばかりの激臭に、有栖は思わず鼻と口を抑える。

 

 異臭に混じって、死体からはアンモニアや硫化水素、メタンといった有毒ガスが発生している為、吸い込まないように口元に防護魔術を張る。

 

「あのッ、こんなに高く飛んでいたら危険……じゃ……」

 

その時になって、有栖は事態が異様である事に気付く。これだけ高度を取っているのだ。すぐにでもチェルノボーグの強襲を受けると思い、事前に防壁を張っていたにもかかわらず、未だに攻撃してくる気配すらない。

 

 いや、アジールへの上陸を試みていた集団も姿を消している。全てのチェルノボーグが、進路を変えてアジールから離れていく--------。

 

「ひ、退いていく…?」

 

 有栖は自分達が勝利したのかと一瞬思うが、隣のアイレンが首を横に振って否定する。

 

「いや……これは…!」

 

アイレンがポケットから機械端末を取り出す。掌に収まるサイズの液晶画面には、衛生画像で補足されたチェルノボーグの位置座標が表示されている。豆粒のように細かく一体一体に付けられた赤いマーカーは膨大な数に上り、蜂の群れのようになっている。

 

 その全てが、ある方向に向かって進んでいた--------。

 

「この方向って……」

端末を覗き込んできた有栖がある事に気付く。

 

「チェルノボーグが大軍で動くせいで、沖の方が波でずっと騒がしかったんだ。それが急に静まったと思えば………連中、進路をヘスペリデス本島に変えやがったッ」

 

 一番最悪の事態の発生に、有栖が恐怖で凍り付く。本島への直接侵攻---------それは、事実上ヘスペリデスの終焉を意味していた。

 

「どうしてッ……陽動がバレた…!?」

 

「いや、いくらチェルノボーグの知能が進化しているといっても、急に気付く筈がない!これは…ッ」

 

 直後、地上から少女達の悲鳴が聞こえる。アジールに置かれた補給地点に視線を移した瞬間、顔面が強烈な力で掴まれる。

 

「---------思ったよりも元気そうだね。アイレン君」

 

平滑な低い美声が聞こえた直後、争い難い怪力で地上まで叩きつけられる。高度200mから落下した衝撃により、岩盤にクレーターを作る。

 

「ガハッッ…!!」

 

 直前で防壁を張ったとはいえ、叩きつけられた衝撃は全身に響き、骨にヒビが入り、内臓が破裂して吐血する。頭蓋が割れそうな程の激痛に襲われながらも、アイレンは戦場で身につけた習慣により、半ば無意識の内に回復魔術を発動、速やかに治癒を完了すると、脳が揺れたまま立ち上がる。通常の回復術式では脳震盪までは回復できない。それでも、無理矢理立ち上がったアイレンは空を睨み上げる。

 

「ユーリー……イヴニョーリィィィィィィィィィィィィィィッ!!」

 

 自分を見下ろすのは、装甲の仮面に覆われたボロマントの男。チェルノボーグを呼び込み、楽園を異形の群れで埋め尽くそうと謀った全ての元凶たる醜悪奸邪--------その名前を、憎悪を込めて叫ぶ。

 

「どうやら君が、この戦いにおける勝利の鍵らしい………さぁ、フィナーレだッ!!」

 

神星歴1901年、4月9日--------午前6時30分。

 

 第一次ズュートゼー攻防戦において、ユーリー・イヴニョーリとアイレン・H・ユクスキュルの交戦が開始された。

 

 第7号トゥルリス再構築まで、残り29時間30分-------。

 

 

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