ハルユキミサキ from Gemini 作:test sentinel
『アンチノミー・アーク File.9:色彩のテュラノス』より
(決戦)
「色彩宮殿」の最奥「純白のアトリエ」は、音すらも漂白されたかのような静寂に満ちていた。床も壁も天蓋も、全てが寸分の狂いもない純白のキャンバス。その中央に、男は絵筆を握って立っていた。
彼の名は「マエストロ」。かつて神童と呼ばれたほどの芸術家だったが、ある日を境に歴史の表舞台から姿を消し、今やこの世界から全ての「不協和音」と「醜悪」を消し去り、完全なる調和に満ちた一枚の「静止画」へと作り変えようとする、狂気の調停者として君臨していた。
「……来たか。私のカンバスを汚す、最後のシミたちよ」
マエストロの声は磨き上げられたガラスのように冷たく、美しかった。彼の瞳は三人の侵入者を、まるで絵画に紛れ込んだ一点の汚れのように忌々しげに見つめている。
「うわ、見てユキ! 床、ピッカピカ! お母さんに怒られないように、靴下で滑って掃除したくなるやつだ!」
「ダメだよハル。ここで滑ったら、絶対インクのシミが付いてる服のままお母さんに抱きついちゃうパターンだから」
オレンジ色の髪を揺らすハルと、青い髪のユキが、この世の終わりのような緊張感が漂う空間で主婦の会話じみた寸劇を繰り広げている。彼女たちは世界の歪みを修正する秘密機関「アーク」のエージェントだが、その思考回路は世界のどんな歪みよりも歪んでいると評判だった。
そして、そんな二人の前に立つ黒髪の少女、ミサキ。彼女だけがマエストロの放つ芸術的なまでの殺意を、静かに、しかし真っ直ぐに受け止めていた。その手には鞘に収められたままの長刀が握られている。
「マエストロ。あなたの描く世界に、私たちは同意しない。筆を置きなさい」
ミサキの静かな宣告が、戦いのゴングとなった。
「愚かな。君たちのような『偶然』の産物に、私の『必然』の美が理解できるはずもない」
マエストロが優雅な仕草で絵筆を振るう。すると空間そのものがカンバスとなり、三人の周囲に黄金比で構成された光の檻が描き出された。檻に触れれば、存在そのものが「不必要な線」として消去される絶対の結界。
「うわ、閉じ込められた!」
「大丈夫ハル! こういうのは、大体どこかに鍵が……」
「鍵を探すのは面倒だ!」
ハルがユキの言葉を遮って叫んだ。彼女は両手を広げ、高らかに呪文を詠唱する。
「万物の霊よ、海の恵みよ、今こそ我が声に応えよ! イデア・サモン!」
彼女の能力は「無から有を生む」召喚魔法。ただし、なぜか召喚されるものは常に「魚介類の切り身」に限定されるという、非常に偏った能力だった。
ハルの足元に巨大な魔法陣が展開し、そこからまるで噴水のように大量の鮭の切り身が噴き出した。
「いでよ! サーモン・カーニバル!」
数千、数万の鮭の切り身が滝のように光の檻に降り注ぐ。ジュワッ、という生々しい音と共に檻の光が僅かに揺らいだ。
「なっ!?」マエストロが初めて眉をひそめる。「なぜだ……私の完璧な黄金比が、ただの魚の切れ端ごときで……」
「ふふん!」ハルが得意げに胸を張る。「鮭の切り身の、この美しいオレンジと白の縞模様! この自然が生み出した完璧なフォルム! その前では、あんたの作ったキザな檻なんて色褪せて見えるんだよ!」
「そんな馬鹿な理屈があるか!」
マエストロの叫びも虚しく、鮭の切り身は勢いを増し、ついに光の檻の一角を完全に覆い尽くした。法則が飽和し、檻の一点がパリンと音を立てて砕け散る。
その一瞬の隙をミサキは見逃さなかった。彼女はハルが召喚した鮭の切り身の山を、まるで流れる水の上を駆けるように駆け抜け、マエストロへと肉薄する。その動きには一切の無駄がなく、それ自体が完成された芸術のようだった。
「美しい……!」
マエストロは敵であるミサキの動きに思わず見惚れた。だが、その美しさが自らの美学を破壊するためにあるという事実に気づき、即座に憎悪の表情へと切り替わる。
「だが、届かぬ!」
マエストロは次の作品を描き始めた。ミサキの未来、数秒後の行動を「予測」し、その軌道上に絶対不可避の黒い槍を描き出す。
しかし、ミサキの背後からユキの呑気な声が響いた。
「あ、マエストロさん、ちょっと待って。その構図、どっかで見たことあると思ったら、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』じゃない?」
ユキの能力は「物語強制介入」。対象に特定の物語の登場人物の行動原理を、数秒間だけ強制的に植え付けることができる。
「定義介入! あなたは今、地獄の底から垂らされた一本の糸を登る、罪人カンダタである!」
「……何?」
マエストロの思考が一瞬だけ停止した。なぜ自分はカンダタなのだ? だが能力は強制的に発動する。彼はミサキを迎え撃つことよりも、遥か下の奈落(もちろん、そんなものはない)から他の罪人たちが登ってきていやしないかと、下を気にするという謎の行動を優先してしまった。
「カンダタは、こう考えたのでした。『おい、こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ』」
ユキが登場人物のセリフを朗々と読み上げる。マエストロはミサキに背を向け、誰もいない足元に向かって「下りろ!」と叫んでしまった。
その、あまりにも致命的な隙。ミサキの刃がマエストロの利き腕を、浅く、しかし正確に切り裂いた。
「ぐ……あああああっ!」
マエストロの悲鳴がアトリエに響く。彼の手から絵筆が滑り落ちた。未来予測の術が中断される。
「貴様ら……よくも……よくも私の神聖なアトリエで、このような下劣な真似を……!」
マエストロの怒りが頂点に達した。彼の身体から純白のオーラが嵐のように吹き荒れる。
「許さぬ。許さぬぞ、醜悪なるものども! 君たちのような、計算も調和も美しさも理解できぬ存在は、この世界には不要なのだ!」
彼は自らの血を絵の具の代わりに、空間に巨大な魔法陣を描き始めた。それはこの宮殿そのものを自爆させ、世界全体を道連れに全てを「純白」に塗りつぶす、最後の禁断芸術。
「ミサキ、やばい! あいつ、自爆する気だよ!」
「ハル、どうしよう! こういう時、どうすればいいんだっけ!?」
「こういう時はね、ユキ! もっとでっかい鮭を召喚するんだよ!」
「天才か!」
ハルとユキが、いつも通り役に立ちそうにない結論に至っている。ミサキはそんな二人を一瞥だにせず、ただ静かに暴走するマエストロを見つめていた。
「マエストロ」
ミサキの声は嵐の中でも、不思議とよく通った。
「あなたは、なぜそこまで『完璧』にこだわるのですか? なぜ、ほんの少しの『不完全』を許せないのですか?」
「黙れ!」マエストロが叫ぶ。「君に、私の絶望が分かってたまるか! あの日の、私の絶望が!」
ミサキの言葉が、彼の記憶の蓋をこじ開けた。
――それは彼がまだ、ただの天才画家だった頃の記憶。彼は生涯の最高傑作を描き上げた。光も影も色彩も構図も、全てが完璧な神の御業としか思えないほどの美しい絵画。彼はその絵画を前に、生まれて初めて自らの才能に打ち震えた。
だが。その、完璧な絵画の純白の余白に。一匹の、小さなハエが止まった。
たった、それだけのことだった。だが彼にとって、それは世界の終わりを意味した。完璧な調和の中に紛れ込んだ、たった一つの予測不能な不協和音。醜悪な黒い点。彼はそのハエを追い払うこともできず、ただその場で泣き崩れた。
そして彼は決意したのだ。この世界から全ての「ハエ」を――すなわち、全ての不完全で醜悪で予測不能なものを消し去り、二度と自分の作品が汚されることのない完璧な世界を創造するのだと。
それが、この戦いのあまりにもくだらない、そして、あまりにも悲しい真相だった。
「……そうか。あなたは、ただ怖かったのですね」
ミサキは全てを悟った。
「自分の完璧な世界が、たった一匹のハエごときで壊されてしまうことが。だから、あなたは世界そのものを誰も触れることのできないガラスケースの中に閉じ込めようとした」
ミサキはマエストロの目を真っ直ぐに見つめて告げた。
「ああ、なんて美しくて――なんて、カスみたいな世界なの、あなたの描く世界は」
その言葉はマエストロの心の最も柔らかな部分を抉った。
「……違う……違う! 私の世界は完璧だ! 美しい! それを、お前のような……お前のような、ただの暴力が!」
マエストロはミサキの強さと、その動きの洗練された美しさを認めていた。だがその力が自らの美学を破壊するために使われるという事実が、彼には許せなかったのだ。
「お前は、強い! だが、その力は何を生む!? 新たな混沌と醜悪な不協和音だけではないか! お前は強いだと? 適当な事を言うな、この嘘つき野郎が! お前のその力こそが、この世界で最も醜い!」
マエストロの絶叫と呼応するように、自爆の魔法陣がその輝きを最大にした。もう、時間がない。
「ハル、ユキ!」
ミサキが初めて焦りの滲んだ声で叫んだ。
「今すぐ、ここから離れなさい!」
「嫌だ!」
「断る!」
二人は即答した。
「ミサキを一人だけ残して、逃げるわけないじゃん!」
「そうだよ! 私たち、三人で一つのチームでしょ!」
ハルとユキはミサキの前に立ちはだかるようにして、それぞれの能力を解放した。
「いっけー! 召喚! 超弩級・一本釣り本マグロ!」
ハルが人生で一番の幸運を前借りして、全長50メートルはあろうかという巨大なマグロの切り身を召喚する。それが盾のように三人を覆った。
「定義改竄! このマグロは『あらゆるエネルギーを美味しく吸収する、究極の熟成肉』である!」
ユキがそのマグロに、とんでもない定義を上書きする。
マエストロが放った、世界を白紙に戻すほどの膨大なエネルギーが巨大なマグロの切り身に吸い込まれていく。切り身はみるみるうちに最高級のトロのように、美しいサシの入った見事な熟成肉へと姿を変えていった。
「……嘘だろ……」
マエストロがその光景を呆然と見つめている。自らの全てを賭けた最後のアートが、極上のマグロに変換されてしまったのだ。
そして、そのマグロの盾の向こう側から一筋の光が彼に向かって飛んでくる。ミサキだ。
彼女は熟成されたマグロの表面を蹴り、その反動を利用してこれまでの人生で最速の一撃を放とうとしていた。
その姿はマエストロの目には、かつて自分の完璧な絵画を汚したあの忌まわしいハエの軌跡と、なぜか重なって見えた。
ミサキの刃がマエストロの胸を貫く、その寸前。彼女は静かに呟いた。
「あなたの絵は、ハエが止まって初めて完成したのかもしれない。不完全さこそが、命の輝きそのものなのだから」
刃が閃いた。
後に残されたのは、全ての力を失いただ呆然と立ち尽くす一人の芸術家だけだった。そして、その傍らには山のように積まれた最高級の熟成マグロ。
「……見てユキ! めっちゃ美味しそう!」
「今夜は、マグロパーティだね!」
ハルとユキが目を輝かせている。ミサキはそんな二人を振り返り、静かに、しかしはっきりとこう言った。
「……これは証拠物件です。食べてはいけません」
「「えええええええええええっ!?」」
二人の悲鳴が純白のアトリエに虚しく響き渡った。世界の危機は去ったが、彼女たちの戦いはまだ当分、終わりそうにない。