異世界に行く方法があるらしい。
まずは十階以上でエレベーターのある建物を探そう。無い?そっかー。
だったら紙と、黒と赤のペンを用意しよう。紙に六芒星を書き、その中心に赤いペンで『飽きた』と書いて、それを枕の下に忍ばせて寝よう。
翌朝、なんとそこは異世界!
でも、十階以上の建物に深夜訪れて儀式する行動力があれば、異世界と思えるような場所へ行くことも出来るかもね。
異世界エレベーター
こんな噂がある、十階以上の建物にあるエレベーターで、ある儀式をすれば異世界へ行けるらしい。それを聞いた少年、鷺谷ツバサはすぐに実行へ移した。
ただの肝試しや怖いモノ見たさではない。擦り切れた体操着でさえオーバーサイズに感じる小さな体には無数の生傷と痣があった。吹きつける寒風に耐えるなど、とてもできないような細さだ。
異世界というものがあるのなら、行けるというのなら行きたい。そう思えるだけの理由が全身に刻み込まれていた。怪我した右足を引きずりながら異世界へ向かっている。
それが例え、人ならざる化け物に食い殺されるだけの世界であったとしても。
儀式は途中でエレベーターに人が乗ってくると失敗。そのため深夜の実行が好ましい。ツバサは冷たく硬い床で眠ったフリをして時間をやり過ごし、両親と弟が寝静まったことを確認して家を出た。寝過ごす心配は最初からなかった。
ツバサの家は三階程度のアパート。エレベーターもないので儀式はできない。近くの十階以上あってエレベーターもあるマンションへ行く必要があった。道中、二十四時間営業のファストフード店の隣を抜けていく。
(お腹減った……)
最後にご飯を食べたのがいつかも覚えていない。店から漂う匂いだけで口が涎に満ちていく。こんな世界とおさらばできるのなら、夜にエレベーターに乗る程度はどうということもない。
「うわっ!」
清掃の行き届いていないマンションの周辺は太い木の枝や石が転がり、油断すると脚がもつれてしまいそうだ。
ツバサはどうにかエレベーターに乗り、儀式の手順を熟す。四階、二階、六階、二階とボタンを押してエレベーターを移動させていく。最新のエレベーターは現在の階が上の画面に『二月十四日』という今日の日付と共に表示される。
異世界に期待はしない。そこが化け物の巣窟でエレベーターから降りた瞬間、頭から食べられてもツバサは仕方ないと思っていた。
だって、化け物なのだから。自分と同じ人間が、誰かを気遣ったその口で自分に暴言を吐く今の状態こそ不気味だ。
苦しくても痛くても、辛くてもひもじくても誰も助けてくれない。他の人がもっと軽い窮地で助けてもらえているのを、その状態で見せつけられるのが何より苦しかった。その点、異世界の化け物ならば納得も出来て諦めもつく。自分と違う世界の、自分と違う生き物なのだから出会いがしらに頭から齧りつかれても自然だ。
「次は……」
ここまで、誰も乗って来ない。次は十階のボタンを押して、エレベーターが十階に着いたら下りずに今度は五階のボタンを押す。
胸が高鳴る。この五階こそ儀式の成否を問う重要な場面なのだ。ここで女性が乗ってくるが、その女性は異世界の住人で話しかけてはいけないそうだ。エレベーターはついに五階へ到着する。
「え……」
しかし、扉が開いても誰も乗ってくる気配がない。儀式は失敗。もしくは最初からそんな儀式は無かったのだ。
「……はぁ」
ツバサは諦めて、一階のボタンを押す。帰る、実質的な投了だ。異世界など、そんな都合のいいものは存在しない。存在しないからこそ誰もが異世界を夢見るのだ。
しかし、幾分かは期待しており苛立ち混じりに、ツバサはエレベーターのコンソールを殴りつける。
「あっ」
そしてすぐ嫌悪感が満ちる。短気で癇癪を起すところは、ツバサ自身も嫌いなところであった。
「……」
エレベーターの壁に背中を預け、ツバサはずり落ちる様に床へ座り込む。もう体は限界だ。風の遮られたエレベーターは暖かく感じる。
怪我した右足を庇っていると、大丈夫な方の左足も痛む。本来は二本の足で支えるべき体を一本で支えようとするものだから、負担も増える。
自分の遺体がこんな場所で見つかれば、両親も驚くだろうなと彼はほくそ笑む。事故物件という言葉があるが、エレベーターはどういう扱いになるのだろうか。それを気にしながらツバサは目を閉じた。
ついぞ、エレベーターが一階ではなく十階に向かっていることに気づかないまま。
@
「おーい、大丈夫か?」
まぶしい。もう朝なのだろうか。結局、異世界へいく儀式は失敗したはずだ。
「人間の成長期?」
声が聞こえる。一体誰なのだろうか。人間らしい重さの足音は聞こえない。冷たい小さな何かが顔の左側に当たる。
「うっ……」
「怪我してるのか?」
「冷たっ!」
不意の冷たさにエレベーターで眠っていたツバサの意識ははっきりする。触れられたのは目にも及ぶ顔、左側の傷。既に古傷となっており天気によって疼く程度のものであるが、顔に冷たいものが当たれば驚きはする。
「あ、起きた」
「だ、誰……?」
目の前にいたのは雪で出来た、できた……なんと表現すべきだろうか。シロクマのような姿をしているが小柄なツバサよりも更に小さく、ぬいぐるみのようなサイズである。口元は氷でできており、シロクマでないことだけはわかる。
「オレ、ヒヤリモン。こんなところで何してんだ?」
「ヒヤリ……モン?」
頭が回らない。ツバサはこの怪生物を理解できないことに加え、頭に栄養が回っておらず考えがまとまらない。ただ一つ言えることがある。このヒヤリモンなるモンスターは『現実世界』に存在しない。
「う……」
「大丈夫か?」
瞼が重くなり、また意識が遠のく。このまま、また眠りにつくとせっかくたどり着いた『異世界』が、夢の様にかき消えそうでツバサは必死に耐えた。あの現実には戻りたくない。必死に目を開けてこの世界に留まろうとする。
「お、そうだそうだ。こういう時は……」
ヒヤリモンはまだ生傷や痣の残るツバサの左腕に、あるものを巻き付けた。ピンク色の腕輪。それは腕に装着された途端、長方形の文字盤が緑に輝き『BE』と何を指すのかわからないアルファベットを表示する。乏しい知識から引き出されたのは、スマートウォッチなる存在。
「んん……あれ?」
急にツバサの思考がクリアになる。空腹はそれまでと変わらないはず、喉の渇きもある。それなのに多少、体調がマシになっている。
「なに、これ……」
腕輪の文字盤には、現在の時刻とヒヤリモンの姿が描かれている。時刻は9時45分。
「学校……あるのかな、学校……」
本来は既に登校している時間だ。学校のことを思い浮かべると不意に胸が苦しくなる。思い起こされるのは痛みと、ノイズのかかった罵詈雑言。正確に思い出せないのは日常化しすぎていつの何かまで分からなくなっているのか、それとも心を守るために脳が忘れさせているのか。
「腹減ってるだろ? 近くにバーガモンの店があるんだ」
「……」
ヒヤリモンはエレベーターを出てどこかへ行こうとしていた。エレベーターは一階にいる。ツバサはどうにか立ち上がるとヒヤリモンについていく。エレベーターの外は普通のマンション。夜中に乗ったエレベーターであることは間違いない。
「……異世界?」
ぱっと見ではヒヤリモン以外に異変が見られない。ヒヤリモンは日陰を移動しており、氷でできた鼻先が少し溶けていた。小さいため歩幅は狭いが、今のツバサにとって助かるペースでの歩行であった。歩幅……と言いたいが脚がないアザラシみたいな体形なので本当にヒヤリモンが何なのかツバサは困惑だけを募らせている状態だった。
「っ……」
ツバサは不意に左足が痛む。怪我した右足ではなく、左足だ。片足を庇うというのは無事な足にも負担がかかり、なまじ無事だから気づかないのだ。
「大丈夫か?」
「な、なんでもない」
ヒヤリモンに心配されても、ツバサは咄嗟に押し殺してしまう。悪い癖というより、我慢しなければいけない状況が続きすぎて反射的にそう返してしまう。
「ここだ、ここ」
たどり着いたのはファストフード店。現在はテナントを募集しているのか、看板も白紙だ。
「……あれ?」
ツバサはここには確かに、あるファストフード店が入っていたことを昨日、あのエレベーターへ向かう道中に確認している。24時間営業で、漂う匂いに空腹が悪化したのをはっきりと覚えているのだから。
「安心しろって、デジタマモンの店と違ってお代いらないから」
ヒヤリモンに促されて店に入ると、そこには昨晩、道中で嗅いだのと同じ食欲をそそる匂いが存在した。キッチンの奥からは脂の泡立つ音がする。
「いらっしゃいませー」
「え?」
ツバサはすぐにここが異世界なのかと目を疑った。何せ、羽根の生えた唐揚げが飛んでいるのだから。
「とりからボールモン、初めてか? 確かになかなか見ないデジモンだからな」
「でじ……もん?」
ヒヤリモンの話に出てきた見知らぬ名前は全て、『○○モン』という名称になっていた。彼らの相称がデジモン、ということなのだろうか。
「あらいらっしゃい。人間のお客さんは初めてね」
キッチンからウーパールーパーのマスコットのような存在がやってくる。キッチンでは同じ見た目だが茶色いマスコット、タマネギの妖精などが料理している。ヒヤリモンはウーパールーパーのような存在と話していた。そこにジャガイモの妖精みたいな存在が割って入る。
「しばらく食ってないみたいだな。空腹は最高のスパイス、フライドポテトが最高においしく感じるはずだ」
「ポテモン、しばらく食べてないんだからまずは飲み物から……」
ウーパールーパーの妖精によると、このジャガイモの妖精はポテモンというらしい。
「サンキュー、エビバーガモン。飲め飲め、腹減っててもいきなりバーガーは入らないだろ」
「あ、うん……ありがとう」
ウーパールーパーの妖精、エビバーガモンが持ってきたジュースを受け取り、ツバサは飲んだ。ありがとう、まさかそんなことを言える日がくるなんて思いもしなかった。少しだけツバサの口角があがる。お礼を言うようなことをしてもらえるのは、いつ以来だろう。
「ハンバーガー、おまちどう!」
茶色い方の妖精(バーガモンというらしい)がハンバーガーを持ってきてくれる。紙に包まれたそれからは、昨日嗅いだものよりも遙かにおいしそうな匂いがする。パンに含まれたバター、焼けた肉。普通ならそう分析できるはずの、鼻孔をくすぐる匂いが何から発されているのかツバサには分からない。経験がないからだ。
だが、これはおいしいもの、食べていいものということだけはわかった。
「いただきます……」
苦戦しながら紙を剥き、中身にかぶりつく。ツバサの味覚はそこまではっきりしておらず、周囲の人間に味覚を共有すればおそらく、ハンバーガーの品質か彼の舌を心配するかもしれない状態だ。
「……」
それでも、ツバサは右目からだけ涙を流していた。おいしい。こんなにおいしいものがこの世にあるのかと思うくらいだ。夢中になって、ハンバーガーを食べきるほど。これを未知の怪生物が自分のために施してくれたという、感動が大きかった。
「ごちそうさま……」
ハンバーガーを食べ終わり、一息つく。思えば普段は、パンのひとかけらでも食べるのに苦労していた。調達はもちろんのこと、噛む力や飲み込む力が衰えていて食べるのに時間が掛かったのだ。
(これも……デジヴァイスのおかげ?)
ツバサは左腕に付けられたデジヴァイスを見る。これを付けてからというもの、なぜか体調がいい。
「ところで怪我しているみたいだけど」
エビバーガモンは絆創膏を持ってきてくれた。やはりツバサの顔、左側の傷が気になるのだろう。ツバサ自身はそう勝手に思っていた。
「これは……もう痛くない」
「そこだけじゃなくて」
エビバーガモンはぺたぺたと、他の場所の傷へ絆創膏を貼る。いつものこと過ぎて、ツバサは自分の顔にできた生傷のことを忘れていたのだ。
「そうだ、何かお礼を……」
ツバサはご飯まで食べさせてもらい、手当もしてくれた彼らに何かしなければという気持ちが生まれた。しかし、エビバーガモンは首を横に振る。
「私たちはお腹を空かせたデジモンに、人間もだけど、ハンバーガーを振舞うのが何よりの喜びだよ。おいしく食べてくれたなら、それで満足」
なんと都合のいい生命体だろうか。彼らは見た目通り、ファストフードの妖精なのだ。
@
「あれ……?」
気づけばツバサは、ハンバーガーショップの椅子で眠っていた。うたたね、というよりしっかり横になり、上に毛布を掛けられている。
「夢……じゃない」
一瞬、これまでのことは全て夢だったのかと冷や汗をかく。しかし、左腕に付けられたデジヴァイスや、近くにいるヒヤリモンからこれが現実であることを知る。脚の痛みも薄れ、歩いて帰るくらいはできそうな状態だ。
「なぁ、なんでエレベーターにいたんだ?」
「異世界へ行きたかったんだ」
ヒヤリモンはなんとなしに経緯を聞いた。ツバサは異世界へ行きたかった。これが異世界かどうかは分からないが、少しは何か変わっただろうか。
「異世界? 人間の異世界ってデジタルワールドとかウィッチェルニー?」
「ボクが聞いたのは、異世界ってことだけ。君たちは異世界から来たの?」
明らかに見たこともない生き物たち、それがデジモン。儀式で異世界へ行けてなくても、彼らなら異世界の住人なのではないかとツバサは考えた。
「人間界へ行って、人間を調べろってうちの将軍から言われてて。なんだったかな……めで、めでたい……将軍さまって呼び過ぎて名前忘れた」
人間界、という概念が彼らにはあるらしい。先ほど名前が出たデジタルワールドやウィッチェルニーなどが、彼らデジモンの住まう世界なのだろう。
「で、信じられそうな人間を見たらそのデジヴァイスってのを渡せって言われたんだ。それは人間を試す道具らしいぞ」
「へぇ……」
ヒヤリモンは将軍からこのデジヴァイスをもらった様だ。話を聞いているうちにツバサはある仮説にたどり着く。
「その、ウィッチェルニーがデジモンの世界だとしたら、デジモンの世界は二つある。もしかして人間の世界も二つあったり?」
「あー、デジタルワールドはいくつかあるし、人間の世界もそうなのか?」
ヒヤリモンもデジタルワールドの全てを知っているわけではない。もちろん、人間界など下手をすればまともに学校へ行けていないツバサの方が詳しいくらいだ。
「ボク、異世界に行きたくてあのエレベーターにいたんだ。異世界にエレベーターで行く方法があるって」
「あー、それで」
ツバサの頭では、異世界に行く儀式について考えがまとまっていた。ヒヤリモンはなぜ異世界にツバサが行きたがっているのか、察した様で深く踏み込まない。
あの儀式は途中で人が乗ってきてはいけない、すなわち夜でないと成立しない。加えて階数も十階以上を要求する。商業施設やビルなどでは夜の実行は不可能。必然的にマンションなどの集合住宅から十階以上でエレベーターがあり、オートロックなどがなく侵入できるものを探す必要がある。
「もしかして……あの儀式って」
そこでツバサはこう思ったのだ。あの儀式を実行に移す行動力こそ、今とは違う環境、異世界へと導くのだと。
「決めた。ボク、どこか行く」
「どこかって、どこへ?」
「分からない」
ツバサはヒヤリモンに問われても、その答えは持っていない。ごはんもまともに食べられない。毎日傷が絶えない。そんな状態から逃げたくてこの儀式をしたのだ。だったら本当に逃げてしまえばいい。
「これ、返すよ」
ツバサはディヴァイスを外して返そうとするが、ヒヤリモンは断る。
「オレもついていくよ。人間界を調査しないとな」
奇しくも二人の目的は一致していた。どこへともなく逃げるツバサと、人間を知る必要があるヒヤリモン。ツバサについていけば、多くの人間に関わるはずだ。だから彼の目的も近づく。
「一緒に来てくれるの?」
「当然!」
ツバサは席を立ち、ヒヤリモンに問いかける。もう脚は痛まない。彼の心地よい応えもあり、どこまででも行けそうだ。
「行こう、ヒヤリモン!」
「おう!」
エビバーガモンやポテモンが見送る中、二人は意気揚々とファストフード店を出て新しい世界へ踏み出した。お互いを知らなかった世界から、二人で一緒にいる毎日という異世界へ。
「おわあああああ!」
しかしいきなり出鼻をくじかれる。店を出ると突風に見舞われ、軽い二人は吹き飛んでしまう。
「な、なに?」
その風は自然のものとは違う。耳には虫の羽ばたきを低く、大きくしたような音が届く。空には巨大な赤いクワガタが飛んでいる。これまでに見たことのない生物。これもデジモンだろうか。しかし、これまで出会ったデジモンとは纏う空気が違った。
「おお、クワガーモンじゃねーか。これは幸先いいな」
「え? 今すごく襲われているんだけど?」
ヒヤリモンはのんきに構えているが、赤いクワガタの化け物、クワガーモンは顎を鳴らしてこちらに敵意を向ける。
「伝説じゃあ、旅に出て最初にクワガーモンと戦うと大成するっていうぜ!」
「そんな獅子舞じゃあるまいし……」
この状況を縁起物みたいに言われても困るのだ。狐の嫁入り程度なら話のタネにもなるが、今まさに大絶賛、路線バスほどもあるクワガタに襲われている状況でそうは構えられない。
「いくぜー!」
「あ、待ってヒヤリモン!」
ヒヤリモンは一人で喜び勇んでクワガーモンに向かっていく。その時、ツバサの脳裏にある言葉が浮かんだ。
「ダイヤモンドダスト!」
それを叫ぶと、ヒヤリモンが冷たい息を吹きだす。技の名前なのか。まるでツバサとヒヤリモンがシンクロして戦っているようであった。
「おおおお! これがデジヴァイスの力か!」
ヒヤリモンもこの技を初めて出したのか、目に見えて興奮していた。しかし、体格差は技で覆らない。クワガーモンは冷たい息など意に介さず羽ばたきだけでヒヤリモンを吹き飛ばしてしまう。
「わぁーっ!」
「ヒヤリモン!」
ヒヤリモンは近くの生垣に埋まって無事だったが、クワガーモンはファストフード店に向かって動いていた。腕をばたつかせ、明らかに敵意や害意を剥き出しにしている。
「ど、どうしよう……」
ツバサの頭は真っ白になる。避難するだけなら簡単だ。逃げればいいだけなのだから。だが、彼らの喜びはお腹を空かせたデジモンにハンバーガーを食べさせること。この店を喪えば、適した場所は他に見つかるものだろうか。
「ボクは……」
エビバーガモン達に何かお礼をしたいという気持ちは、例え彼らが固辞したとしても消えることはない。
「あれは……」
ツバサはどうにかしようと周囲を見ていると、クワガーモンの右脚が傷ついているのを見つける。クワガーモンも昆虫の法則通りに手足は三対なのだが、腕が二対で足が一対という配分になっている。クワガーモンの恐ろしさに気を取られて、最初は気づかなかった。
自分もそうだったが、片足を傷めると庇うことでもう片方も負荷がかかる。脚の傷は自分の顔と同じ、古い傷だ。つまり傷がついていないもう片方、左足に傷が古くなる時間だけ、負担が掛かっているはず。
「石……、ない! 木の枝……ない!」
ただ、残念なことにこの周囲は清掃が行き届いており、投げるものも武器にするものもなかった。素手でいくしかない。
「こうなったら!」
ツバサはクワガーモンに殴りかかる。それも、随分と殴り慣れていないヘロヘロのフォームで。そんなものだから拳が届く前にクワガーモンの腕に捕まってしまう。
「しまった!」
このまま、巨体のパワーで握り砕くなり投げ飛ばせば、ツバサは死ぬ。成人男性であっても容易に死なせるだけの力をクワガーモンは持っている。特にツバサは同年代の子供と比べても、長年に生育環境が原因で虚弱だ。
「し……」
そして、それ故に危険の匂いには敏感。自分の死が見えてしまう。だが、最期に誰かから優しくしてもらえて、その人達のために戦って死ねるのなら満足であった。下を見下ろすと、店の窓からエビバーガモン達が心配そうに覗いている。
「……やっぱり、死ねない!」
自分に対して向けられる心配と懸念を感じ、ツバサはすぐに思い直す。せっかくみんなが助けてくれたのに、こんなことで死んでは申し訳も立たない。そうは思っても、この窮地を脱する術は未だにない。クワガーモンが投げ飛ばすか握りしめるかすれば、一瞬で死ぬことには変わりない。
「え?」
その時だ。ヒヤリモンが突っ込んだ生垣から光の柱が立ち昇ったのは。
「ヒヤリモン、進化!」
その光の柱から飛び出したのはヒヤリモン。その姿は青い小さなドラゴンへ変化していく。
「ブルコモン!」
そのドラゴン、ブルコモンは氷で作られた頭部をクワガーモンにぶつけ、ツバサを解放する。だが、投げ飛ばされるよりマシとはいえ高い位置から投げ出されてしまう。
「わっ! みんな!」
そこにエビバーガモン達が入り、アスファルトに激突しない様に受け止める。
「ヒヤリモンが進化した!」
「進化?」
ポテモンによると、ヒヤリモンはブルコモンという別のデジモンへ進化というものを果たしたらしい。以前のヒヤリモンはエビバーガモンよりも小さかったが、ブルコモンとなった今は殆ど同じ、ツバサの胸辺りまでの大きさとなった。
「ブルコモン! そいつの左脚を狙って!」
「おっしゃあ!」
二人の闘志に呼応して、技の名前がツバサの脳裏によぎる。それがあの強靭な腕の届かない場所から攻撃する手段であることも理解できる。
「ベビーヘイル!」
技の名前をツバサが叫ぶと、ブルコモンは口から氷を打ち出す。その氷は小さく、クワガーモンを倒すには至らないが左脚にダメージを蓄積させていく。脚への負荷に耐えられなくなったクワガーモンは崩れ落ち、なぜ倒れたのかも理解出来ていなかった。
完全に、負傷していない脚の異変だったため不意を突かれた形になる。しかし、まだクワガーモンは抵抗を続けていた。
「もう暴れないで!」
ツバサは左腕を引き、腰溜めにしてから拳を突き出して技の名前を叫ぶ。
「アイスマッシュ!」
ブルコモンは氷の爪を握り込み、クワガーモンの頭部へパンチを繰り出す。頭部に打撃を受け、クワガーモンは地面に倒れる。暴れるのをやめ、その場に倒れて手を軽く振り、降参の意思を示した。
「ふぅ……」
「あいつ、怪我で慌ててたんだな」
クワガーモンが二対の腕を合わせ、何度も頭を下げる様子を見てブルコモンは呟く。頭が冷えたクワガーモンはその場を飛び去り、事態は収束を見せたのであった。
@
ツバサは一度家に戻り、あるものを持っていくことにした。ツバサの家は普通のアパートの一室である。
「あれ?」
夜に家を出る時、バレると面倒だから外から鍵をかけるために合鍵を持ち出していたのだが、なぜか鍵が合わない。刺さらないのだ。
「オレがやる」
とはいえ、もう戻る気がないのでブルコモンの爪で扉を破壊すればいいだけだ。無理やり室内へ踏み込むとツバサは押し入れの一つを探る。
「ここだっけ? あ、あった」
記憶と棚が一段違ったが、探し物は見つかった。それは古びたゴーグルであった。
「ボクのおじいちゃん、戦闘機のパイロットだったんだ。太平洋戦争の頃だったかな」
あまり勉強が得意ではないツバサであるが、祖父に関わることはよく覚えていた。まだ日本に軍があった時期、飛行機に乗っていたと聞いている。その祖父が使ったゴーグルはツバサの宝物だが、両親は高く売れる場所を探すと奪っていたのだ。もちろん、探して発見したが持っていてはまた没収されて探しにくいところに隠される恐れがあった。場所だけ把握し、時々ランダムに移動させるくらいしか抵抗する方法がない。
荷物はないが、服が擦り切れて防寒性が皆無で靴もボロボロ、遠出には向かない。そこで弟から赤いパーカーと同色のスニーカーを拝借した。ツバサの弟は無駄に衣装持ちだ。同じ色のものが何個もあり、一つなくなった程度では気づかないだろう。
あまり使っていないものを選んだら赤くなったが、ブルコモンの瞳が赤なので影響されて赤いものを選んだのだろうか。それはツバサにもわからないところだ。
「行こう、ブルコモン」
「おう!」
今度こそ、二人は家を出て遠くへと向かう。デジモンのいる異世界へツバサは、儀式により足を踏み入れた。
デジモン図鑑
クワガーモン
成熟期 昆虫型 ウイルス種
強靭なパワーを持ち、硬い甲殻に覆われた優れた戦闘力の昆虫型デジモン。
カブテリモンとはライバル関係にある。
一部の伝承では『勇気ある者の旅路に立ちふさがる』とされている。冒険の始まりにこいつの襲撃を乗り越えられるデジモンとテイマーは、聖騎士にも無限大の絆にも至るだろう。