鮫島瑞希は久しぶりに海へ来た。砂浜ではなく、職場から少し歩けばたどり着くお台場の海だ。ある災害以降、瑞希は海への恐怖心を捨てられなかった。だが、目標だった職場はこの近くにあり、恐怖心を克服する必要があった。泳げないわけではない。溺れた過去があるわけでもない。潮の匂いはあの時のことを思い出してしまう。口の中を煙で満たせば少しは誤魔化せた。
「……」
瑞希は海を前に、たばこを吹かす。あれは子供の頃の話だった。彼女がオカルトに夢中になったのは『鮫島事件』という、一説には実在の事件とも創作とも言われている事件の都市伝説が始まりだ。自分の苗字と被る事件に関心を持ち、調べるうちに似たような話を知り、オカルトの魅力にのめりこんだ。
「思えば、そういうことなのかも」
ひとりごちる瑞希。彼女のオカルトに対する信念は、フィクションであるという前提。作り話の可能性がある都市伝説がきっかけなら、そういう考えにもなる。
彼女は左目の傷に触れる。すべてを失ったのも子供の時だ。膨大な塩水が押し寄せた。家族を、友達をたくさん失った。家も学校も流され、思い出が消える。心と顔に傷を負った瑞希を救ったのもまた、オカルトであった。
瑞希は自分がなぜ助かったのかも分からない。気づけば、彼女の語彙ではUMAというべきだろうか、赤いヒーローのような人影に助けられていた。そうした背景もあってより一層、オカルトにのめり込んだのだが、彼女に突きつけられたのは現実。
政府の陰謀による人口地震、発電所から流出した物質による生物の変異。下賤、下劣、下品なゴシップ誌は一瞬のPVや反論のためのアクセスを求め、過激な見出しを並べた。瑞希は家族や友人を失った天災と、心から愛したオカルトを同時に穢された。
瑞希が月刊アガルタの記者になったのは、大切な人を失った出来事を愚弄するためにオカルトが使われるという悲劇を繰り返さないため。
「そういえば、もう夢は叶えているんだ」
瑞希は嫌いな海でもたばこをポイ捨てすることなく、携帯灰皿に吸い殻を収める。オカルトを、誰かを傷つける道具にさせない、それができる立場に彼女はもういる。
「……」
自身の左目の傷に触れる瑞希。まだ少し、傷痕が凹凸を作っている。
普段はファンデーションなどで傷を隠しているが、今日に限ってはそれをしなかった。数日前に出会った少年、鷺谷ツバサの傷を見たからだ。自分より断然、範囲が広く左目の視力を失うほどの傷。
瑞希にはもう後輩たちがおり、傷のことを話していなかったので彼らには驚かれ、心配もされた。傷を隠すようになったのは、鏡を見る度にあのことを思い出さない様にするためだった。誰かから隠したいのではなく、自分が見たくないのだ。
「あなたには長いことお世話になったね。何代目か分からないけど」
バックからファンデーションを取り出し、最期に声をかけてやる。特に高級品とも言えない、ドラックストアで買える安いコスメ。傷を隠すのに適したものを探して、これにたどり着いた。顔全体に使うものとは別に、傷のところだけを隠すためだけのものだ。
彼女はそれを海に投げ捨てる。傷を隠すことへの決別。捨てるだけならゴミ箱でもいいが、あえて海という場所を選んだ。自分なんかの傷でツバサが顔の傷を気にしなくなるなどとは思わない。それでも、隠すのだけはやめたいと瑞希は決めたのだ。自分が隠していたら、ツバサにも傷は隠すものと思わせてしまうかもしれないから。