或る独白   作:ダート

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或る当事者の独白

 私は一度、目の前の人を殺めようという強い衝動に苛まれたことがあります。

 

 キッカケは……すみません。

 

 ただ、私はその瞬間を今でも信じられない思いでいるんです。

 

 それまでの私は、こう、自分で言うのも烏滸がましいんですけど、本当に"善良"であったと思うんです。

 

 車が来ていなくても、その道がどんなに狭くて一瞬で渡れるものでも、私は信号を待つ人間でした。今だってそうです。

 

 けれどだからといって、目の前で他の人が信号を無視しても、義憤に耐える必要もありませんでした。特に何も思わず、『私はルールを守ろう』と思うだけでしたから。

 攻撃的な正義感を宿している訳でも、きっとなかったんだと思います。

 

 だから、そんな私が本当に殺意なんて抱く日が、"その瞬間"が訪れるなんて……考えたこともなかったんです。

 

 …………はい。"その瞬間"に考えていたのは、『目の前の人に抵抗されてもことを為せてしまえる』ことと、『周囲に人はいないし、監視カメラもおそらくない』ということでした。

 いえ、本当に……本当に、そんなことが、あの時の私の頭を満たしたんです。

 

 けれど、直後に浮かんだのが…………両親の顔でした。

 私の家は、特別裕福でもありません。なのに、なに不自由なく育ててくれた両親に、私は本当に感謝してるんです。

 浮かんだのは、そんなお父さんとお母さんの顔だったんです。

 

 私はこれまでで一番強い葛藤の果てに、この状況で相手を生かすことを、わざわざ多大な精神力を振り絞ることで“選択”しないといけませんでした。

 本当に懸命に、振り絞って、『殺さない』って! 目の前の相手を『今後も生きさせる』って! そう、選ばないといけませんでした。『生かす』を、しないといけなかったんです。

 

 時折恐ろしくなるのは、このときにすでに両親が他界していた場合、私が私を止められる理屈が他にあっただろうかって……そんなことを、考えるときなんです。

 

 いざ"その瞬間"になると、『殺人罪』なんていう高尚な単語は浮かびませんでした。そんな高度で複雑な考え、あのときの私には遠すぎたんです。

 

 それ以降、私は私を信じていませんし、私がこうなるんだったら他の人だって、タイミングと適切な感情的刺激を与えさえすれば、どのようなことでもするんだっていう確信を抱くようになりました。

 

 『自分はそんなことはしない』と当然に信じ切っていたかつての私が、今の私には『私は差別なんて絶対にしたこともないし、今後も私だけはしない』なんて口にするとても胡散臭い人間と同じように写るんです。

 

 知ってます。誰だってそうだって。

 けど、本当に自分も他人も犯罪者予備軍なんだって——その、当事者なんだって警戒するのが、かつての私にはできていませんでした。気づきもしませんでした。

 

 こういう、今の私みたいなことを言っている人に、「はいはい、知ってますよ。知らなかったんですか?」って、そう思ってたんです。

 

 

 あの、さっきからよく気づけたねって感心してますけど————

 

 

 

 

 ————あなたのことを、言ってるんですよ?

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