国内安全保障執行局〈D.S.E.D.〉〜再会したお姉ちゃんは、私のことを覚えていないようです〜 作:暁天花
第九話 混迷
通信越しに司令を受けた一時間後、リゼとアイリスは他の残っていた隊員たちと共に〈
〈D.S.E.D.〉本部ビルの八階――女子隊員寮。その一角にある自室で、リゼはベッドの縁に座ってぼうっと窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。
脳裏にちらつくのは、通信越しに聞いた報告会の言葉。
――無事だったいくつかの記憶データは、その全てがありとあらゆる拷問器具を使われ、泣き叫ぶといった内容の、
それはつまり、拷問同然のことをされた人がいて、その人の記憶を、『リィンヴァース社』という大企業が商売の道具として扱っていたということだ。
どんなことがなされていたのか、具体的な内容は誰も話さなかった。恐らく、リゼたちのような未成年者には到底話せないような内容なのだろう。それほどに残虐なことをされた『記憶』が残されていて、しかも商売道具にされていた。
そっと、自分の左目あたりに走った傷に手を当てる。顔の上から下までざっくりと走った、大きな傷跡。
……もしかしたら、今回の事件はこの傷と関連があるのだろうか。
自分の人生の中に、ぽっかりと空いた記憶の欠落。ここ数年以外の記憶が一切思い出せず、親がどんな顔をしていたのかも、どんな人だったのかも何一つ思い出せない。
自分が居たという証拠が、ここまで生きてきたという証拠が何一つ浮かび上がってこない。今の生活が幸せになるほどに、過去の欠落が心をざわめかせてくる。
……その『消えた記憶』が、もし今回のように誰かに盗られているのだとしたら? 大企業の商売道具として扱われていたのだとしたら? 拷問同然の仕打ちを受けた結果、この左目の傷ができていたのだとしたら?
……もしそうなら、自分は、記憶を取り戻したいと思えるのだろうか。辛くて苦しくて、悲しいだけの記憶を。再びこの脳に、身体に戻したいと思えるのだろうか。
エレナちゃんに拾ってもらってから約一ヶ月。ずっと自分の過去について考えてはいたけれど、こんなことを思うのは初めてだった。
――自分の記憶が戻らない方がいいのかもしれないと。そう思うのは。
「リゼっち、入るよ」
と、突然のアイリスの声。ゆらりと扉の方に目を向けると、片手に購買の袋を
アイリスは優しい笑みを浮かべて、
「とりあえず一緒にプリン食べよっか」
そう言うと靴を脱いでリゼの部屋に上がってくる。特に反応もせずに窓へと視線を向けていると、アイリスは「ちょっと失礼」とリゼの隣――布団の縁に座り込んでくる。
ちらりと視線を向けると、アイリスは優しい笑みを浮かべたまま袋からプリンを取り出し、「はい」と渡してきた。
「ありがと」
と何とかいつもの笑みを作って受け取り、フタを開けて中身をスプーンですくう。一口口に含んだところで、
「……報告会からずっとそんな感じだけど、大丈夫?」
隣から直球の言葉を投げられた。リゼは少しの間押し黙ったのち、
「大丈夫だよ」
「嘘。大丈夫な人の表情してないよ」
微笑みはそのままに、まっすぐ真剣な瞳がこちらを捉えて即答された。
“……どうも、この子には
「……別に、大したことじゃないよ」
言い捨て、視線を夕日へと向けて、
「今回の事件が、ボクの記憶とも関係してるのかなって。ただ、それだけ」
「それは」と言葉を詰まらせるアイリスにちらりと視線を向け、再び夕焼けへと目を戻す。ビルの摩天楼に美しく輝く、
「今回の事件が解決すれば分かるのかな?」
しばしの沈黙。なんとも言えない数秒間ののち、不意にアイリスが口を開いた。
「……手がかりになる証拠がリゼっちの傷と記憶の空白しかないから、あたしには分かんないけどさ」
アイリスは肩を竦め、真面目な眼差しでぽつりと呟いた。
「リゼっちの記憶とこの事件は繋がってる。そう、あたしは思うよ」
†
夕食をそれぞれのタイミングで食べ終え、とっくに就寝時間を過ぎた夜――午前一時。
〈D.S.E.D.〉本部ビル屋上にあるヘリポートの端っこ。
依然として明かりがつきっぱなしのビル街を眺めながら、
エレナの脳内をずっと回り続けるもの――それは、父、アイザック・リィンヴァースと今回の一連の事件との関係性について。
アイザック・リィンヴァース。エレナの実父にして現在急成長中の軍産複合体企業『リィンヴァース社』の創業者兼現
昔から自分の企業を成長、拡大させる為だけに全てを捧げていた人で、それ故に彼はエレナを――家族を捨てることも厭わなかった。
勝ったところでなんの旨味もなければ成果にもならない裁判を起こすこともなく、かといってお金を積んで探すほどの価値もない。
結果、父は元妻に連れ去られた私を探すことすらせずにそのまま捨ておいた。新たな婚約者に娘がいたのもあったのだろう。エレナをわざわざ自身の元に引き戻す意味もなければ、価値も完全になくなったのだから。
そんな、それこそ家族を捨てることすら厭わないような人がなぜ、人身売買や『記憶』のデータの取引などという行為を行っているのか。それがエレナには分からなかった。
いくら単価が高額な取引といえど、それは『リィンヴァース社』が普段行っている億単位の取引からすれば微々たるもののはず。そもそも、貧困層の人間の記憶や、彼らそのものを買い取っていったいなんになるというのか。
労働力は広告を少し出せば簡単に揃うだろうし、慈善事業で世間にアピールするにしてももっと簡単で合法的な手段がいくらでもあるはずだ。『記憶』の取引については、もはや全く意味が分からない。
脳内にちらつくのは、創業以来変わらないリィンヴァース社のスローガン。『
そんな理想を掲げていた父が、わざわざ非合法な取引に手を出す理由が分からない。実の父の考えていることが、何一つ分からなかった。
「なんだ、先客がいたのか」
と、突然背後から渋い男性の声。気配が近づいて来るのは気にも留めず、エレナは、
「就寝時間はとっくに過ぎてますよ、ブルシーロフ中隊長」
「それは君も同じだろう? ヴェンツェル大隊長。……今回の事件について色々と調べることがあってな。一通りカタがついたから、気晴らしに来たって訳だ」
そう言ってブルシーロフ中隊長は懐から
「……吸ってもいいか?」
「ご自由に」
「じゃ、遠慮なく」
隣で
「丁度いい。今日分かったことを一足先にお前さんに共有しておく」
その言葉に釣られてちらりと視線をブルシーロフ中隊長へと向ける。夜闇の中なのでよく見えないが、その
「アイザック・リィンヴァースは元妻のリーナ・ヴェンツェルとの離婚後、新たに子持ちの妻と再婚している。相手の名はアリーサ・ヴァシレフスキー。俺と同じロシア系移民で、前の夫との間にレイラという一人娘がいる。……ただ、」
「ただ?」
「この妻子は三年前に共に交通事故で死亡している」
「……それが、今回の事件と何の関連が?」
ブルシーロフ中隊長は再び
「この交通事故だが、何故か早々に調査が打ち切りになっていた。また、当時既にそこそこの規模になっていたのにも関わらず、マスコミが報道した記録が一切ない」
“なにそれ怪しすぎない?”――と言い出したくなるのを抑え、エレナは無言で続きを促す。
「アリーサの方は特段怪しい情報はなかった。問題は娘のレイラの方だ。レイラ・ヴァシレフスキーは当時九歳、生きていたら丁度君の三歳年下の十二歳になるな。それで、問題なのが彼女の姿容だ」
「容姿が……?」
「レイラ・ヴァシレフスキーは
思わず生唾を飲み込んでいた。
“まさかそんなことあるわけないでしょ”――と笑い飛ばしたくなる。が、脳裏に蘇るのは自分と同じぐらい幼い顔をした少女の姿で。エレナは小さく首を横に振り、
「……でも、そのレイラって子は既に死亡しているのでしょう?」
「
「……まさか、死人が蘇ったとでも言うのですか?」
何とか笑みを浮かべながら訊ねる。ブルシーロフ中隊長は目の笑っていない笑みを浮かべ、静かにそれを告げた。
「もしかしたら死を“偽装”して、何らかの施しをしたのかもしれん。いずれにせよ、あの赤い少女は最警戒対象だ。明日の作戦でも気を抜くな」
†
翌日の午前九時。〈D.S.E.D.〉 本部ビル最上階の長官室。
そこに集められたエレナとブルシーロフ中隊長は、ロンメル長官から信じられない通達を受けていた。
「捜査許可が、下りなかった……?」
あまりの事態に、エレナは敬語も忘れて思わず声が漏れていた。
捜査許可の却下。それはつまり、〈D.S.E.D.〉は――それどころか司法省所属の全組織は『リィンヴァース社』に対するあらゆる捜査が許されないということだ。戦闘部隊を用いての武力制圧はもちろん、非暴力的な捜査ですらも許されない。
これほどの非道と有力な証拠がありながら、調査を行うことすらも認められないなど。どう考えても異常だ。
「……どこからの横槍が入ったのですか?」
と、ブルシーロフ中隊長の渋く険しい声。対して、ロンメル長官はいつもの調子と口調で、
「ホワイトハウス及び商務省、上下両院の議員連盟が協働して司法省へと圧力をかけてきた。どうやら私達はこの国の地雷を踏んだらしい」
「人身売買がこの国の地雷と?」
「問題はそこではないよ、ブルシーロフ中隊長。私達が踏んだのは新たな法律の制定についてだ」
「法律……ですか?」
と、エレナの疑問の声。ロンメル長官は
「『記憶商品取引法』。それが今回私達が踏んだ
「っ……」
絶句するエレナ。その横で、ブルシーロフ中隊長は静かに問う。
「……それは結局、『貧困層』が更に資本主義へと呑み込まれ、記憶すらも剥奪されるだけなのでは?」
「そうだろうね」
とロンメル長官は頷き、
「だが、この国は自由な市場による自由競争が何よりも至上であり、それを達成するために『小さな政府』を掲げ続けてきた。繰り返された規制緩和の結果激増した貧困層は『努力が足りないだけ』と片付けられ、富める者が更に富めるような社会を築き上げてきた。お陰で、こんな混迷の世界情勢下にあっても
あまりのことにエレナは無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。“まるで、貧困層には生きる価値がないと、国家の
ロンメル長官は手元のタブレットを操作しながら、
「だが、そんな社会は必ず破綻する。ましてや、企業と政府が
“司法省が?”――という驚きの思考。
すると、ロンメル長官はタブレットを操作する手を止め、二人の方へと提示する。それをブルシーロフ中隊長と共に覗き込み――
「司法省より〈D.S.E.D.〉へ『強行捜査』の密命が出た。ただし、条件が一つある。……『リィンヴァース社』に一人の犠牲者も出さないこと。もしそれが実行できない場合、捜査は続行不可能。また、万が一捜査中に死者が出たのが確認された場合は、〈D.S.E.D.〉が責任を問われることとなる」
いつになく真剣な眼差しで、ロンメル長官は告げる。
「作戦は予定より一日遅らせた明日早朝に実施する。リィンヴァース社傘下の
†
〈D.S.E.D.〉本部ビル地下一階――所属隊員の駐車場兼銃火器保管庫の一角。
急ピッチで進められる作戦準備の喧騒の中で、エレナ達A班はブルシーロフ中隊長から作戦の概要を伝えられていた。
「まず
こくりと頷く三人。見渡すブルシーロフ中隊長に対し、エレナは、
「作戦内容は承知しましたが……ですが、本当に外から強襲など上手くいくのでしょうか? 相手はあの軍産複合体企業のリィンヴァース社。〈
「それについては検討したが、下層域での使用に留まるというのが俺と情報捜査課の見解だ。……ヴェンツェル大隊長、『
「はい。もちろん」
『
ブルシーロフ中隊長は一瞬仲間の方を見やってからすぐにこちらに向き直り、
「あの少女は十中八九リィンヴァース社の差し金だ。これは推測だが、リィンヴァース社は今回の事案――『記憶データ』の取引が露見するのを恐れていた。そんな中、司法省に存在する内通者によって、俺たち〈D.S.E.D.〉が〈
「……ということは、」
ブルシーロフ中隊長は険しいおもてで頷き、
「アイザック・リィンヴァースに至る道のりで、再び『
それはすなわち下層部では〈
脳裏に過ぎるのは、昨日の夜に聞いた少女の名前――“レイラ・ヴァシレフスキー”。
三年前に交通事故で死んだはずで、生きていたら十二歳の――それこそあの時見た
“……まさか、『
「てことは、その『
「ああ、そうなるな。慣れないかもしれんが、頑張ってくれ」
「しかも殺しちゃいけないんでしょ? 結構無理ゲーじゃない?」
「大丈夫大丈夫、リゼっちとエレナっちならいけるって!」
“なんだその何の確証もない楽観は”――底抜けに明るいアイリスの言葉に呆れると同時に、なんだか先程まで沈み込んでいたのが馬鹿らしく思えてくる。
あと、エレナっちじゃなくてヴェンツェル隊長でしょうが。もう聞かないので言うのすらしないけど。
……まぁ。どんな事情があるにせよ、戦うことは避けられないのだろうなとエレナは思う。
父は――アイザック・リィンヴァースはほぼ黒確だ。必ず生きて確保し、司法の名のもとに裁かれなければならない存在だ。
正直、あの圧倒的な力量で殺さずに倒すだなんて芸当は困難極まりないが……。それでも、やらなければならないのだ。この国が三権分立を堅持し、司法が他の権力に屈せず、真っ当な力と過程によって勝利を得るためには。
あの少女が何者なのかは、全てが終わってから彼女に直接聞けばいいこと。そのためにも、まずは打ち勝たなけらばならない。
全ての謎は、目の前に立ち塞がる壁を乗り越えれば解けること。
“絶対に成功させてみせる”――より一層の決意を、エレナは胸に刻んだ。
†
リィンヴァース社本社ビル最上階。
「奴らが動いた。各階層の防衛機構を解放、総員、戦闘態勢へと移行せよ。……聞こえるか、〈
『……はい』
返ってくるのは、舌っ足らずで無感情な少女の声音。
「〈D.S.E.D.〉がこちらへ強行捜査を行うようだ。お前も防衛態勢に移りたまえ」
『はい』
通信アウト――室内に静寂が戻る。
壮齢の男は席を立ち、背後のガラスに映る風景を見て呟いた。
「……まさか二人揃って来るとはな」