テントを張り終えた頃には、空もすっかり茜色に染まっていた。
穏やかな風が草をなで、木々のざわめきが耳をくすぐる。
焚き火の横に鍋を置いて、カレーの準備に取りかかる。
手元には、買い集めたスパイスと数種類の具材。玉ねぎ、ジャガイモ、そして少し奮発したキョダイマックスハム。
「……さて」
ぼそりと呟き、手慣れた手つきで食材を切り分ける。
炒めた玉ねぎの甘い香りが、焚き火の煙に溶けてふわりと漂った。
その横で、白いエンニュート――ラヴィがしゃがみ込み、じっとこちらを見ていた。
紅い瞳をまるくし、首をかしげるように香りを嗅いでいる。
「……気になるのか?」
返事はないが、尻尾が微かに揺れた。
こいつなりの「うん」かもしれない。
具材を鍋に入れ、軽く炒めてから、水を注ぎ、スパイスの小瓶を一本ずつ開けて香りを確かめる。
慎重に分量を量りながら、一つずつ入れていく――はずだった。
視界の端に、ラヴィの横顔が入った。
ふと見れば、頬のあたりの鱗が月明かりに照らされて、淡く光っている。
……ほんと、可愛いな
思わず手を止め、ラヴィの頭をそっと撫でる。
ラヴィは目を細め、喉の奥から小さく鳴くような声を漏らした。
その尻尾が、ゆらゆらと左右に揺れはじめ――
――カツン。
「……あ」
スパイスの瓶が、鍋の縁に当たってひっくり返った。
止める間もなく、香辛料がすべて――
赤も、黄も、緑も、混ざり合ってカレーの鍋にどさっと雪崩れ込む。
ぱち、ぱち……と鍋の中で音を立て、急激に刺激的な香りが立ちのぼった。
ラヴィは目をまん丸にして固まり、尻尾をひくりと下げてしまった。
申し訳なさそうに私の顔をうかがう。
その様子がまるで、怒られるのを待っている子供みたいだった。
……まぁ、わざとじゃないし
俺は静かにラヴィの頭をもう一度撫でた。
少しビクついたが、やがてぴと、と頬を寄せてきた。
蓋をしてなかった俺が悪いな。うん
カレーの鍋をひと混ぜすると、やや赤黒くなったルーがとろりと揺れた。
……ちょっと辛そうだ。でも、まぁ――
「食べれないことは、ない……はず」
風が吹いた。スパイスまみれのカレーの湯気が、容赦なく目を刺した。
◆
ズルッグとヤブクロンが、インテレオンとカビゴンの連携に倒れ込む。
その場に響くのは、静かな風の音だけ。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、急に世界が静まった。
「う、うそ……!」
プラズマ団の女が一歩後ずさり、男も額から汗をにじませていた。
戦えるポケモンはもういない――それを理解したからだ。
「……プラズマ団の! あなたたちを確保します!」
黒いスーツの女性――リラさんが、鋭く言い放った。
その声音は冷たく、容赦がない。
だが――
「ちっ、そうはいくかよ!」
男のほうが何かを懐から取り出し、地面に叩きつけた。
ボンッ――!
白い煙が瞬く間に広がり、視界を一気に奪っていく。
咳き込む私の隣で、インテレオンが身を張って煙を防いでくれた。
煙が晴れたときには、もうあの二人の姿はなかった。
「……逃がしてしまいましたか」
リラさんは目を細め、淡々と呟く。
「でも、助かりました。ご協力ありがとうございます。
国際警察所属のリラと申します」
こちらを向いて、今度は穏やかな声でそう名乗った。
「私、ユウリ。よろしく」
軽く頭を下げながら応える。
けれど、“国際警察”という言葉が、胸の中に小さく引っかかっていた。
国際警察ってことは……やっぱり何か事件?
それとも、あのプラズマ団の残党を追ってここまで――?
気になって、思い切って聞いてみる。
「プラズマ団を、追ってるの?」
すると、彼女はわずかに首を横に振った。
「いえ。ガラルには、ある調査のために来ていまして……
そこで偶然、彼らの姿を見かけただけです」
別件――なのか。
でも、それなら何の調査?
そう思っていた矢先、彼女は何かを思い出したように声を上げた。
「……そうだ。こちらの人物に、見覚えはないでしょうか?」
そう言って差し出されたのは、一枚の写真。
古びたスマホの画面には、見覚えのある顔があった。
「……カケルさん?」
写真に映っていたのは、十歳くらいの少年。
でも――私の知っているカケルさんと、よく似ている。
次の瞬間、リラさんの表情が急に鋭くなる。
「ご、ご存じなんですか!? 今、どこにいるんですか!?」
肩を掴まれ、ぐいと顔を近づけられる。
その真剣な目に、私は思わず身を引きそうになる。
「わわっ! 知ってるけど……今は、どこにいるかは……うーん……」
「……メールで聞いてみようか?」
そう言うと、リラさんは一瞬目を輝かせた。
「ぜひ! お願いします!」
肩が揺れる。ものすごく揺れる。
「わ、わかったからー! 揺らさないでぇ!」
まるで圧迫尋問みたいなテンションに、思わず苦笑いが漏れた。
でも、それだけ――本気なんだ、この人。
何が起きてるのかは、まだわからない。
けれど、カケルさんが何か特別な存在であることだけは、ひしひしと伝わってきた。
「今、ナックルシティの近くにいるみたいだから、待っててもらうように伝えたよ」
スマホの画面を閉じながら、私はリラさんにそう告げた。
「……ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
それだけの仕草なのに、どこか肩の力が抜けたような安堵の色が見て取れる。
「アラベスクのジムチャレンジ、終わらせてからでも……大丈夫だよね?」
「ええ。問題ありません」
私は軽く頷いて、再び森の方へ向き直る。
ルミナスメイズの入り口――淡く輝く光の粒が、幻想的に揺れていた。
でも、そのまま一歩踏み出そうとして――ふと、足を止めた。
(……なんで、リラさんはカケルさんを探してるんだろう?)
カケルさんが……なにか悪いことをしたなんて、そんなの想像もできない。
あの人はどこかふわっとしてて、でもポケモンに優しくて、ラヴィちゃんのことを本当に大切にしていて――
だからこそ、気になった。
私はそっと踵を返し、リラさんのもとへ戻る。
「……あの」
声をかけると、彼女は目を細めてこちらを見た。
「……?」
「どうして……どうしてカケルさんを探しているの?」
一瞬だけ、リラさんの瞳が揺れたように見えた。
けれどすぐに真顔に戻ると、わずかにためらうような間のあとで、静かに口を開いた。
「……ここからお話することは、すべて機密事項となります。くれぐれも他言はお控えくださるよう、お願いします」
その言葉に、私は自然と背筋を伸ばしていた。
彼女の真剣な表情が、これから語られる内容の重みを語っていたから。
「……私は、“UB対策本部”の者です。
Ultra Beast――異なる世界に存在する未知の生命体の観測と保護、それが私の本来の任務です」
ウルトラビースト。
どこかで聞いたことのある言葉だったけど、それが現実に存在するとは……。
「UBは、“ウルトラホール”と呼ばれる空間の裂け目から現れます。
そしてその裂け目――ウルトラホールから出現するのは、UBだけではありません」
私は息を飲んだ。
その“何か”が、カケルさんが関係しているというの……?
リラさんは一度言葉を切り、私の目をまっすぐに見て続けた。
「今から二十年前――カントー地方のマサラタウンに、未確認のウルトラホールの痕跡が観測されました。
同時に、町の一角に“赤ん坊”が出現した、という通報があったのです」
赤ん坊……?
「その子は、出生記録も、親族も確認できない。完全に“記録のない存在”でした。
ですが……見つけた者たちはその子を保護し、正式に育てられることとなりました」
リラさんの瞳が、わずかに揺れた。
「……その赤ん坊こそが、カケルさんだと私たちは考えています」
頭の中が、少しだけくらっとした。
(カケルさんが……ウルトラホールから現れた……?
そんな、まるで……異世界から来た、みたいな――)
「もちろん、まだ断定されたわけではありません。ですが、彼の存在には“世界を超えた可能性”があると、我々は見ています」
静かに、でも確信のこもった声だった。
私は言葉を失って、その場に立ち尽くしていた。
目の前の光の森が、どこか遠くの世界のものに見える。
あの人に、そんな秘密が隠されていたなんて――。