限界だった。
ダークトリニティのコスプレをした三人についていきながら、俺の頭の中を占めていたのは、これから何処へ連れていかれるのかでも、どうして俺がK様と呼ばれているのかでもなかった。
トイレに行きたい。
今はもう、それだけだった。
さっきからずっと我慢していたせいで、いい加減に限界が近い。せっかくNになりきれば普通に喋れることが判明したというのに、その感動を噛み締める余裕すらなく、三人の背中を追いながら腹の辺りを押さえる。
「あの……トイレ、行きたいんだけど」
三人がほとんど同時に振り返り、一瞬だけ互いの顔を見合わせた。
いや、そこで相談しないでほしい。こっちは一刻を争ってるんだ。
「K様、こちらへ」
「ありがとう」
案内された建物の中で無事にトイレを借り、数分後、手を洗いながらようやく大きく息を吐く。
「……危なかった」
本当に危なかった。もう少し遅ければ、あまりにも情けない事件を起こすところだった。
それにしても、トイレまで貸してくれるとは思わなかった。
ダークトリニティのコスプレをしている時点で相当濃い人たちではあるけれど、少なくとも悪い人ではなさそうだ。前に会ったときからずっと妙に演技へ入り込んでいるし、衣装だけではなく振る舞いまで徹底しているところを見ると、かなり本格的なコスプレ集団なのだろう。
もちろん、本物のダークトリニティという可能性は考えていない。
ここはガラル地方だ。イッシュ地方でもなければ、プラズマ団が活動しているなんて話は聞かないので、普通に考えればコスプレである。
「K様、お済みでしょうか」
「うん」
扉を開けると、三人は先ほどとほとんど変わらない姿勢で待っていた。本当に演技を崩さない人たちだなと思いながら近づくと、そのうちの一人が静かに頭を下げる。
「ゲーチス様がお待ちです」
その名前を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「……ゲーチス?」
「はい」
まさかと思いながら三人について廊下を進み、やがて一つの扉の前で足を止める。先頭の男が扉を開くと、その向こうには見覚えのある人物が立っていた。
「お待ちしておりました、K様」
特徴的な髪型に片眼鏡、派手で大仰な衣装。そして、やたらと威圧感のある立ち姿。
また出た!
前にも会った、ゲーチスのコスプレをしている人だった。
しかも相変わらず完成度が高い。衣装が似ているという程度ではなく、顔つきも声も立ち振る舞いも、ゲームで見たゲーチスをそのまま現実に連れてきたようにしか見えない。
前に会ったときは一度きりのネタだと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。ダークトリニティまで三人きっちり揃っていることを考えると、本格的なプラズマ団のコスプレサークルか何かなのかもしれない。
「どうかなさいましたかな?」
「いや、なんでもない」
じろじろ見すぎたことに気づいて視線を逸らす。
そういえば今の俺は、Nになりきることで何故か普通に喋れる状態だった。目の前にはゲーチス、後ろにはダークトリニティ、そして俺はNっぽい喋り方をしている。
ここまで揃っていると、俺まで何かの参加者にされている気がしてくる。
…まあ、いいか
せっかく向こうが本気でやっているのだから、こっちも付き合おう。
「それで、わざわざボクを呼んで何の用かな」
するとゲーチスは満足そうに目を細めた。
「ふふ……やはり素晴らしい」
どうやら演技を褒められたらしい。
ちょっと嬉しい。
「本日お越しいただいたのは、他でもありません。あなた様には、我々プラズマ団の新たなる王となっていただきたいのです」
いきなり設定が重くなった。
「つまり、ボクを王にしたいの?」
「その通りです!」
ゲーチスが力強く答える。その顔があまりにも真剣なので、こちらも適当に返すのは申し訳ない気がしてきた。
とはいえ、答えは決まっている。王なんて絶対に面倒だ。
「断る」
ゲーチスの表情が固まった。
「……なんと?」
「断ると言ったんだ」
「な、何故です!?」
何故と言われても、王になったところで色違い探しの邪魔にしかならない。組織をまとめたり、人前で演説したり、よく分からない理想を掲げたりする暇があるなら、その時間を全部草むらに使いたい。
ただ、そのまま「色違いを探したいから」と答えるのは少しNらしくない気がした。
せっかくここまで合わせているのだから、それっぽく言った方がいいだろう。
「ボクにはまだ、このガラルで手に入れなければならないものがある」
ゲーチスの目が細くなる。
「ほう……それは?」
「光り輝く、珍しいポケモン」
一瞬、部屋の空気が変わった気がした。
「光り輝く……珍しいポケモン……?」
「うん。この地方で探してる」
「それほどまでに、お求めなのですか?」
「できれば全部欲しい」
色違いは多い方がいい。それだけの意味で答えたのだが、ゲーチスは何故か黙り込み、しばらく何かを考えたあと、ゆっくりと口元を吊り上げた。
「なるほど……そういうことでしたか」
どういうこと?
「王という地位すら、あなた様にとっては些末なもの。今はまだ、このガラル地方に眠る力を手中へ収めることこそが重要だと」
全然違う。
「いや――」
「お任せください」
訂正するより先に、ゲーチスは立ち上がった。
「あなた様がそこまで望まれているのであれば、このゲーチス、必ずやその“光り輝く珍しいポケモン”の正体を突き止めてみせましょう」
どうしてそこまで本気になるんだろう。
ただ、色違いを探してくれるという意味なら悪い話でもない。俺一人で探すより、人数が多い方が見つかる可能性は高い。
「……見つけたら教えて」
「必ずや」
やけに頼もしい返事だった。。
「では、私は早速調査へ移らせていただきます」
「うん」
「K様はどうぞ、御心のままに」
そう言い残し、ゲーチスは部屋を出ていく。
一人残された俺は、閉じた扉をしばらく眺めていた。
……。
これで終わり?
王への勧誘断っただけなんだけど。
なんだったんだ、このイベント。
部屋を出たゲーチスの表情から、先ほどまで浮かべていた柔和な笑みは完全に消えていた。
「ダークトリニティ」
呼びかけた瞬間、三つの影が音もなく姿を現す。
「はっ」
「直ちにガラル地方全域を調査しなさい」
三人が跪く。
「K様がお求めになっているのは、“光り輝く珍しいポケモン”です」
「光り輝く……」
「珍しいポケモン……」
「ええ」
ゲーチスは先ほどの会話を思い返す。
王という地位を提示しても、あの少年は一切心を動かさなかった。
名誉でもない。
権力でもない。
財でもない。
そんなものには興味すら示さず、ただ一つだけ求めたもの。
――光り輝く、珍しいポケモン。
しかも、一体や二体ではない。
この地方に存在するもの、そのすべて。
「ただ珍しいだけのポケモンを、あの方があそこまで求めるとは思えません」
ガラル地方には何かがある。
まだ自分たちの知らない、特別な力を持つポケモンが。
「K様はそれをご存じなのでしょう。だからこそ、自らこの地へ足を運ばれた」
当然、そんな事実はない。
しかしゲーチスにそれを知る術はなかった。
「ガラルには、他の地方には存在しない現象があります」
一人のダークトリニティが口を開く。
「ダイマックス、か」
「はい」
ポケモンを巨大化させる不可思議な現象。
それに伴って発生する赤い光。
さらに、この地方では時折、空へ届くほど巨大な光の柱が現れるという。
ゲーチスの口元がゆっくりと吊り上がった。
「……光」
偶然。
そう切り捨てることは簡単だ。
だが、あの少年の底知れぬ眼差しを思い返せば、とてもそうは思えない。
「調べなさい。ダイマックスについて。そして、それを引き起こす力について」
「はっ」
三つの影が頭を垂れる。
「すべては」
ゲーチスが笑う。
「K様の望みを叶えるために」
三人の姿が消える。
静寂の戻った廊下で、ゲーチスは一人、まだ見ぬ未来へ思いを巡らせていた。
ガラル地方に眠る未知の力。
もしそれが本当に、あの少年が求めるほどのものであるならば。
それを手に入れる価値は、十分にある。